OjohmbonX

創作のブログです。

掛け値なしの嘘 (5)

 シーサイドライン京急、JRと乗り継いで江ノ電の七里ケ浜で降りた。江ノ電では乗客が幾人か窓の外へ捨てられた程度で、とりたてて妙なこともなかった。
 駅から海岸へ下りる道もあったが、もはや海は暗く奥の底も見当たらないので通り過ぎ、坂を上ってホテルに着いた。部屋は南側が全面ガラス張りになって海を見渡せるが、外の暗さを背にしたガラス窓は反射した室内を映すばかりだった。
 ホテルのレストランで私達は窓際の席に通された。ここも一面ガラス張りだった。私は肉料理を、万丈一久は魚介料理を選んだ。海の近くでは海鮮のものを食すべきだと万丈一久は得意げに言うものの、相変わらず窓の外に海は見えなかったので私は、彼女と近く結婚する旨を伝えた。あ、そうなんだおめでとうと万丈一久は言った後、俯いたり窓の外へ目をやったりフォークを取ったり下ろしたり落としたりしてウェイターに交換されたりパンを食べたりして妙に忙しそうにしながら、あれこれ質問してきたがどれも本当には興味が無さそうで上の空だった。学生の頃に付き合い始めてお互い就職もして一年経つから結婚するのだと訊かれるまま説明した。あれ、全然知らなかった、と万丈一久は微かに視線を揺らした。あー、そうなんだーおめでとう。と無理やり作ったような嬉しさを見せた後、急に動きを止めてぼんやりしていた。彼女の名前は何て言うの。広中佑子。ふうん。
 私にメインディッシュが供された。焼いた小さな肉の塊が大きな白い皿の中央に上品に位置し、茶色のソースがかかって、得体の知れない野菜も添えられており、口の中に入れるとよく分からないけれどとってもおいしい感じがした。あっと言う間に食べ終えたが、同時に供された万丈一久の皿は一向に捗っていなかった。軽く揚げた白身魚に酢のソースをかけたものはすんなり食べていたが、焼き魚の骨にはてこずりフォークとナイフで無残に散らばった魚を少しずつ掬って口に運んでいた。それからサザエの番だった。壷焼きだがナイフとフォークしか手元になく、これを散々いじくり続けていた。随分時間が経って料理も湯気を立てずに静まり返り、一人万丈一久だけが意地を張っていた。冷えきったサザエの不味さを考えると私は腹が立ち、手で食えばいいだろうと口を出した瞬間、万丈一久は私の目を見据えて、見るんじゃない、と視線を拒絶した。青白く滑らかでまるで生きてすらいないような顔をして拒んだために、たじろいで私は黙った。万丈一久は目をかすかに赤くして、見るなと再度厳しく言い、それからゆっくり深くため息をついてから、なんか惨めだ、と視線を伏せた。しかし、惨めだ、などと実際には万丈一久は言っていないかもしれない。私が勝手に聞いただけかもしれなかった。ナイフとフォークを置き、椅子に深く腰掛けなおしてからもう一度聞こえないほどのため息を深くついて目を軽く閉じると、その拍子に涙が万丈一久の頬を伝った。
 私はドン引きした。サザエを上手く食べられなかった程度で泣く成人男性など真っ平だったが、泣いたかと思ったら今度は薄笑いを浮かべていたので気味が悪くなった。
 私達のテーブルへウェイターが近づいてきた。放って置けばよい万丈一久に何か余計な気でも利かせるつもりかと動揺したが違っていた。ただいま当レストランではじゃんけんサービスというものを行っておりまして、お食事中にすみませんが、私とじゃんけんをしていただけないでしょうか、もしお客様が勝利されますと記念に、ちょっとした素敵なお品をプレゼントさせていただきます。二人の汗で汚れたTシャツとポロシャツ姿を私に恥じ入らせながら、年配のウェイターがホテルのレストランに相応しいと考えている身奇麗さで一方的に説明するのを、まるで存在しないかのように無表情でテーブルの何もないあたりに視線を投げていた万丈一久だったが、ウェイターがじゃんけんの素振りを見せると、合わせて機械的に手を動かした。
 はぁい、いきますよ、最初はグー、じゃんけん、ポ
 ポンを言い切れずにウェイターは信じ難いといった調子で、お客様、と息を呑んでしばらく沈黙した。お客様、今、あと出し、なさいましたね……
 万丈一久は顔だけをウェイターに振り向けて、しかし視線は曖昧に無表情なまま、してない、と素っ気なく答えた。いいえ、なさいました。万丈一久は黙った。その沈黙を承認と受け取ってウェイターは得意になり、卑小なゲームであっても公明正大さが尊ばれるべきであって特にあなたたちは若いのだからこの時点で踏みとどまらなければ人生を正しく歩めない、などと年上面して大仰に説教を始めたので万丈一久は苛立って、別に景品なんていらないし、だったら負けでいいです、と打ち切るように言うと、そういう問題ではない、正義の問題ですよ、これは、などと真剣な顔で力説するので私はつい吹き出してしまい、ますますウェイターを怒らせた。
 私はね、プロの誇りがありますから、最後まで給仕は致しますよ、と不要な捨てぜりふを耳元に熱く吹き残してウェイターは去り、万丈一久はサザエを残し、「ちょっとした素敵なお品」が何だったのかは周りに誰も客がいないこともあって分からず仕舞いだった。

 風呂から上がると先に入浴を済ませていた万丈一久が歯磨きしながらカーテンを全開にした窓の前に立って見えない海を見ていた。隣に並んで私も窓の外に目をやった。街灯すらも暗く、稀に海岸沿いの道を車が行くばかりで何の面白みも無い景色に、何も見えないじゃん、と呟くと万丈一久は、いいんだって、見てるんじゃなくて、見せてるんだから、と歯磨きの手を一瞬止めて答えてから歯磨きを再開した。私が隣に目をやると、真っすぐ前を見て歯磨きを続ける万丈一久は、ガウンの紐を締めずにだらしなく前を開かせ、あろうことか下着も着けていなかった。人も車も多少は通る道を前にして明るい部屋にいるのだ、外からはよく見える。ほとんど思考が焦点を結ばないまま私が、おい、見えるぞと間抜けに注意すると、だから、見せてんの。と前を見たまま繰り返した。
 私も万丈一久も黙り、しばらくただ歯磨きのしゃこしゃこいう音が続いた。しかし唐突に万丈一久は吹き出した。自分の発言に時間差で受けたらしかった。ガラス窓に泡だった唾液が飛び散り、顎から胸へ泡が伝って、私は慌てて洗面台に引き返してタオルを取り、それを万丈一久に突き出した。しかし万丈一久は、ガウンが濡れないよう腕を横に広げたままタオルを受け取らずに、拭いて、と言った。私は恐る恐るタオルを万丈一久の体に当てた。もっと、ちゃんと拭いてよ。どれほどの強さで拭いてよいのかまるで分からなくなった。強く拭くとふらつくので空いた手を腰に回して押さえた。万丈一久は拭かれながら気分良さげに目を閉じていた。いったいどれくらいの時間拭いていたのか定かではないが、万丈一久は私の手からふいにタオルを取り上げてもういいよとそのまま洗面台に向かい、私は取り残された。私はテレビをつけた。


(つづく)