OjohmbonX

創作のブログです。

圧力と熱 (4)

 目の前をぱらぱら何かが落ちていく。見上げれば父が母の隣で乾いた唇の皮をちょっとずつ剥がしては落としているのだった。一心不乱に剥がしている。母はぎょっとして父を止めるがやめない。
「ちょっとお父さんやめて」
 まだ小学校に上がる前か、低学年だったかよく分からないし、どこに向かっていたかも覚えていない電車の中で、ベンチ席に私と隣り合って座っていた父が唇の皮をぽろぽろ落として、その皮がちょうど父の隣の男が履いていたスラックスの裾の折り返しにぽろぽろ入っていくのを私は見ていた。男は見るからに怖い人でたぶんヤクザだったけれど、随分皮がインした後でようやく気づいて怒り狂って父に詰め寄ったものの父は、恐怖を顔に浮かべながらも皮剥がしを止められずに、ますます男を怒らせ、衆人環視の中で他人に怒鳴られる父を見るのは初めてで恥ずかしいような怖いような、身動きすら取れずにその後どうなったのかよく覚えていない。相手のか私たちのか降車駅に着いてすぐに別れたような、やはりしばらく怒られ続けていたような気もするしあやふやだ。だいたいヤクザは電車に乗るのだろうか。普通、車で移動するのではないか。あれはただの会社員だったのかもしれない。しかし電車に乗るタイプのヤクザだったのかもしれない。ひょっとすると全体が夢だったのかもしれない。夢を繰り返し思い出すうちに定着し過ぎて現実の過去と思っているだけのような気もする。そもそも夢ですらなかったかもしれない。白日の想像が固着しただけかもしれないけれど今、ぱらぱら目の前に降り落ちるのは父の皮だった。
 母が父の袖を揺すってお父さんやめて、やめてと何故か小声で言い募るが父はそれどころではないらしく皮をぽろぽろ落としている。お父さん、お父さん、ちょっと、と母の力は強まって父はがくんがくんと前後に揺れて、揺れて、寄りかかっていた手摺り兼柵が外れた拍子に二階からぼたりと私の目の前に落ちた。こがね色を通り過ぎて真っ赤になった光の束が惜し気もなく落ちてくる玄関で父は、なんともう死んでいる。外傷は剥がしすぎた唇からの出血を除いて見当たらないのに死んでいる。祖母は管につながれて意識もないまま数カ月を延ばされた挙句、日取りを決めて外して、皆がそれを確認するやり方だったのに父はこんなに綺麗に死んじゃって。


 自分より馬鹿だと勝手に思い込んでいた三尾が私より偏差値の高い高校に入学したから休日だけ会うようになって、母親が買ってくるものを着ているだけという三尾の私服を見るにつけ、そのあまりのダサさ――どういうわけか上はチェックのシャツばかりだし下は青いジーパンしか持っていないらしかった――にうんざりして自分で買うように教育して一緒に男子高校生の私服としてふさわしい服を買いにいってあげたりしていたら大学生になった。相変わらず別の大学だったけれど結局二人とも地方在住のままで付き合い続けてもちろん、とっくに性交も済ませて、確かに終えた後は相手の肌の匂いが移るような気がしてそれを、母親が一般的に持つ嗅覚で嗅ぎ付けて臭い、臭いと上から声を浴びせたものかと疑っていたのに、今や忘れ果てて母は父の死に恐慌をきたしていた。
 きゃあきゃあ喚きながら、どうかするとはしゃいでいるようにも見える母はあわてて階段を降りようとして足を踏み外し、ころころ落ちてきた。階段の終端の先の壁に激突して停止した母は頭を血まみれにして私をうわ言みたいに呼んだ。呼ばれてそばによってみれば案外しっかりしているようだった。
「あのお前がよく一緒に遊んでいるあれ、何君だったか」
「三尾君」
「その何とか君とはどういう関係なのか」
「三尾君だってば」
「どういう関係なのか」
「一応、付き合ってるっていうか」
「恋人」
「恋人っていうか、そうはっきりしたやつじゃなくて」
「恋人。ところでお前に頼みたいことがある。私の息子の」
「裕輔?」
「私の息子の、私の娘であるお前の弟のちんちんについて」
「はあ?」
「私は成長を心配している」
 ああ、それはそうだろうなと妙に納得はできた。高校に上がって自分で服を選ぶようになった裕輔が、自分の矮躯その他外貌を省みず、ドラマか映画の人物に憧れて黒いロングコートばかりを身に着けたりして迷走する姿に心を痛めて、昔のように服を買ってやると言い募る母はもちろん、自分の理想の息子を措定した上で服を買うので、その延長で心配することもあるだろうと納得はしても押し付けられるのはごめんなので「自分で何とかしてよ」
と精一杯冷たく言ったつもりなのに母はにやにや嗤うばかりだった。
「お前は私の娘で、私の息子の姉だから、ちゃんとするだろうさ」
 ますます激しさを増して日が恥も外聞もなく玄関を真っ赤にする。
「お前はきっといい母親になるだろうよ。私のような。いやあんいやあん、もうなってる。お前はとっくに母親さ」
 なんかもう面倒臭くなってきた。
「ちなみに、お前は私たち両親と血が繋がっていないからね。お前は橋の下で拾ってきた子供だから」
「その橋の名前を言いなよ」
母の目が急に遠くなる。
「おお! 全てが私になる、この世界の全てが私に、ああっ!」
 そのまま母は死んだ。

 携帯で三尾を呼び出した。三尾は最初あいまいな渋り方をしていた。知り合いの家族に会うのは気まずいという。うちの親なら大丈夫だから、と答えると、でも大岡さんの弟ってなんかいつも黒いコート着てるじゃん。だから何? こわいよ。と言うので今は学校に行っていて家には居ないと教えて、ようやくやって来た。三尾を家に上がらせたとき、家の中がすっかり暗くなっていることに気づいて蛍光灯をつけた。
「わ!」
「ほら、両親が死んでるんだよ。そういうわけで私と別れてくんない?」
「大岡さんが殺したの?」
「違う違う。事故事故、ぜんぜん」
 三尾が帰ろうとしたのでせっせとこれまでの経緯を話しながら、こうして一生懸命話すのは自治会長のジジイみたいだなと、もうこの世にいないジジイを思うとふいに涙がはらはら零れて、こう、もともと冷静だったはずなのに涙が出ると自動的に感情が昂ぶるらしく、だんだん声が大きくなって、語り終えた直後に、
「それより私と別れて、って言ってるじゃん」
と叫ぶように言ったら三尾は平気な顔して「えー嫌だよ」と言うのだった。誰に言い寄られてもついていきそうな人が。簡単に断るんだ。全く分からない。膝が笑う。
「なんでご両親そのままなの。まずは救急車を呼びなよ」
「でも死んでるんだよ。警察じゃない?」
「とりあえず救急車の方がいいと思う。だって生きてるかもしれないよ」
 そのときご両親がむく、むくと起き上がった。生きてた。
「どちら?」
「三尾君だよ」
「ああ、彼氏の」
「あ、はじめまして」
「ははは。どうもようこそ」
「あ、はじめまして」
 あんなに真っ赤な中にいたから死んだと思っていたけど暗くなって蛍光灯をつけたら生きてた。唇が血だらけの父親と、額が血だらけの母親を見られて、加えて春先なのに黒いロングコートを着た裕輔も帰ってきた。みんなでゴミみたいなご飯を食べた。それから少しテレビを見た。三尾は帰っていった。


(了)