OjohmbonX

創作のブログです。

他愛なく無用である (3)

 それからブログのコメント欄で名もなきじじいと争っていたことを脈絡もなく思い出していた。これは進行中だったが今まですっかり忘れていた。名もなきじじいは、ある戦争映画を詰まらないと判断した私の他愛ない記事について反論していた。私はその物語の組み立て方の点において詰まらないと書いただけのことだったが、それを映画全体の否定と見做した上で名もなきじじいは腹を立てていた。(名もなきじじい、というのが彼のハンドルネームだった。)あの戦闘場面はきわめて現実的で、戦争経験者の私が言うのだから間違いはなく、この映画を否定するのはまかりならない、といった意味のことが、やたら丁寧に長々しく、モニター一スクロール分書かれていたから私は、「それはすごいですね!」とだけ一言、とても真摯なこころで返すと翌朝、馬鹿にしているという意味のことが二スクロール分にわたって書かれていた。少し喉が乾いたから金属球を舌でちろちろ押して水を飲んだ。喉を鳴らして思うだけ飲みたいと思っても叶わない話だったからすぐに諦めた。自分の好きな作品をたとえ一部でも否定された時、自身を否定されたと錯覚することや、自分の方が分かっていると誇りたい気分を知ってはいるけれど、それをあらわに向けられても知らない。といったことを表明するかといえばそんなことはなく、しかし無視しよう、あるいはコメント欄を閉じようとも思わず、「誤解です! ぼくおじいさんのことすっごくリスペクトしてます!!」と本心から書いたら名もなきじじいはますます怒りを深めて次のコメントを書くに至るが、しかし長さは今度も二スクロール分なので恐らく、それ以上長いものは書けないのだと思う。いったい同じところをくるくる回転しながら、どこに落としどころを見出し得るのか。
 食欲はなかったが男が口元にレンゲを運ぶので義務感からその流動食を食べた。粥に見えたが匂いは石油に似て、味は度を越して甘かった。得体の知れない地方のものかと思って出身を訊いたら「英枝高校です」などと答えられて諦めた。郷土の味でなければ、家の味なのかもしれないし、この頭の弱さから見て個人的に間違えているだけの味かもしれない。
 茶碗に七分の量を食べ切っても満腹感は訪れなかった。ただ胃というよりみぞおちのあたりがじわりと湯を溶かしたように痛むだけだった。
 結局私のカレーの材料がどうなったのか無性に気にかかった。まったくふいに、物を口にして思い出した。道に散らばったままだろうか。あれほど自分では果たせなかったのに、外から力を加えられてあっさり捨てられたあの袋。
「あ、俺が食べました」と男がこだわりもなく言った。「あれ、ちょっと高いルーじゃないですか。油で固めないタイプの。社会人は財力があるから買えるんだと思いましたね。すごく夢がありますよ。今は学生の自分でも、いつか社会人になれば買えるんだって思う、それって希望です。やはり美味いですし。それとネギも落ちていたんですが? あれもカレー用です。でしょう? 俺は一本分をぶつ切りにしてよく熱を加え、もう一本分を刻んでフレッシュなままカレーに加えました。もともと薬味ですからね。スパイスを主体としたカレーには合うでしょうよ。ビンゴ! たしかに美味い。それとも実は付け合わせの味噌汁用か何かですか? たしかに味噌汁を添えるのは賛成です。もっとも、箸は用意せずにカレーのスプーンでそのまま飲むに限りますが。ただしスプーンはその都度よく舐ってカレーソースを残さないようにしてから。例えば古い喫茶店でピラフを注文するときわめて薄い味噌汁がついてきますね。箸もなしに。それをスプーンで飲めば、とても新鮮で懐かしい味がする。それをしたかったんですか。まさかね。ビニール袋が破れて道路に散らばった品々を見たときピンときましたよ。ここにあるのは純粋にカレーの材料だって。それだからネギもカレー用でしょう。それから、タマネギ、ニンジンジャガイモシイタケ牛肉、まあ、一般的な具材だな。しかしどれも素晴らしい、実に! タマネギは飴色になるまでよく炒めて形が消える寸前まで煮込む。熱を加えたニンジンの甘み、ジャガイモの、歯を押し当てた瞬間にあえなくくずれる食感、シイタケのぐにょぐにょ、そして牛肉、よくまあ、あんな高い肉を……いずれにしても俺はとても満足していますね。ただ、白桃のゼリーも落ちていましたが。あれはカレーの具ですか。隠し味でしょうか。まさか! 完全にデザートでしょうね。どうしてカレーの材料以外もあなた買った? 興味がないから捨てておきましたよ。もう犬にでも食われたんじゃないですか。は、は!」
 男がおむつを換えたついでに体を拭いてくれた。陰嚢の裏や肛門辺りも手早くかつ十分に拭いて随分手慣れていた。背を見て床擦れに気づいたらしく仰向けから横臥に変えられた。私が寝かされているソファの背の側に顔を向けられて部屋を見られなくなった。


 ずっと子供が泣き叫ぶ声が続いていた。虐待かもしれない。しかし途中で猫の喧嘩の声だと気づいた。いいや、これは児童虐待だ。私にはわかる。虐待経験者の私が言うから間違いない。という名もない老人の声が勝手に耳に届いていたが無視した。経験者だから何だと言うのか。経験が自動的に、無条件にアドバンテージを与えると思うな。経験の有無ではなくよりおかしなことを言った者の勝ちというルールなのだ。しかもこれは、もはや疑いもなく猫の喧嘩だ。しかし老人は、顔も浮かんでこないしそれ以上喋りもしないのに、余裕ぶった気分を向こう側からあからさまに出していて腹が立った。この不愉快は何かに似ているとしばらく考えて、子供の真剣な訴えを、真剣であればあるほど微笑を増して片付ける大人の余裕に接したときのものだと思い至った。
 私が眠っているうちに体の向きが変えてあって目前がソファの布目だけという景色は解消されていた。けれども変わりない部屋に新鮮味などないし、そもそも興味を持って観察などしていないからどこかが変わっても気づかない。しかし何かが動くのを視界の端で捉えた時は驚いた。男だった。昼間は出掛けているものと思い込んでいたが今日は休日らしかった。パソコンのモニターに向かって視線を注いでいた。肩越しに覗くとニュース記事を見ているらしい。表情は知らないが興味は無さそうに読んでいて、私も興味がなかったので視線を元に戻した。それからしばらくして、ふいに再び首を男の方に振り向けたら男も偶然、ちょうど同時にこちらへ振り向いて目が合い、思わず二人とも笑い出していた。
 諳じていたブログのアドレスを入力してもらい、新しいコメントが付いていないか見てもらった。あの映画の感想の記事に付いていた。しかし名もなきじじいではなかった。「名もなきじじいの孫娘」というハンドルネームの者が、名もなきじじいは死んだと報せていた。九十二の大往生だとのこと。頼まれて自分がかわりに書いていたこと、随分コメントを楽しみにしていたこと、私を、ふざけた奴だが見込みがあると言っては嬉しそうに笑っていたことを記し、最後にありがとうございましたと締められていた。何でも勝手に見込めばいいと思っている、と強い憤りを感じたが私は黙ったまま強い脱力を覚えるばかりだった。またあっさり死んだ。
「あ、まだ次のコメントがあります」
 次は名もなきじじいからだった。自分は死んでいないし、孫娘に何も頼んでいないし、お前は誰だ、という内容だった。あっさり生き返った。あまりに長いコメントなので全文を読むのは途中で断った。SXGAのモニター三スクロール分だった。ついに限界を超えたな、さすが私の見込んだじじいだと微笑ましく思った。それをきっかけに男と何か会話が始まる訳ではなく、男はまたパソコンの方へ戻り、私も天井に視線を戻しただけだ。


(つづく)