OjohmbonX

創作のブログです。

ポーラー・ロゥ (14)

「見学してますね」
 一応そう断ると歯科医がほんの一瞬だけ手を止めて再び作業を続けた。ほとんど気のせいとも思える瞬間だったがかすかに遅れて弟がちらりと目を開いて私を見るとまた目を閉じた。私を認めたのは確からしい。けれど治療は変わらず進められた。何か魅せるという意思も見えない。例えば授業参観でそわつく教師と生徒の心情からは遠く隔たったこの余裕は、私に腹を立てる余地さえ与えずに流れていってしまう。私はひたすら見るだけだ。見ていると、治療を詳しく知っている訳ではないけれど、普通は助手が歯科医とは患者の頭を挟んだ向かい側について、唾液や水を吸い取る装置を操作するものだと思っていたが誰もいないのだ。
「いるわよ」
 振り向くと助手の女が吸い取る装置を持って立っていた。名札には「歯科衛生士 田中」とあった。白衣は薄く桃色がかっている。顔はマスクに覆われているが目の印象で私と同年代のように思われた。
「ちゃんと弟の唾液を吸い取って下さい」
「いいのよ、別に」
 そう言って田中は私の頬に器具をあて、吸い始めた。私が手で器具を払い除けると田中は特にこだわりもない様子でそれ以上は吸わなかった。田中は黙っている。私も黙っている。治療は続けられてゆく。治療が気になってそちらへ視線を振り向けるとまた田中は私の頬を吸った。また払い除けるが田中は黙っている。
「やめて下さい」
「じゃあこんなのは、どうかしら」
 田中が器具のボタンを操作すると、先端から逆に唾液が噴射された。私はそれを避ける。田中はやはりこだわりも見せずに私を追いかけはしない。床に唾液が垂れ流される。
「何のための機能なんですか」
「さあ。私にもよくわからないの」
「汚いので止めて下さい」
「いいわよ」
 器具は停止した。二人は黙っている。私は治療に目を向ける。田中は声で遮る。
「久野さんのお姉さんね。身内でも他人だから、見学なんて許されないわ」
「あなたに許してもらう必要はありません。私が見たいと思ったら見ます」
「だったら、こうよ」
 田中はバズーカのようなものを肩に担ぐと私に狙いを定めて発射した。かろうじて避ける。私のすぐ脇を黒い固まりがかすめた。思わず行く先を振り返ると壁に犬が刺さっていた。私はこんなのは違うと思った。犬に素手で触れて、つかんでその動物の温かさに脅えながら壁の感触を指先で確かめて、それでもなお挿すのとはまるで隔絶している。
 私は田中の懐に飛び込んで細い腰を抱え込み、そのまま自分の腰を反り返して後ろに放り投げた。田中の上半身は壁に突き刺さった。これが正しいやり方だろうと私は思った。ようやく治療に目を向けると、突然腰の辺りに重い衝撃を感じた。痛みに呻きながら見れば腰に犬が刺さっていた。急激にその部分が熱くなる。入り口から続々と歯科衛生士の女たちがバズーカを担いで治療室に入ってきた。犬の雨が私に向かって水平に振る。必死に避けながら、けれど何匹か体に刺さりながらも接近して女を放り投げる。女たちは全員が「歯科衛生士 田中」の名札を胸につけていた。バズーカは装填に時間がかかるらしくその隙をついてせっせと田中を投げる。白い壁には犬たちと田中たちが刺さっている。
 再び犬の雨が強まる。雨を縫って田中を投げる。犬が私に刺さる。身体が重くなってゆく。バズーカの装填で雨が一瞬止む。止んだと思ったら今までよりはるかに重い衝撃で犬が身体に刺さって思わず膝から崩れる。たった一人、田中たちの中でバズーカではなく素手で犬を投げている女がいる。薄桃色の清潔さの中、一人だけどす黒い赤のドレスを翻している。細身の中で一人肉を豊かに揺らしている。マスクで覆われることもなくぬらぬらの唇をわななかせる。重く速い犬を投げ続ける。ヴァンダーだった。
「あなたも歯科衛生士なの」
「私はうどん屋で働いてるに決まってるでしょ。掲示板でこの歯医者がオススメされてたから来てみたっていうのに、受付の女は床に寝てるしおかしいと思ったのよ。診察室に入ったら、みんなで犬を発射してるし」
「あなた犬アレルギーじゃなかったの」
「治った。今じゃあたし、犬を飼っているのよ。さっきあんたに刺さったのがショコラ。そしてこれが、」
 ヴァンダーは周りに纏わり付いていた犬の一匹を右手で拾い上げ、胸の前で一度止めて一呼吸おいた後、左足を浮かせつつ右足で支えた腰を後ろにひねり、オーバースローの右腕を振り抜く途中で犬をリリースし、斜め上から真っすぐ私目がけて放たれる。私は迫る犬を見つめて甲子園を夢見た。たった一試合でも負ければもう終わり。勝ち続けなければならない。私たちはドラフトがかかるような選手じゃない。勝っても負けてもそれ以上は何も引き起こさない、ただ、勝つか負けるかだけしかない。私は構える。腕を振る。犬は私の腕を摺り抜けて腹に突き刺さる。
「これが、ジェニファーよ」
 まだツー・ストライクだ。
「サンドラ、クリーム、グスタフ、ミロ、パパロ、……」
 ヴァンダーが名前を呼ぶと犬が次々にわんと吠えて返事をしていった。犬は吠え声で確かに空気を振動させて私達の鼓膜まで伝えたのだ。それが可能な生き物なのだ。ただそれだけの、当たり前のことをすっかり忘れていた私を私は驚いている。
「ところであんた、自分の犬はどうしたのよ」
「燃やした」
「それはいけない。犬を燃やしてはいけない。あんたの犬の名前を今ここで並べてみなさい」
「名前なんて無いよ。名付けるってこと自体考えたこともなかった。私が名付けたのはあんただけよ、ヴァンダー」
「ヴァンダーって何? あたしは山田」
「そう。どっちでもいいけど」
 金属のぶつかり合う乱暴な音がして視線をそちらに振り向けると歯医者が器具をトレイに捨てたところだった。弟は目を開いて口を軽く閉じかけながらそれを見ている。マスクをゆっくり外し、それを床に捨てながら、三十代前半に見える曾根医師は、ぴったりした薄手のゴム製の手袋を両手とも外してそれも床に捨て、剥き出しになった右の大きな手のひらであまり大きくは無い重之の頭の側面を、髪をすきながら包み込むように軽くなでて抱いた後、あくまでゆっくりと自分の顔を近づけてゆく、目を静かに閉じる。やめろ! これまで語ってきた私達の言葉どもを犬死ににする気か! と頭の中で響くだけで制止の言葉は私の口から叫ばれない。ただ、装填を終えた田中たちが放つ犬が身体に突き刺さるたびに低い呻きが漏れるだけだ。発散と収束を同時に起こしつつある私の視線とこれまでの積み重ねをさっぱり亡きものにして曾根は重之の唇に唇で触れた。触れて、押し付けて、舌で割って入り、口の中を探り合っている。
「よそ見をしている暇は無いわよ」
 ほとんど耳元で聞こえた声で我に返ると白い塊が視界いっぱいに広がっていた。白いと思う間もなく私は弾き飛ばされた。山田に素手で殴られたのだ。顎を下から打ち抜かれたのだ。軽い脳震盪を起こしてふらついた後にようやく怒りを見出し、痛みも忘れて喉のつかえを破って叫べた。
「甲子園はどうしたのよ!」
 けれど私の叫びは同じ切実さを伴って山田には受容されなかった。要領を得ない顔付きでいる。私は続けて理解を得ようとする。
「あんたが犬を投げて、私が仕留める。私たちの甲子園はあとワン・ストライクなのに、どうして素手で殴る」
「知らないわよ。何言ってるの」
 私はアァーアァアー。甲子園球場のサイレンを絶叫する。山田が放つ大振りの右の拳をかわしつつ懐に飛び込んで肩から全力で体当たりした。白い肉と赤い布がたっぷりと波打ちながら白い床に落ちる。曾根と重之に目を移せば二人は口のみならず服の裾から手を突き込んでまさぐり合って皮膚の感触をダイレクトに楽しんでいるところだった。もはや台無しだ。
 寄ってたかって誰もが何もかもを台無しにする。私ばかりが上手くいかない。けれど私の側から見て台無しになっているだけのことなのだ。私が整えるのとは別のやり方で私ではない彼らの全員がそれぞれ整えようとしているだけだ。それなら仕方が無い。勝手にやってくれ。私は私のやり方で結局は整えるしかないだけなのだ。とにかく体が重すぎる。刺さっているうちの一匹を引き抜くと一気に血液が流れ出て少し気が遠くなる。田中たちを腕で押しのけ、犬を体から引き抜き、引き抜くごとに血が流れ、離れようとする力と意識を意地で引き留め、一歩、一歩を踏んで、肘で田中を追いやり、その反動で何とか次の一歩を踏む。そうして進んで診察室の外に出て、犬を抜き切った。ほんの少しでも足を止めればその瞬間に何もかもを手放して崩れ落ちるとわかりきっているほどの熱さと寒さを同時に感じて息を吸って吐くのもぎりぎりの、吸って吐く波の中で、やや重い、外へ続くドアの前に立って身体をドアに預け、体重をかけ、ひときわ大きく息を吸った後、低く絶叫しながらドアを押し開く。
 叫びに応えて犬が鳴いた。
 名前もない確かに自分の犬たちが歯医者の出入り口の前に自分を囲んで待っている。犬とはそんな生き物なのだと思って撫でてやるが手は空を切るばかりだった。小型犬に合わせてしゃがむ力もなく物憂い中でぎりぎりの縁で気力を保つ意地はこの犬たちの声を耳にし沸き立つ獣の匂いを鼻にし空気を孕んだ毛を目にすれば言葉の余地もなく直接、膝が抜けて思わず空を仰ぎ見ると、悪い冗談のように乾いた空が絶望的な青さで、手を伸ばせばそのまま無限遠で吸い込まれそうな、手を伸ばしても掴まるところも与えてくれない底無しの青が、視界一面に奥の奥までその暗さを容赦なく叩き込んで、あまりに深い底の無さは黒を思わせるほどだったのに、黒を見させる青は一瞬で全てを白く飽和させて、久野理絵は意識を手放した。


(了)