OjohmbonX

創作のブログです。

ポーラー・ロゥ (4)

 この家は死んだ父が設計した。開かれた家を目指す、家族の間を仕切ってはならない、プライバシーを尊重しつつ、けれど気配を感じるように、明確な部屋という概念は捨て、ドアは作らず、壁にはどこかしら透き間をあける。という思想でとても地震に弱そうなすかすかの家ができあがった。落成した家を誇らしげに説明してまわる父の後ろについていく母の顔が幽霊みたいに妙にすべすべしていたのを私達は見た。自分も今そんな顔をしているのかと気づいてぞっとした。父は一人でつやつやしていた。
 私のスペース――部屋という概念を捨てる、というコンセプトなので父は「スペース」と呼ばせていた――は他の家族のスペースと比較しても一層すかすかの隙間だらけで、特に我慢ならなかったのは弟のスペースとの境界となる壁が天井に近いあたりで開いていたことだった。近所のスーパーでネギの段ボールを調達し、なるべく段ボールのオシャレな部分を切り取って透き間を埋めた。けれど私のスペースを訪ねた父がこの埋められた透き間を目にした途端、急に幽霊みたいな顔をして、それでも何も言わずに用を済ませて帰っていったのを見て私は段ボールを急いで外して捨てた。そもそもネギ臭いのが気に入らなかったし、デザインも最悪だった(ネギの段ボールにオシャレな部分なんて結局、存在しない)から、いずれにしても捨てるつもりではいたのだと自分自身に負け惜しみを言った。
 それからは父に気兼ねして誰も塞ごうとはしなかった。弟は上手く死角に体を滑り込ませて気配を断っていた。母は自分のスペースを持たずにキッチンかリビングか、父と共用のベッドスペースのいずれかにいた。母はスペースを用意されていたがそこを空にしたままにしていた。以前の自室を失ってから、大切にしていた服や宝飾品や化粧道具や、昔の写真や手紙を次々と無言で処分して必要最小限をやや下回る物しか母は持たなくなっていた。
 気配が届くのを楽しむ父と、気配を断つ弟と、家に消滅しようとしている母に囲まれて私は、どこにいても常に自分の臭いが空気を変えて、音が空気を揺らして誰かに届いているのかと疑うばかりで息が詰まって仕方が無かった。
 そして父が死んだ。幽霊みたいな顔をして暮らしていた私達が生き残って、一人でつやつやしていた父が先に死ぬなんて妙な気もするが、でもまあ、そんなものかとも思った。火葬場で父の煙を見送った後、帰りにスーパーでありったけの段ボールをもらって、ついでに食材も買い込んで、その日の夕食はクリームシチューと刺し身の盛り合わせと大量のカキフライだった。その後、母は急にンフフフ。という気持ち悪い笑い方をした後、ギョボォー、ギョボオォォーと最後の水を吸い込む排水口のような音を発した。残された家族たちは段ボールで隙間を塞ぎ、ドアを作った。技術力がないのでガムテープを多用した。父が幽霊の顔をしてみせた弟との間の透き間は光がいささかも漏れないほど念入りに塞いだ。
 それぞれが部屋に納まった後、意味も無くすみやかに母は死んだ。やはり顔の様子はあまり生き死にに関係ないのかもしれない。


 部屋が生まれるとかえって相手を気にし過ぎるようだ。外からは居るのか居ないのか分からないのでわざわざ玄関まで行って靴を見る。ドアを叩いて声をかければ済む話だがそもそも用など無い。以前はそれでも微かな気配で知れたが今は一度部屋を出て弟の部屋のドアの前に立ち、透き間から漏れる光の有無で確かめる。家の外から窓を見て明かりがついているかどうか、郵便物が届いているかどうか、食事を家でとったかどうか、自転車が置いてあるかどうか、いつ帰ってきたか、いつ出て行ったか、洗濯物は出ているか、ゴミは出ているか、その内容は何か……最初はかすかに気になったことを軽く確かめていただけなのに、それが罠だった。罠だと知ったときにはもう遅い。確かめずにはいられない。こんな下らないことをと思ってもやめられない。自分が遅く帰ったのに弟がまだ帰っていないとき、自分はすることもなく休日に家にいるのに弟は外出している時は本当に我慢がならない。別に家にいたところで特に用はない。しかし許せない。
 底の底には自分を弟の上に見る意識があるらしい。私が犬で全員が私の主人ならどれほど楽だろう。どうも勝ち負けを意識しないと生きていけない。不平等をそこかしこで目ざとく見つけてゲット・イーブンを目指す習性に隷従している。せいぜい表に出さないように取り繕うのが関の山だ。こんなにしょっちゅう腹を立てて、壁は犬だらけ、近所にはサイレンが響き渡り、カーテンは床に転がっているし、段ボールにまみれた家に住んで、弟の状態を確認しては自分の方が上だと信じ直す日々があまりにひど過ぎるので涙が真横に垂れ落ちるのだった。
 おぉうおぉう、うぐーっと一通り泣いたら気持ちが落ち着いて、ベッドの上で体を横に転がしたら、頬にさっきの涙で濡れて冷たい布団が触れて気持ち悪さに猛烈な怒りが全身に漲ってくる、全てドアが悪い、隠されるから知らずにはいられなくなる、全部何でもないことなんだとわからせなければならない、弟の部屋のドアがまずは悪い、私はバールのような物を手にして手始めに自分の部屋のドアを破り、足で踏み付け、廊下に出、少し重たげに、ちょうど重い武具を身に纏った赤穂浪士のイメージでしばらく廊下をのしのし往復しオノオノガタ(私しかいないけど)、ウチイリデゴザールと大声で叫んでみると怒りの興奮が楽しさの興奮にすり替わって弟の部屋のドアをバールのような物でウチ、ウチ・ウチ・ウチイリデゴザールデ・デ、デ・デ・デンチュウデゴザルとラップを歌いながら、このドアの向こうで恐怖する弟の顔を想像すると絶望的に楽しくて、ドアを壊すとその向こうにいたのは見知らぬ中年女だった。
「何よ、びっくりするじゃない」
私の最高の気分は一瞬で冷やされ、引きずり落とされたのだった。


 私が緊張しながら手の中のバールのような物を強く握り直し、ベルベットのどす黒く真っ赤なドレスをビラビラさせている中年女に
「誰ですか」
と間抜けに聞くと女は
「もちろんあんたの弟の彼女だけど、何? あんた、一人で弟の部屋のドアをノリノリで壊したりして、馬鹿じゃないの」
とニタニタ笑っている。私は冷静に、具体的な効果として汗でバールのような物がどの程度滑って威力が減るかを計算りながら改めて強く握り直す。
「ここじゃ何だしさ、リビングに行くわよ」
と女は私の横を当然の顔して擦り抜けて階下に降りていった。この家に対して主導権を握るべき存在の私を平気で無視する態度に腹を立てながら黙ってその背についていく。女の背の肉がたっぷり揺れている。握り直す。


(つづく)