OjohmbonX

創作のブログです。

ポーラー・ロゥ (3)

 もう一度眠って次に目覚めれば偏頭痛と一緒に腹立ちと今の悪夢も消滅するはずだ。目覚めれば、無邪気に信じる愚かさは措くにしても経験上、少なくとも偏頭痛は消える。そうでなくても眠ればとにかくこの苦痛は免れる。しかし眠りは私を平気な顔して見放した。鼓動に合わせてズキズキと痛む頭にぐるぐると弟の言葉が近づいたり遠ざかったりする。少し体の平衡感覚が失われているようだ。部屋が回っている。何度も寝返りをうつたびに眠れなさから来る苛立ちが増す。ようやく眠ることをあきらめて目を開いてぼんやり布団やカーテンの布地を見ていると頭の痛みはそのままだけれどともかく、落ちついた。
 それにしても弟があんな風に声を上げて、目をぎらつかせて笑ったことがあるだろうかと記憶をたどってみても、感情の変化を見られるのは恥ずかしいといった風に、伏し目がちにはにかむ顔しか思い浮かばない。どうせならあの笑いを見ておけば良かったと思うものの、目をぎらぎら、などと見てもいないのに断ずるほどなのだから音だけで十分だったかもしれない。
 生まれた時から見られていて積み上がっていった、私に対する弟のキャラクターは、あんな笑いを許さなかったはずだ。弟は自らの積み上げを裏切れるほど快活ではなかったはずだ。それをかなぐり捨ててしまうほどの狂喜は何だろう。弟は複数人でいれば、各相手に対する自分のキャラクターの相違に苛まれて結局、折衷案として無言の微笑を貫かざるを得ない人間なのだ。二人でいれば話し過ぎるほど話すのに、そこへ誰かが加われば黙ってにこにこ笑っているばかりなのだ。その誰かがどれほど親しい相手でも事態は変わらない。相手に対する自分の過去を危うくする恐怖は、弟に黙ってやり過ごす手段を強制する。
 まして過去を持たない相手なら、そのまま無いことを選ぶのが弟だった。けれど弟が望まなくとも、過去を生成させようと誰かが突然話しかけることもある。そうなればまともな応答などできっこない。
「お箸は何膳必要ですか」
「ななな、なな何膳でもいいです」
 ついこの間だって一人で訪れた近所の弁当屋のレジでこうだ。めそめそ泣きながら割り箸がみっちり詰まって膨らんだビニール袋を提げ、坂を上って帰ってきた弟を迎えれば、そのやり取りを直接見ていなくても分かってしまう。袋の口からは大量の割り箸が頭を覗かせている。袋の所々は破れて割り箸が飛び出している。私は袋をそのまま受け取ってすうと家を出る。坂を下って弁当屋に入り、割り箸を一膳一膳袋から取り出して、若い女の店員に突き刺してゆく。
「ぎゃー」
 遠くの猫の喧嘩の声が、人間のババアの遠慮ない話し声に聞こえることがあるが、あんな音で若い女店員は悲鳴を上げる。そして私は彼女に割り箸を突き刺してゆく。
「ぎゃー。いたい。私じゃないですよー。ぎゃー。いたいよー。私じゃないんです」
「そうです。この娘ではありません。あの店員はもう上がりました。今日はもう店にいません。お客様、日を改めて刺しにきてください」
 店長らしき年嵩の女を無視して私は割り箸を刺してゆく。痛みに泣き叫ぶ女の声を哀れと思う。けれど仕方がないのだ。弟を嘲弄した罰は誰かが受けなければならない。若い茶髪の男の客が叫ぶ。
「客が店員に割り箸を突き刺しているような店の弁当なんて、俺、食いたくないよ」
 茶髪は出て行ってしまう。それで店の客は私一人になって集中力が増す。せっせと店員の全身に割り箸を突き刺していく。
「いたいよー。いたいよー」
「悪気はなかったのです。先程のお客様が何膳でもとおっしゃるものですから、あの若い娘は加減が分からなかったのです」
 私もこんな蛮行など真っ平だ。けれど仕方がない。思考など問題ではない。現象だけなのだ。それを誰かが責任を取らなければならない。全身に割り箸が突き刺さった店員は白目を剥いてぴくぴくしている。けれど目も鼻も口も耳もへそもヴァギナも主要な穴へは刺さずに済ませた。私の慈悲である。そうして私が割り箸を刺し終えると別の店員が彼女の脇を抱えて店の奥に運び去ってすっかり店は元通りになった。
「しょうが焼き弁当ひとつ」
 いつの間にか戻っていた茶髪の男が平気で注文する。私の袋の中には二つの弁当と二膳の箸が残されてあるばかりだ。全てが何事もなかったような顔をしている。頭がくらくらする。まるで嘘みたいな振りをしている。弁当を抱え上げて胸に当てる。弁当はもう冷めてしまった。それが時間の経過を誇示している。人間はすぐにエントロピーを目に見える範囲で下げようとする。しかしこの弁当は確かに冷めているのだ。これは確からしい。
 坂を上ると弟はにこにこ笑って弁当を受け取った。冷めた弁当を二人で食べた。暖かな春の日のことである。


 目が覚めた、ということはいつの間にか眠っていたようだった。開いていた窓に真っ白のレースのカーテンが吸い込まれたり、春の風を孕んで部屋の中へ膨らんだりして呼吸する動物、特に人間の腹みたいで気持ち悪いので、こちらへ膨らんできたタイミングを捉えてカーテンにパンチした。思い出せば腹が立つ。弟は私が知らない歓びを知っていると言わんばかりだった。口の歓びだとか、思い上がりも甚だしい。自分以外誰も知らない何かなんて、あると言えば全てがそうだし、ないと言えば一切がそうでない代物なのに、まるであの「口の歓び」だけ特別あることにして弟はいい気になっている。噴飯物だ。しかし吹き出すのは飯でも笑いでもなく怒りなのだから始末が悪い。パンチするとカーテンはさらにゆっくり膨らんできて、むわあと私のこぶしから腕、顔までを容赦なく覆った。私は息苦しいわ白いわで腕を振りまわして逃れようとするのにますます覆われていく。何もかもが白い。無言で暴れている私を残してその後カーテンは部屋の外へすうと吸い込まれていった。私を馬鹿にするんじゃねえ! 勝手に逃げたカーテンの胸倉をつかんで思い切り引きちぎったら、カーテンレールはひん曲がり、ぽろぽろと小さな白いプラスチックの部品がそこから落下し、私に捨てられたカーテンは白いままぐちゃぐちゃになって、床にうずくまって死んだ。あたしを舐めるからこういうことになるんだ。
 寝起きに激しい運動をしたら疲れたのでベッドで大の字になる。眠くはないので目を開いたまま天井を見ていると、ずっと住んでいる家なのに天井は変な模様を薄く描いていて、結局のところ、あんなに腹が立つのは自分の知らない弟がいることに耐えられないからだろうとぽつんと気づいた。冷静になってみるとカーテンを引きちぎるなんて良くないことをしたと思う。修理する出費と自分の行為を自分で贖う惨めさを思うとつらい。
 これはたぶん家が悪い。家のつくりが悪いのだ。家が悪いと心がすさむ。


(つづく)