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OjohmbonX

創作のブログです。

ポーラー・ロゥ (5)

 リビングのテーブルに向かい合わせに座る。改めて女の顔を眺めると、白い粉の吹いたまんじゅうの真ん中に顔の具材が集まり過ぎている。目はアイラインの黒さに紛れ込んでいまいちどこにあるのかわからない。パンダのようだと言えば聞こえはいいが、「パ」の持つ破裂音の軽やかな響きをこの醜悪さに適用するのは適切さをあまりに欠いているので濁音に代えてヴァンダーと呼ぼう。そしてクレヨンのような赤さの唇は、欲望にまかせて骨付きのチキンをむさぼり食ったみたいにぬらぬら光っている。グロスを塗り過ぎなのだ。そのぬらぬらが、うねうね蠢いて、言葉が出てくるのは冗談みたいな光景だ。発せられる言葉とは無関係に蠢いている。呆然と白いまんじゅうの上の赤い蠢きを眺めていて耳に入る言葉が焦点を結ばないでいると、突然怒鳴られた。
「あんたァーッ受け取りなさいよッ」
 思わず目の前に押し出された物を受け取る。胸に抱える大きさの円筒形の紙製容器はケンタッキーの何とかバーレルだ。人の家に勝手に上がり込む非常識さと人の家を訪問する際に手土産を持参する律義さとの齟齬もさることながら、ヴァンダーが本当にチキンを持ってきたことに唖然としていると
「トロいんだよマジで。ちゃんと捨てといてよねマジで」と言われ、慌ててバーレルの中身を覗けば、あるのは肉がきれいに失われた骨たちばかりだった。
「来る途中で小腹が空いたからさ、ちょっぴりつまんだだけよ、悪い?」
 ヴァンダーはちょっと恥ずかしそうに頬を赤らめた。小腹の定義がこれほど大きな振幅を持っているとは驚きだ。欲望にまかせて骨付きのチキンをむさぼり食ったヴァンダーは、唇をぬらぬらに蠢かせながら、訊いてもいない話を自動的に話し続けている。
「あたしってさあ、結構メンクイじゃん? 若いころ、そう、ちょうど日本のGDPがすごかった頃、あたしのGDPも半端無かった。私が渋谷で『ふぁっくしょいや、ふぁっくしょいや』ってクシャミするじゃん? 男が群がるの。なんでかって、そりゃ、ファックしよう、って聞こえちゃうのね。女の溢れる魅力ってオーラの泉じゃない? 涸れるってことがないのよね。その匂いを男たちが嗅ぎ付けるって寸法。それでセックスするじゃない。男たちはみんな、あたしのこと『丸太抱いてるみてぇ』っていうの。当時は意味がよくわからなかったけど、四十代の今ならわかる。人ってみんな世間という名の大海原を漂ってる漂流者じゃない? その寂しく長い人生という名の漂流の中で、一本の丸太が浮いている。それがあたし。そこにほんの一時しがみついて男たちが安心する。男たちにささやかな安らぎを提供するってのがあたし、海のオアシス。ギラギラに飾り立てたセックスシンボルが実は渋谷の聖母ってわけ。あんたはダメよ。全然。化粧っけがなさすぎなのよ」
 急に矛先が私に向いた。家にいるしお前のような化け物に会う予定などなかったのだから化粧っけがないのは当たり前なのだが、ヴァンダーは自分が若い女の子にリスペクトされるお姉さんのポジションに突然魅力を感じたらしく「あたしの道具はさあ」と自主的に化粧ポーチを取り出し「特に口紅がポイント。オトコって唇の魅力にメロメロなんだから」と誇らしげに掲げたのは赤いクレヨンだったから頭がクラクラした。
「そのルージュはあんたにあげる。伊勢丹にも売ってないモノホンなんだから。発色が違う。まだ雑誌でも紹介されてないし、ここだけの話、クレヨンなの。あたしが発見した。でもあたしだって女よ。男のオアシスになるだけじゃ物足りない。男ってあたしで一休みしたらすぐに行ってしまうの。でもあたしだって漂流する丸太よ。誰かあたしを導いてくれるモノホンの男と、ずっと一緒に大海原を旅してみたいの。そんなときに出会ったのがあんたの弟。コンビニの店先で、停めた自転車の荷台に軽く腰掛けてた大学生の男の子。その隣に、良く似た男の子が立って、自転車のペダルを軽く蹴ってくるくる回しながら、二人ではにかんでお話ししてた。二人ともよく似てて、背が高くて線が細くて、髪が耳も眉も覆うくらい長くてさらさらしていて、ビビビときたわ。ちょうどそのころテレビで年上の女が年下の男の子と付き合っていろいろ教えてあげるのが流行ってる、みたいな特集をやっていたから完全にこれがそれだと思った。時代があたしに追いついた。あたしがハンドバッグを振り回しながら、このチャンスを絶対に逃さないように全速力で走り寄っていったら、もう一人の男の子が、大人の女の魅力(極上にムンムンに匂っている)にぎょっとして逃げていった。この時点でお友達は脱落したの。あんたの弟は細かく震えながらじっとあたしを見つめてた。きゅんとしたわよ。当たり前じゃない。世の中の悲しみを全部引き受けてますみたいな顔してさ。あたしは丸太。とにかく今はあたしに掴まりなさい、好きなだけ掴まりなさい。そしていつか、元気が出てきたら、あたしをビート板がわりにしてバタ足で君の信じる水平線へ進むといいわ。あたしは君をどこまでも浮かせてあげる。今日からあたしは君だけの丸太、みたいなことをお話ししてる最中に自転車であんたの弟はどこかへ去ってゆくからあたしは追いかけた、聖母のステータスさえかなぐり捨てて、ハイヒールが邪魔だから投げ捨てて、裸足であたしは走った、アスファルトのぎざぎざが足裏のツボを刺激して、力がますます漲ってきた。あたし思うんだけど、地球の全部があたしにとってパワースポットなのよね。走って、走って、そうしていつの間にかこの町に越してきたの。それで今日は引っ越しの挨拶にきたってわけ。どうぞよろしくね、お姉さん」
 あ、はい、と思わず差し出された手を握り返したことを後悔しても遅い。汗なのかチキンの油なのか知らないけれど、とてもねちゃねちゃしていた手を握ってしまったから後悔しているだけではなく、まるで受け入れてしまった形になったのがまずい。ルージュまで受け取ってしまったし。しかもこの女、墨汁みたいな臭いがする。これが極上にムンムンに臭っている大人の女の魅力なのだとしたら、私は大人になんてなりたくない。


(つづく)