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OjohmbonX

創作のブログです。

他愛なく無用である (5)

「あの、こんな感じですけど」
 また夜だった。寝ていたとも思われない。もし私が眠っていればこの男は気兼ねして起こしにかかれはしない。いつも通り話し掛けてきたところを見ると私は起きているように見えたのだろうがまるで記憶がなかった。女はもう部屋にいないようだったし白いシーツも片付けられていた。
「あの」
 男は姿見をベッドの脇に立てて見るよう促していた。鏡の中の私はこれまで試したことのないほど不精髭が伸びて別人のようだったが案外きれいな顔をしていた。男の手入れが行き届いているのだと思った。毎日寝て過ごす割にあまり身体の痛みもないし床擦れもあれから引いていた。
 私が黙っていたものだから男はひどくうろたえ始めた。自分から耐え難い透き間を埋め始めるみたいに急いで話し始めた。
「あの、俺、お兄さんのこと轢いちゃったじゃないですか」
 え、そうなの。と思ったが男はやたら焦っていたので口を差し挟む余地を与えず喋り続けた。
「そのとき乗り上げちゃって、俺びっくりして、バックしたりドライブにいれたりして、何回かお兄さんのことごりごりしちゃったっていうか」
 車に轢かれたらしいことも、そして介抱されていたことも当初の認識の通りだ。最近は勝手に転がり込んで養われている叔父という認識が優勢を誇っていたがそれはやはり間違いだった。それは意外でもないが、事故と介抱の相手が共通だとまでは特に考えていなかった。それにしても髭の具合がみっともなくてやり切れない。黒々としている癖に一様でなくまばらに生えている。
「それでお兄さんの手足がご覧の具合になってしまって」
 手足の萎え方についてはおおよそ想定のレベルだから特に感情への影響はない。もともと痩せ型の上、会社に入ってからは運動もせずにおいたから、ひとたびこのような事態が到来すればすみやかに萎えるのも当然だ。しかしそれを当然と知らない彼はまだ早口で何かを熱心に話していた。焦りは募って顔を赤くさせ、哀れなほど苦しそうだった。
  手足が 萎えて一秒
 ふいに私の口をついて節に乗せたフレーズが出た。それを逃さないように私は続けて歌った。


  手足が 萎えて一秒
  あなた真剣な目をしたから
  そこから我慢 できなくなるの
  股下ウェットネス


  きっと愛する馬面 大切にして
  鼻筋たてがみつぶらな目
  むきだし前歯も 見ないふり


  出会いがしら ひらけた道
  あと何回 轢いたら あなたは気がすむの


  お願い タッチ タッチ ここにタッチ
  あなたから(タッチ)


  手を伸ばせない しなびすぎて
  しなしなの手足を束ねたブーケ


 私はくり返し、くり返し歌った。少しずつ歌詞はふらつきながらも確信に満ちて堂々と歌った。お願いにさしかかると男も一緒に歌った。歌うばかりでなく腕を振り回したり脚を振り上げたりしていた。そしてタッチ、タッチと声を張り上げながら私のしなびた手や足にタッチしていった。
「ああ、すごい」
 いつの間にか私たち二人は大声で笑っていた。ずっと笑い合って、穏やかに引いてゆくようにゆっくり静まった後、男は少し恥ずかしそうにはにかんで深い満足の中にいるようだった。この男はきっと人前ではしゃぐことなど、あの自身の一貫性に縛られてできやしない。それを捨ててもなお肯定される喜びを知ったのだ。
 私は男に髭剃りを頼んだ。切り傷ひとつつけずに男は私の顔を剃った。剃り上がった顔はずいぶん若々しく見えた。


 ゆっくり、ゆっくり冷えた流体に、あたたかな別の流れが注ぎ込まれてゆっくり、濃度の違いでかすかなもやを生みながら、混ざってゆくような暖かさと冷たさを肌に感じていた。開け放たれた窓は平日の昼の、遠くからのかすかなざわめきを招き入れていた。馬面の女が窓際に立ち、大きな陶器の白いボウルの中へ、抱えたあじさいの花を丁寧にむしっては入れていた。春だと思っていたのにもう梅雨に入ったのだろうか。
 ボウルに水を注いで薄い半透明のビニールの手袋をつけた手で花を揉んでいる。カーテンがいつの間にか風に巻き込まれて窓にかかっている。カーテンは外へ吸い込まれたり内に孕んだりを不規則にゆっくり続けている。真っ白なシーツをボウルにつけては引き上げ、引き上げてはつける。あわい紫に染まってゆく。窓辺に立つ女がもはや、どの馬面の女なのか区別がつかない。


 男が私に粥を食べさせ(慣れると案外旨い)、体を拭き上げ髭を剃り、おむつを替える。女はもういなかった。新しいおむつを着けにかかり、陰茎の位置をいつもならさりげなく整えるのに、男はつまんだまま静止した。それから指先に力を込めたり緩めたりを繰り返した。生理的な反応として血量を増して硬化した陰茎を改めて握り直し、やや圧力をかけたまま手を上下させた。しばらくして下腹にだらだらと精液が吐き出された。すぐに不快な臭いが鼻をついた。私はためいきのように深く呼吸するうち耐え難い疲労に全身を侵され、その疲労に対して一瞬、このまま乾けば肌が引き攣れると思い、その処置の気掛かりで眠気に抗ったもののその抵抗は持続せず、意識は手放された。


 目を覚ますと誰もいない昼だった。体は拭かれ直されたらしく懸念の引き攣れは生じていない。部屋は穏やかに冷えてゆっくり揺れている。部屋に水が満ちてゆき、ひたひたに満たされた水面に浮いて私は揺れている。そのまま流れに流されてするりと窓枠を越え私は外に注がれた。流れ出す水の流れの中で私の影が一瞬流れただけなので誰もが、ちょうどポットからカップに湯を注ぐ途中に、かすかなゴミが流れたのを目にしてもそれをあえて拾い出すようなことはせず、怠惰のうちに見間違いとして片付けるように、黙殺した。


(つづく)