OjohmbonX

創作のブログです。

他愛なく無用である (4)

 夕方になって男は出掛けていった。部屋は暗くなっていくがモデムやらテレビやらのLEDの明かりのせいで暗さに沈みきりはせず、自分が目を開けているかいないかを知ることはできた。夜遅くに男は帰宅し、いつも通り奇怪な流動食を私の口に流し込み、水とおむつを交換し、体を拭く作業をひとわたり終えたところで突然激高した。
「もう養いきれない!」
 男は自分の大声にひどく驚いた顔をして、立ち上がり、部屋の中を落ち着きなく歩き回っていた。
「バイトだってこんなに頑張ってるのに! もう限界だ」
「君は大学生か?」
 黙っていた私が突然口を挟んだから、男はひどく怯えた表情を見せた。しかし私に目を合わせはしなかった。
奨学金という制度がある。学生に許された、非常に低金利で金を借りられるシステムだ」
「それってすてきです!」
 男は急に機嫌を良くして私のソファの脇ににじり寄ってきた。
「俺ひとりっ子じゃないですか」
 知らねえよ。
「なんか俺、お兄さんのことほんとのお兄さんみたいに思えてきて」
「俺も君を弟みたいに思っているよ」
 もちろん思っていない。
 その晩男は遅くまで極めてうれしそうに話し続けた。アルバイト、学校、家族、趣味、最近の天気、内閣改造、等々の話を自分の話をきっかけに連鎖させていって止めどもなく続いた。おそらく端から客観的に存在するはずもない止めどを強制的に自らの手で設定する決意を持たないで生きている。私もそうだから分かる気がした。私はうん、そうなんだ、それはよかったね、へえ首相が、といった合いの手のみを入れ続けその間、再び吉岡のことを思い出していた。
彼はいつもどこかから蛇を見つけてきては、力まかせに引きちぎっていた。そしてその後、丁寧にお葬式をあげるのだ。小学校からほど近い、公園として解放されていたちょっとした林に私たちを集めていつもそうしていた。私たちはただ彼を待っていた。木と薮に紛れて姿を消す彼を見送って、そのままぼんやり待っていると彼は蛇を持って帰ってくる。ほとんどが細い紐みたいな蛇だった。
「たぶん俺らと同じくらいの子供の蛇って感じする」と言って吉岡は蛇を引きちぎった。それから名残惜しそうにちぎれたところをくっつけたり離したりひとしきり繰り返した後に埋めた。埋葬と言ってもあらかじめ墓穴を掘るわけではない。ちぎれた蛇を無造作に地面に放る。そしていつでも必ず柔らかい土を素手で周りから掘り集めて死骸にかけ固める。しゃがんで爪を土で汚しながら作業し続ける吉岡を、私たちは手伝うわけでもなく囲んで見下ろしている。周りの彫られた土が濠のようで、塚を築くとまるで城だった。額に汗を浮かべて満足げに見下ろした吉岡はいつも、地面のその不自然な凹凸が次第に気に入らなくなり不快感が飽和したところで足で潰して均した。結局蛇は踏み潰されるのだ。好奇心と不見識が引き起こす子供特有の残酷さといったものではなく、ただの作業だった。
 何度目かの付き合いで小賢しくも私が「そんなことをすると、生態系が乱れる」と指摘すると吉岡は顔を真っ赤にして泣きそうな顔になったが、落涙もせず涙目にもならずただ「別に」と言っただけだった。私たちは時計を持っていなかったが、もうすぐ終わると思った。あとたぶん三分、と決めて心の中で数を数え始めてちょうど百八十個目で五時のチャイムが町を覆った。続いて閉門を知らせる鐘が鳴った。公園を管理する年老いた職員が手持ちの鐘を鳴らして園内を回る。誰か残っていないか見回る訳ではないから、鐘をやり過ごせば林に閉ざされる。ぼんやり立ち尽くして誰も動こうとしないから私はすんなり、このまま私たちは夜に入るのだと思った。しかし一緒にいた川内が怯えて帰ると、言えば実現すると信じて言ったので私たちは白けた気分になって公園を出た。
 それから吉岡が蛇をちぎる姿を見ていない。男の話は終わって部屋は暗くなっている。


 柔らかく風が吹き込んで鼻がぐずつき花粉を感じさせながら、真っ白ののりの効いたシーツで全身を覆われた。鼻詰まりに加えて息苦しさが少し増した。しばらくして女のけばけばしい声が部屋に入ってきた。
「なんでさいきん家にあげてくれないわけぇ?」
 男が執り成すように何か言っているがあまりの早口に聞き取れない。
「いーゃ、なにこれー」
 女が私のシーツをはぎとった。私は女の目に私の姿を見て驚く気持ちを認め、その驚きをたちまち自分の中に再現した。実際、女はきゃあーと叫んで驚いていた。一方で、確かに私は私の側の視線も保持していて女の顔をしっかり、それでいてぼんやり見ていた。女は馬面だった。私は花粉に侵されて抑えきれなくなったくしゃみで女の顔に唾液を細かく付着させた。女は驚きで身を引き離すタイプではなく、むしろ確かめるように覗き込むタイプだったから唾液は効果的に付着した。女はシーツで手早く顔を拭ってから男に向き直り、
「だからさいきん呼んでくんないわけ」と詰った。「誰?」
「田舎の叔父なんだけど、いつの間にかいたんだよ」
 私は男の回答に絶句した。(黙っていながら絶句が可能だと初めて知ってやや感動した。)昨夜は兄だと言っておきながら、今は叔父だという、同じ口で! やや取り乱したが冷静になればおかしなことは何もない。別に兄のようだと言われただけだ。私は車に轢かれた後、介抱されてここにいると思い込んでいたが、男にそう言われると自分は叔父だったような気がしてきた。この青年を赤ん坊のころから見ていた気がする。記憶が少しずつはっきりしてきた。随分病気がちで手のかかる子供だった。おむつだって替えてやったのに今は替えられている身だ。
「でも親戚がいたらセックスできないじゃん」
 男は顔を赤くしてうつむいた。自分を子供のころから知っている者の前で、自分のキャラクターを、その一貫性を崩されるようなことを言われるのは耐えられないのだ。私も恥ずかしくなった。甥っ子が恥ずかしがらないよう、私自身も恥ずかしくないよう、剥かれたシーツの端をなんとか口で咥えて再び顔を覆おうと試み始めた。
「早く捨ててきて!」
「そんなこと……」
「だったら私が捨てる」
 女が私に歩み寄るが、男が止めた。喚きながら暴れる女を男が無言で抑え込みにかかる。散々揉み合っていた。私はシーツと格闘していた。男が女の腹を殴りつけ、女が痛みに呻いて座り込んだ。私は首をのけ反らせてその勢いでシーツを顔に被せることにようやく成功した。
 薄く白いシーツを透かして光が一面に白かった。私自身もこの男と同じだったような気がした。手足の萎えた叔父を養い、馬面の女と暮らしていたような気がする。いや、もっと違う大学生活を送っていたはずだと分かっている。そもそも大学生の私は実家で家族と暮らしていたはずだ。それなら叔父も同居していたのだろうか。そんなはずはない。そもそも私に叔父などいないのだ。それに私には兄弟がいないからこの大学生が甥であるはずもない。ひとつひとつ手繰っていけば確かに間違いだと事実が私に示してくるというのに、全体を思うとどうしても私に叔父と甥がいたとしか思われない。そしてそれぞれが過去と現在を重ねて反復しているのが当然だと思われるのだ。具体的な記憶もイメージも欠いたままその結論だけが揺るぎなく存在している。しかし馬面の女たちは具体的な記憶やイメージと共に、至る所にいる。


(つづく)