OjohmbonX

創作のブログです。

掛け値なしの嘘 (4)

 二人とも平気な顔をしながらその実浮足立っていたとみえ、起きていたのに一駅乗り過ごしてしまった。万丈一久は目に見えて不機嫌になっていた。乗り過ごした先で、下りの列車へ移る前に私はしばらく前からかすかに感じていた腹痛に用心して便所へ行った。その間に列車を一本見送って万丈一久はますますぷりぷりしていた。これじゃあ間に合わないじゃないか。待ち合わせに遅れた点を棚に上げて言っていることに気づきはしたがそれには触れず、まだ八景島のパラダイスには間に合うとだけ答えた。シーパラダイスだろ、と苛立った強い語調で万丈一久が言うので列車待ちの列の、私達の前にいた若い女がちらっと振り返った。女は鞄に「おなかに赤ちゃんがいます」という文字と母子のイラストの入ったバッジをつけていた。厚生労働省が音頭をとって妊婦に配っているとテレビで見たことがある。
 そうじゃなくてさあ、シーパラでいろいろ見る時間が減るって言いたいんだけど。この不機嫌の裏返しの分だけ楽しみにしていたのかと思うとつい私は頬を緩ませてしまい、それを万丈一久が見逃すはずもなくますます苛立っていった。今日の目的はシーパラダイスだもんね、と執り成すつもりで私が言うと、誤って苦い豆でも噛み締めたような顔で嫌そうに、遠足だって家に帰るまでが遠足だって言うじゃんこれもトータルなんだよ、別に俺はシーパラとか楽しみじゃねえし、と撞着に陥るのも構わず言うのだった。ごめんと私が謝ると、ふんと鼻を鳴らして、しかしそれで溜飲が下がったらしく今度は私の謝罪にバランスを取ろうとしてか、かえって妙にでれでれし始めた。
 到着した列車に乗り込み、ちょうど空いていた二人分の座席に座った。私の前に並んでいた妊婦は要領悪くあぶれて空席にありつけなかったと見え、よちよち名残惜しそうに車内を歩いていた。見かねて万丈一久が席を譲った。感謝して座った妊婦はしばらくするとぽろぽろ涙を零して、ごめんなさい、ごめんなさいと謝り始めた。僕たち一駅ですから気にしないで下さいと慰めると妊婦は急に妊婦のバッジを荒々しく引きちぎって床に叩きつけた。すいません、ほんとは私、ただのフン詰まりなんです。と一気に言い切って号泣した。しゃくり上げながら、フン詰まりなんです、大便が詰まっているだけなんです、私、ああ、ごめんなさいとニセ妊婦は謝り続けた。何と声を掛けていいのか分からず、あの、一駅なんで、別に、と意味の結ばないことを言いかけるとニセ妊婦は捨てたバッジを拾い上げ、サインペンで「おなかに赤ちゃんがいます」の字を消し、その代わりに「私はただの糞詰まり」と書いた。私はニセ妊婦が詰まりなく「糞」の字を書いたことに感心して、僕だったら咄嗟には書けないなあ、いつも練習されているんですか、と慰めのつもりで褒めるとニセ妊婦は黙った。列車は駅に到着した。

 お前の腹の緩さと交換できたらいいのにな、と万丈一久が言うので私はそれを無視して何も答えなかった。さっき言ってた「肝心なところ」ってあれだと排便するところってことになるわけ? と続けて言うのも無視して、京急に乗り換えた。
 京急では各駅のホームで駅員が客を素手で殴っていた。私鉄では棒を使わないらしい。列車がホームに入る時点で既に暴行は始まっていたし、ホームを去る時点でも暴行は続いていたから私達は顛末を知らない。横浜から金沢八景まで十四駅あるが、どこの駅員も戦いのスタイルは共通していた。常に腹を狙うやり方だった。顔を傷つけられれば生きづらいだろうというお客様目線が行き渡っているのだ。それから必ず駅員は一人で対応していた。複数の客を相手にしてさえ一人だった。井土ケ谷では鞄を斜め掛けした部活帰りらしい三人の男子中学生の腹にテンポよく駅員が拳を叩き込んでいた。金沢八景に着いてホームに降り、今まで強い冷風を浴びて冷えきった体を緩ませる暑さにため息をついて、改札に向かって歩く途中、駅員に話しかける若い女とすれ違った。駅員は白い半袖のシャツから、馬を思わせる滑らかで力強い腕と首を伸ばしていた。汗で湿って輝き、たくましく筋ばっていた。黒い制帽を目深に被って目には影が落ち表情は分からない。切符を買ったんだけどーなくなっちゃってぇー。と女が間延びした声で携帯電話から視線を外さないまま言うと、駅員は、なくなったじゃない、なくしたんだお前が。と厳しく低い声で短く言い、女がえっ、と携帯から顔を上げたときには、あの馬のようなたくましい腕が閃いて女の腹を打ち抜いていた。女は潰れた蛙みたいな声を出して膝から崩れた。しかし私は実際に蛙を潰したことがないのでその音を聞いたことがない。恥を感じ私は、今からちょっと蛙潰しに行かないかと提案したが万丈一久は、シーパラに行くんだからそんな暇ないと、まだパラダイスにこだわっていた。諦めればいいだろそんなもの。とつい零すと万丈一久は人目も憚らず怒り始めた。耳まで真っ赤にして声を荒らげるので、よく分からないまま、ともかくこの場を収めようと私が謝ると、何を謝っているんだと怒り始めたので私は走って逃げた。万丈一久は追いかけてきた。人を避け、改札を抜け、振り返るとまだ追いかけてくるのでさらに走り、階段を駆け上がり、ちょうどシーサイドライン金沢八景駅にいた列車に乗り込み立ち止まった瞬間に汗が吹き出し、私も万丈一久も呼吸がままならなくなった。ドアが閉まり列車が発車した。車内は強く冷房がきいて身体が一気に冷えるが息は整わない。整わないまま切れ切れに、お前、どこへ、行くつもりだ、と万丈一久が私を睨むので、シーパラダイス、と当然の答えを返すと、そのまま万丈一久は八景島に着くまで押し黙っていた。乗り換えたシーサイドラインは無人運転で駅員の姿もなく、乗客も駅で待つ人々も製造ラインで運ばれる製品のように大人しく、そういうコンセプトの路線なのだなと了解した。シーパラダイスへ向かうと見られる子供ですらはしゃいではおらずやはり、堅い壁も床もなければ脚を撓めて跳上ることもかなわないように、駅員がいなければ誰も反発すらできないのだ。人間らしさを奪われた静かさの中で列車が進み、好ましく思っていると心拍が収まらないまま八景島へ到着した。
 シーパラダイスではイルカのショーやイワシのショーを見たりしてとても楽しかった。カメもいた。よかった。すごい。
 帰るころには人影も消え果て、暗く寂しい中を私達は歩いていた。海獣に興奮して饒舌だった万丈一久も黙って歩いていた。出口の近くで唐突に明るく照らされたメリーゴーランドが静止したままてろてろ音楽を垂れ流していた。それを取り巻くように道を挟んで円く店が並んでいたが既にどれも閉まって暗い。ただメリーゴーランドだけが冗談みたいに明るかった。海風が吹いて昼の名残の暑さも感じさせず、湿気を含んだ空気がひたすら柔らかく暗いばかりで、その明るさを余裕を持って沈め込んでいる。そのまま歩みを緩めもせずに通り過ぎたくせに、出口の手前で少し万丈一久は振り返って見た。すかさず、パラダイスとは実際こういうものかもしれない、と発言した私に、どういうことだ、適当なことを言うなと万丈一久は苛立ったため私は自動的に謝罪した。


(つづく)