OjohmbonX

創作のブログです。

他愛なく無用である (9)

 また春と呼べる程度に寒さも和らいだから日があたる縁側に腰掛けて庭を眺めていた。頼んだ覚えはないがよく手入れされていると気づいた。四十年暮らして今更に知った。風に誘われて家の奥から孫娘が一人やってきてふいに私の背に体をもたせかけた。私は体を捻ってそれをつかまえた。きゃっきゃと笑って孫は逃れようとする。私は腕の力をゆるめてやる。ボールが跳ねるように私の腕から彼女が躍り出る寸前に、またつかまえる。彼女は狂乱が極まって笑い転げる。私は軽く彼女を持ち上げ自分の膝の上に座らせる。二人で庭を眺めるうちに孫娘は落ち着きを取り戻して呼吸のたびに膨らんでは戻る体の動きを私に伝えていた。いつの間にか二人の呼吸は同調していた。木にとまった小鳥たちが、私たちには計り知れないかすかなきっかけを頼りにふいに枝を震わせていっせいに飛び立った。孫娘は私の腕を小さな手指でけなげにつかんで振り向いた。白目のない真っ黒で涙に濡れた目を大きく見開き、奇跡に触れた幼い感動を確実にするようにまっすぐ、私に向けていた。私は愕然とした。孫の顔は馬そのものだった。一瞬、全てが、時間軸上に乗った全てが誤りだったと思った。過去と未来が今の私に寄ってたかって復讐するその不条理を呪いかけたが直後に否定した。全てが正しく、ただ私の解釈と関与が誤りだったと思って次に強く後悔したが、しばらく待つとこれも否定された。全てはただあるだけで、私による解釈と関与にも誤りはなかったが、別の正しくいささかの矛盾もない解釈と関与が、私の知らないところで無数に存在している、といったような確信が急ぎもせずに穏当に私の中を広まっていった。冷たい満足に満たされて私は孫娘を膝から降ろして縁側に座らせ、自分は庭に降りた。手足を解除した。突然体は軽やかさを取り戻したが支えるものを失った。地面に横たわり手足のない胴体をくねらせるがまるで移動できない。くねらせるたびにアスファルトの敷かれた地面に擦れて頬や顎や腹がつまらなく傷ついていく。縁側の陰になった地面は残酷なほど寒い。それでも少しずつ、意識もしないまま勝手に動き方に慣れてくるのか進み始めた。いつでも出ようと思えば出られたのだと声がした。縁側の陰から日向に出ると今度はアスファルトがねっとりとした黒さでたまらなく熱かった。すぐに腹や頬の熱さに耐え兼ねて仰向けに返った。縁側には同じ馬の顔をした孫娘が七、八人かそれ以上並んでいた。感情を全く読めない顔で全てが私を見下ろしていた。私はひどく全身の疲労と痛苦を感じていた。衰えきった肉体が既に運動の限界を伝えていた。度を越えた眠気の中にあってなお目覚めなければならない、あの苦しみに満ちた、義務からくる決断に似た決断を自動的に下して、再度俯せに返った。ぬめるような黒さを敷き詰めたアスファルトの上を気の遠くなるような鈍さでもがきながら進む。黒さに紛れて大小さまざまの蟻がところどころを忙しく動き回っていた。ずいぶん久しぶりに人間以外の別の生き物の存在を思い出した気がした。アスファルトが途絶し剥き出しの土に変わった。乾ききった土が春のただでさえ埃っぽい風に巻き上げらて私の目や鼻や口を侵した。アスファルトを進むうちに擦り切れた頬や腰に土が刷り込まれる。息が切れて仕方がない。喘ぐたびに土煙がぱっと立ち昇りすみやかに風がそれを私の口に引き入れ、私をむせさせた。なお進むと巨木の張り出した根が私の行く先を塞いだ。ざらついた根の上に私は頭を乗せた。空気に白く濁った膜をかぶせたような音が遠くから耳に届き続けている。また疲労と痛苦とが私を停止に引きずり込もうと待機しているのを、誰が設定した訳でもなくひとえに主観的な義務感に追い立てられて、頭を起こし再び進む。太い根の表面に噛み付き、樹皮で唇の端が擦り切れるのも構わず、首に力を込めて体を引き上げる。何度も根に噛み付いては体をわずかに引き上げる作業を繰り返して根の上に登り詰めた。土のざらつきと樹皮の苦みと血の味を、若いころほどすぐには溜まらないのを辛抱強く溜めた唾液で吐き捨て、頭から力無く向こう側へずり落ちて行く。根を尻につけ背をたわめ、水泳の蹴伸びの要領で足のないまま蹴る、実際には腰を伸ばした反動でわずかに先へ進む。私に苦しみを与えたものを今度は利用して溜飲を下げずにいられない、こういった平等の理念が性懲りもなくまだ働いているとつい苦笑いに口を開いてから土埃を思い出し慌てて閉じるがまるで入ってこないことに気づいた。根を越えると土は湿り気を帯びていた。歩けば気づかないこの違いが、段違いの進みづらさを生じさせた。体にまとわりついて、黒い無数の手で私の襟や袖や裾を引いていく。犬のように短く喘いで泥の地面を抜けると次は敷石が詰められていた。滑らかな石の表面と、石と石の間の透き間のつくる凹凸でこれまでになく進み易く、ちょうど柵の作る影に入って火照った体も冷まされ何か、ついに祝福を授かりでもしたようだった。肯定に気を良くし集中が途切れ、それにしてもこんなところに石を敷いていたのかとまじまじと見れば石の表面の細かい粒子が容赦なく眼に迫って統一を失いかけた。今更邪魔をしないで欲しいと、歪んだ笑顔が浮かぶのも禁じ得ぬまま、いやらしい思考をかなぐり捨て、体をくねらせまた進む。滑るように進んでようやく門に辿り着いた。首を傾げて見上げればノブは遥かに高い。結局人に頼らざるを得ない不徹底に落胆する暇も無く門を開けろと頭を何度も打ち付けるが扉に付着する血の量がいたずらに増すばかりだった。額が割れたから今度は側頭部に切り替え、こめかみの血を加えて門を叩くうち、ふいに門が開かれた。開いた透き間を進んで這い出たところで体がふいに浮かんだ。馬面の女が私を拾い上げていた。事のついでのように何気なく私を小脇に抱えて家に連れ戻した。
「開けたのは私よ」
と女は言った。しかしその私が妻か妾か娘か、顔を見ても全くわからなかった。


(了)