OjohmbonX

創作のブログです。

掛け値なしの嘘 (2)

 待ち合わせ場所に万丈一久がやってきたのがもう十二時近くだったから昼食を先にとることにした。品川駅から出て万丈一久がどの店を見ても、もうちょっと他の店を見てから、一通り見てからにしよう、うーんイタリアンっていう気分じゃないんだよね、この店は混んでるからパスして、でも特に何を食べたいってわけでもないんだよな、と散々歩き回って十二時半を少し過ぎたところで歩き疲れたらしく、結局駅に戻り、ここでいいかと駅ビルのパスタの店に入った。昼時で混雑した店の前で十五分ほど待たされてから通されると、隣のテーブルの男が荒ぶっているところだった。
 九十年代を引きずったままのロン毛を振り立てて男は、こんな紐みたいなものが食えるかとしきりに大声で喚きながら、パスタを一本一本つまみ上げては几帳面にテーブルの端に並べていた。男の妻と子供は手で顔を覆ってしくしく泣いていた。ちょうど彼らの脇を通り抜けようとしたウェイトレスが、一本一本きれいに並んだ紐を雑にまとめて掴み、男の皿に乱暴に戻して、紐じゃなくてパスタです。と穏やかに言った。男が怒りを露にして皿を腕で押しのけた。床に落ちて皿の割れる音が店内に響き、店員の粗相と勘違いしたらしい厨房からは、失礼いたしましたーぁと語尾の間延びした声が届いた。
 口元をにやつかせた男の髪をウェイトレスは、飲食店に似つかわしくない長い爪を猛禽類のようにひらめかせて鷲掴みにした。男を椅子から引きずり下ろして、木張りの床へ無残に捨てられたパスタどもへその顔を押し付けた。食えという。苦しげにもがく男の足がテーブルにぶつかった拍子に水の入ったコップが床に落ちて割れた。厨房からは、失礼いたしましたーぁ、と詫びが再度入る。子供はぎゃあぎゃあ泣いている。次々に食器が割れていく。失礼いたしましたーぁ、しつ、しつ、しつしーつれい、いたしましたーあ。夢のように音に店内は満たされた。
 突然ウェイトレスは男のうなじを左足で押さえ付け、一気に男の髪を引きちぎった。男は痛みにのけぞった。ウェイトレスはちぎった髪をパスタに振りかけて増量した。ダブルパスタだと私は思った。プラス二百円でパスタを倍にできるこの店のサービスだ。ウェイトレスは再度男の顔をパスタに押し付けた。子供は泣いている振りをしながら、顔を覆う手を少し開いて指の透き間から父親の敗北を覗いていた。
 一方でウェイトレスはもう男を見ていなかった。視線はどこか遠くへ飛び、ピクニックで高原に着いてさわやかな空気の中にでもいるような顔をしていた。その顔ひとつで騒然とした店内を高原に変えていた。それは嘘だとしても、へちゃむくれの癖に顔で生きたいタイプの女かと思って万丈一久を見ると熱心にメニューに顔をうずめていた。選んでいる振りをしているのだろう、実のところこの事故に耳をそばだてていることも、強い拍動も悟られないように選んでいる振りをしているのだと見做していたら、万丈一久はメニューの奥からにゅっと腕を伸ばしてテーブルの端のボタンを押した。それでも私は、選んでいる振りをしているという私の疑いを晴らすためにわざと無関心を装う振る舞いの一つとしてそれも見做した。
 厨房から飛び出してきたシェフが、パスタを延ばす木の棒でウェイトレスを殴り倒した。そしてウェイトレスをめった打ちにし、平等に男もめった打ちにした。二人がぐったりして動かなくなったところで、肩で息をしながらシェフは振り返って私達に注文をきいた。私は、森の香りたつ五種のキノコのペペロンチーノを注文した。万丈一久はメニューの、太陽の恵みいっぱいのナスとトマトのミートソースの写真を指でとんとんしながら、この、ミートソースのやつ、と小さな声で言った。シェフは苛立った声ではあ? と聞き返した。この、ナスとトマトのミートソース。はあぁ? シェフが歯を剥き出しにし、棒を振り上げて万丈一久を威嚇した。万丈一久は真っ赤な顔をして泣き出しそうに、太陽の恵みいっぱいのナスとトマトのミートソース、とちゃんと言った。シェフは鼻を膨らまして男女の襟首を掴み、引きずって厨房に引き上げた。私はアルデンテ、アルデンテ、とその背に向かって叫んだ。棒で延ばした以上、次はあの二人を茹でるに違いないと思ったからだ。万丈一久はやめろよと私を咎めた。
 ペペロンチーノとミートソースのパスタが運ばれると、万丈一久は一緒に出された粉チーズを熱心にかけ始めた。隣の席では母子がしめやかに一皿の、磯の懐かしいジャコと海苔の和風パスタを分け合ってすすっていた。
 床に落とされた男のパスタはカルボナーラだった。カルボナーラは口に入れると一瞬、ゲボの味がすると私が言うと万丈一久は納得したような顔で、カルボナーラがゲボのメタファーとして床に一度吐き落とされた後に再び男の口に入ることで、と先程の男の場面を、食事を忘れて分析的に語り出したので私は自分のパスタを食べることに集中した。私はそんなことよりカルボナーラがゲボの臭いがする点について深く語り合いたかった。


(つづく)