OjohmbonX

創作のブログです。

圧力と熱 (3)

 終わったけれどこうして二階から母はまた七年経って私を見下ろしている。宣告を下そうとしている。口はすでに言葉のための形を形作っている。
「ああ、」
 漏れた嘆息の後にゆっくり
「臭い、臭い」
と母は言った。長い長い細くて長い鈍く鉄色に光る針を一本、頭の天辺から刺して標本にされた虫みたいに私を床に釘付けにして、肌を合わせた直後の匂い移りを嗅ぎ付けられたかと思った。あれから私たちは中学に上がったのだった。
 際江小からは通学途中になかった炒地川にかかる橋も、際江中からはその行き帰りに毎日通るようになって、それまではどこか、正確にどこにあるのか、行き道も知らないけれど、確かに近くにはあってふいに現れる橋、くらいの気でいた――もちろん実際には行き方くらい知っているが、気分としては――のが、本当に日常にべったり張り付いてレア感を失いただの橋に成り下がっていたところへきて、三尾が、丸一年続いた総合学習の成果として、炒地川の先には取水堰があって、海へ流れる前に止められる旨を発表しようとした。発表会の前に知って私は三尾に接触した。数えてみればもう二年近く前になる彼の股のふなふなを思い出す。思い出すと言っても指先に感触が甦る訳ではなく、ただその場面を、他人が映した像のように遠く離れて見ているだけのことだった。小柄だった三尾は横幅を変えないままいつの間にか背ばかり高くなり、ほんの少し見下ろされた私は、横平のため取水堰のことは黙っているようにと厳命した。川流れの父を持つ横平も同じクラスにいた。あの日橋で大人たちを見送った毛の第一世代たちに、横平はたびたび父の川流れを自慢する風で、
「うちのお父さんさあ、海になっちゃったじゃん?」
を口癖にして私たちを苛立たせていたが、働き手を失った横平の家は、祖父母も絶えて苦しいようで、せめてそれくらい言わせてやろうと、そんな空気に満たされていたから言わせるままにしていたが、ここで実は海に流れていない、そのまま取り込まれて人々に利用され、下手すれば私たちがお父さんのエキスを飲んでいたかもしれないと知ればあの女は壊れるかもしれない、そうでなくとも、あまりに惨いと思って三尾を止めた。三尾はきょとんとした顔で、
「うん。」
と言った。
 三尾は発表会で、
「僕は総合学習で、炒地川をテーマに調べました。炒地川は、際江中の近くに橋があります。その下流は、海につながっています。」
と言って黒板に貼っていた手書きの炒地川の地図――下流の一部に紙を貼って訂正してある――を指し棒で辿りながら
「川の水は海に流れています」
と海に流れ込んだところで、クラスメートに向き直って
「これで発表を終わります」
と何でもないことのように言って黒板の地図を剥がして、引き上げた。クラスメートも教師もぼんやりして拍手も起きなかった。炒地川を導入として取水堰についてあれこれ調べたことを発表する予定だった三尾は、導入を奪われて発表のほとんどを失っていたのだった。
 誰もその発表について何も言わなかった。進行役の教師は質疑か感想を求めるのが流れだったがそれもなく次の生徒の発表に移った。せめて直接叱られれば立つ瀬もあるのに、なんとなく無かったこととして流されようとしていて、けれどこの異物は流されきれずに引っ掛かってそのままなのだ。
 私なら、引っ掛かってしまった事態を言い繕おうと誰彼とも無く、本当のところそんな川に引っ掛かった流木のことなんて誰も忘れてただの風景と化しているだろうと知っているのに、言い訳がましくあれこれ並べ立てるところが、三尾は本人すら忘れてしまったように気にもしていない。昼休みに空き教室に一人で窓から外を見下ろしていた三尾に近づいて、本当はどんな発表をするつもりだったのかと話の中身には何の興味も無いまま、この言い訳を聞かないとこちらの方が安定しないように思えてきけば、三尾は急にきらきらし始めた。
「あのね、取水堰って、すごいんだよ」
 三尾は取水堰の構造の説明を始めるのだったがどこがすごいのか私にはまるで分からなかった。そのうち堰一般の話に変わり、ダムの話にすり替えられ、最後には「ダムってすごく大きいんだ」と三尾は言った。
「それで、もし、人が吸い込まれたら、どうなるの」
「うーん。だめだと思う」
 横平の父親が吸い込まれて、水に溶けて、私たちの飲み水になったと想像しながら、今の吸い込まれたらダメというのは取水堰ではなくダムのことを言っているのではないかと疑ったけれど、話し終えて少し上気したようでなお眼を輝かせているほんの少し私よりも背の高い痩せて手脚ばかり伸びたようなこの、上は白い体操着下は紺のジャージ姿の男子と、昼休みが終わって五、六時間目も終わって部活も終わって、予期もせず下駄箱で一緒になって並んで帰り、炒地川も通り過ぎれば私の好きな男子は三尾なのだと決めた。誰を好きかを言い合うゲームに今後は三尾を使うと決めた。
 中学に上がってしばらくするうち四、五人の女子のグループがクラスのうちに四つほど出来た。小学生だったころは個人対個人で仲の良い組が流動的に、ほんのいっとき、例えば体育の授業の間だったり昼休みの間だけグループを形成するばかりだったのに、今では完全に固定され、固定されれば、グループで固まっているときに他の誰かに話しかけられると虚をつかれたような顔をするし、それが進めば露骨に嫌な顔をし始める。バレー部のゴン先輩に漏らしたところそれは、伊木小の文化なのだという。際江小と伊木小の出身者が際江中に入学するが、伊木の人たちってさあ、なんかすぐ他のグループの悪口とか言うけど、実は裏で仲良かったりするんだよね。ゴン先輩はやたらと肉の張り切ったセンパイだった。太っているというより、太ももから肩から胸から肉がムチムチしたセンパイに、でも、そんなにはっきりグループってあるかなあと言われればそうでもないかもしれないと思った。排斥というほど積極的なはたらきもなく、放置というおだやかな処置が自然になされて、よく考えたら別に急に話しかけて嫌な顔をされた経験もなかったし、別に厳然とグループ分けがあるのでもないのかもしれない。ただいつも一緒にいるメンバーが同じなだけだった。つい考えに合う様に実際を曲げたのだ。センパイは国語の古文のときに清少納言を清少納・言と切って発言し、教師に咎められて「え、清少納が苗字じゃないの」と言い放って以来ゴンと呼ばれているらしく、私たち下級生は呼び捨てにするわけにはいかないのでゴン先輩である。バレーボールは正直に言って上手くないし恐らくレギュラーに上がることもないが、とにかく肉が張り切っている。
 女子グループの中で定期的に発生する誰を好きかと言い合う儀式に、試しに三尾を使い始めてみればただちに
「大岡さんって三尾君のこと好きなんだって」
ということになって、相手の知らない情報を自分が知っている優位を誇りたい女子女子男子男子男子が得意げに「ここだけの話」を伝えていった末端に当然三尾がいて、三尾はきっと、その視点に立って過去を検証したのだろう。一つの視点で過去を眺めれば、その視線に適わないものたちはぽろぽろ零れ落ちて、ほんの少しでもひっかかるものたちは、速やかに一本の道を形成するために整然と並んでゆき、大岡さんが僕のことを好きな証拠がいくらでも揃うので、私と偶然二人になったときに、実は知ってるんだよね、が透けて見えるまんざらでもない態度を急に取り始めてあまりに腹が立ったので、次の儀式を待つまでもなく、自分から女子どもに儀式を仕掛け、あのね実は最近、夏目君を好きになって。えー、三尾君じゃなかったの告ってもないじゃん。うん、告る前でよかったー。と言ってみると、おおよそ二週間後に三尾は私に会うとおどおどし始めたので笑いが込み上げてきて、相手の知らない情報を自分が知っている優位を誇りたい誘惑から免れ得ずに、儀式のほんとのところを教えてあげた。あんなのゲームなんだよ。本人たちは真剣に好きだって言ってるけど、ほとんど思い込みみたいなもんで例えば、男子だったらどこかしらの野球チームのファンじゃなきゃいけない、みたいな何かってわけ。そうして、私と三尾は付き合い始めた。二年生の冬になっていた。雪とか降っていた。
 一方、夏目君は色白でふくよかなタイプだった。私が好きだと言った嘘はまるで耳にも入らなかったらしく、彼はいささかも変わりがないままだった。そして陰毛が猿みたいだった仙田さんが夏目君に告って付き合い始めたことは知っているが卒業してどうなったのかは知らない。


(つづく)