OjohmbonX

創作のブログです。

ポーラー・ロゥ (11)

 周回、この軌道から抜けるなんて事が可能かはわからない。けれど自分がその輪に閉じ込められていることだけでもせめて弟に分からせてやりたいと私は思った。
「相手に何かを期待するなんて愚かなことよ。ただ、治療する、治療される、それだけで十分じゃない」
「でも二人が幸福だったときの記憶が今を苦しめるんだよ」
「二人が、なんて嘘よ。あんただけ。そしてあんたが治療に満足していればそれで十分じゃない。歯医者に行きなさい」
「説教ならいらない。姉さんは何も分かってない。歯医者に通ってなかったから何も分かってない」
「私がどんな気持ちで、他のだれでも無い、あんたに歯医者に行けって言っているのか分かろうともしないで。あんたは本当に肝心なことは、何にも分かっていないし、分かろうともしていない」
 そんな風に非難めいたことを言ったところで何も意味は無いと分かってはいても今の会話で咀嚼されたエビの大半が双方から撒き散らされた。エビも私の投げた言葉も無駄になろうとしている。それでも、たとえ栄養にならなくてもエビを口にした触感や匂いや味をその瞬間だけでも楽しめればそれで満足しようと私は思う。弟はべちゃべちゃのエビを見つめてぼそぼそ呟いた。
「でも、楽だね。通っているうちはずっと歯医者のことを考えていたけれど、通うのを止めてからは少しずつ忘れていっている」
 エビの残骸を見つめる弟を見つめて私は拍子抜けした。弟は知っている。一周遅れでもなかった。分かっていて、それでもなお、どうしようもないのだ。歯医者をあきらめて口を腐らせていくか、あるいはあの不平等に苛まれながら再び通い始めるかしか弟には許されていない。それは別の歯医者に変えても結局は逃れられない。不平等は理性的には解決済みでも感情的には飲み込めない。飲み込めずにわだかまっていくだけだ。弟は自分とその姉が吐いたエビを見ている。
 この先どうなるかは分からないけれど、とにかく見ていこう、弟に視線だけは注ぎ続けようと決意したその翌日に歯医者から葉書が届いていそいそと弟はまた通い始めるとすぐに口臭は消え、歯医者礼讚を頼んでもいない私に聞かせて掲示板に連載を再開したのだった。歯医者からの葉書はただの挨拶だ。患者全員に送っている印刷された葉書の余白に一言ボールペンのやや青みがかった黒い字で「お時間のあるときに診察にいらして下さい。」と書かれているだけだった。きっと歯医者が書いた字ですらない。受付の女の子が仕事の合間に書いているだけだ。
 テーブルに張り付いたままのエビの残骸はもう乾いていた。私はそれをつまんで食べた。ちょっとしたスナックだ。ぽりぽり。弟は分かっているくせに目をつぶって見ない振りに決めたのだ。あんな葉書一枚で不平等が解消されたことにした。自分が相手を考えているのと同じ程度に相手が自分を考えている、そのバランスがあの葉書一枚で回復されたことにして「口の歓び」だとかを得に弟は今日も歯医者に行った。恥ずかしげもなく掲示板に連載しているところを見ると、自分が見ない振りを決め込んでいるという自覚すらないのかもしれない。突き詰めるのをやめれば幸せなのは確からしい。
 私はエビを食べ終えた。日はまだ顔を出していない時間のはずだが空は既に緩み始めている。弟は家にいない。今日は歯医者の日だから前夜のうちに発っている。そういうやり方で抑制もなしに自分を預けていけば、最初は幸福感に満ちていながらまたどこかで別の不平等を必ず目敏く見つけて苦しむに決まっている。けれどきっと弟は恥じらいもなくまた別の口実を見つけ、不平等を見た目だけは解消してこの周回を回る自分を知ろうともせずに回り続けるだろう。ひたすら弟のことを何でもない振りをして内側に必死で抑え込み続けている私と、恥知らずにも顕にして楽しみ続けている弟がそれでも同じ位置にいるなんてあまりに残酷だけれど、私はそれを許そう。家の窓という窓、扉という扉を開け放ち、食器を片付け、洗い、掃除機をかけ、洗濯機を回し、鏡を磨き、弟の部屋を整え、自室も整えると午前六時だった。既に日は夜を退かしてかすかなざわつきが漂っていた。こんなことなら最初から気づかなければ良かった、同じ回るのなら私も知らずに回り続ければ良かったとも思うが仕方がない。それが苦しかろうと私は知ってしまった私を全的に肯定する。性懲りもなく私の部屋の白いカーテンが穏やかにへこんだりふくらんだりしている。レールともども買い直したばかりだから染みひとつなく真っ白だ。ライターでささやかにカーテンへ火を付けると化繊はたちまち燃え上がった。さっきまで穏やかで割に規則的だった動きは炎の熱で乱されている。私は部屋着から外出着に着替えた。鮮やかな赤いキャミソールを選んだ。酸素を手放す前の動脈の血をその赤に想いながら部屋を出た。冬の終わりに返しそびれた灯油を撒いては家中に火を付けてまわった。途中で庭に降りて墓標をつかんでそのまま流れるようなオーバースローで隣家に返した。小人はガラスの割れる音を立て、隣人は悲鳴を上げた。勝手に叫んでろ。私はもう行くね。


 外に出るとべったり肌に張り付いてなれなれしく圧力をかけるいつものこの時期の空気はいなかった。どこへ行ったのだか知らない。まるで他人のような顔をして私に冷たい空気だけれど、その方がずっと楽なので私は好ましく思っているから放っておいた。まだ午前七時を少しまわったばかりだった。
 今日は王貞治の誕生日だ。そんなことを知っているのは何も私がファンだからではなく、王と同じ誕生日を持つ私の姉が毎年毎年そのことを自慢するからだった。そのたびに、王が八四六号のホームランを打ったバットを苗字にちなんで八代亜紀にプレゼントしたという心温まるエピソードを誇らしげに語るのだ。
「王が八代にバットをプレゼントしたの。すごいでしょう」
 朝の上りの田園都市線は、知識に知ってはいても目にするのは初めての混雑振りだった。今日が週の真ん中だということが、乗客の数の増減に関係しているのかいないのか、よく知らない。プラットホームでは一つの未来のドアにつき四列をなして長く長く並んでいる。絶対に自分の前に列車のドアがやってくると信じて全員が無言で待っている。私は階段から一番近い列の左端最後尾に並ぶ。よく見ると先頭で、さらに左側に五列目をたった一人で形成している男がいる。一人で立っているだけだから列と呼ぶのは適切でないかもしれないけれど、これは確かに五列目なのだ。男はちらちら後ろを伺っている。私は完全にこの男を理解した。
 男はきっと前の電車が去った直後に三ないし四人目としてあの位置に立った。自分が四列のうち左端列の先頭になると信じて。けれど四人が先頭として立っていたところへ、五人目がさらに右端に先頭として並んだのだ。四列しか許されていないルールに逆らって五人が並んでしまった。そして次段は男を残して右詰めに二行四列を形成した。男を不法な五列目に仕立て上げたのだ。そこからは二段目に倣って長い長い四列が出来上がって、男は誰も自分に従わなかった後ろをちらちら伺うことになる。


(つづく)