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創作のブログです。

エアコン

 萩田の家の玄関の扉を開けると強烈な熱気が流れ出て,私と萩田の体をねっとりと包んだ.萩田は素早く靴を脱いで部屋に駆け上がり「悪い,すぐ止めるから」と窓の脇に取り付けられたエアコンのリモコンらしきものを操作して,窓を開けた.
 私は私の目を疑った.エアコンの室外機が,室内,窓の下方に置かれていた.そして,室内機が見当たらない.卓袱台,14型のブラウン管テレビ,小型の冷蔵庫,背の低い箪笥のほかに目に付くもののない6畳一間の部屋に圧倒的な存在感を示して鎮座まします室外機……を見つめてしばらく(恐らく4,5秒程度だったのだろうが,感覚的には数十秒)呆然と沓脱ぎに立っていた私は,「何してるんだよ,上がれよ」と言われてようやく我に返り,用意された座布団に腰を下ろしながら「あれは」と訊いた.
「そうそう,そのことも話そうと思って呼んだんだよ.何か自慢臭くなるかもしれないけど」と冷蔵庫から缶ビールを2本取り出しながら,少し恥ずかしそうに萩田は言った.


 ……私は,大学の授業料や生活費やを調達する為に先々6月に道路工事のアルバイトを開始した.初日に出勤した私に,人事担当者(社長兼)が仕事に関して私が主に訊ねるべき人物として紹介したのが萩田であった.萩田は就業当初再三再四(今も折々)何やかやについて質問する私を粗略に扱うことなく,懇切・丁寧に応答した.また,萩田は仕事に対して誠実であった.私はそんな萩田を好もしく感じ,萩田の私に対する印象もおおよそ同じであった(少なくとも悪くはなかった)らしく,萩田と私は親しくなり,終業後とか休日とかに飲みに行くなどのプライヴェートな(仕事上でない)交際が始まった.
 同年であることと,(私は学業の傍らのアルバイト,彼は専業という違いはあるが)同じ職場であることのほかに,私は私と萩田との間に共通点を特に見出し得ず,仕事に関すること以外の話題は互いに異なるにも拘らず私が萩田に一層親近したのは,私の大学での出来事とか最近読んだ小説のこととかの面白くもない話を萩田は熱心に,面白そうに聴くので居心地の良さを感じたのと,萩田の世界に対する曰く言いがたい一種独特の(一般的でない)(と私に感ぜられた)視点から語られる話に強く魅力を感じたためであった.
 昨日の仕事中に萩田は,互いに休業日である翌日,つまり今日,私が彼の家を(主に飲酒と歓談とを目的として)訪れることを提案し,私はある用事の為に来訪が夕方になることを断って,承諾したのであった.彼が私を家に誘うのは昨日が初めてであり,私が彼の家を訪ねるのは今日が初めてである.


 萩田はビールを一口飲んで「俺の,温暖化対策……っていうか,そんな大げさなものじゃないんだけど,ちっぽけな,抵抗みたいなものなんだよね」とやはり何となく面映そうに言った.
 私は理解できずに,萩田の顔をつい凝視した.私は卓袱台に置かれた缶ビールを手に握ったまま,口をつけようとしなかった,というより,口をつけることを忘れていた.私が怪訝な顔をしていたのだろう,萩田は続きを話し始めた.
「エアコンってのは,エアコン(室内機)から涼しい風が出てきて,外に置く機械(室外機)から暑い風が出てくるだろ.だったら,逆向きにしたら,ちょっとは外を涼しくできて,温暖化も抑えられると思って」
 私は萩田が室内に室外機を設置し,室内機が見当たらない(外に設置されている)意図を理解し,それから,部屋を閉め切って室内の空気と外気とを遮断したためではなく(それだけではなく),室外機から放出される熱のために,室内に外気より高温の熱を孕み,玄関を開けたとき猛烈な熱風が生じたのだとも理解した.私はビールで喉を潤し,萩田の考えの誤っているのを指摘しようとしたが,ちょうど萩田が再び話し始めたので言いさした.
「俺,中学出て働き始めて,仕事にも慣れてきた頃に,生きてる意味みたいのを考えたんだよ.別に夢があるわけじゃないし,子ども育てなきゃいけないわけじゃないし,仕事も,嫌いってわけじゃないけど,特別好きなわけでもないし,生きる必要ないんじゃないかって.人間がいるせいで動物が絶滅したり地球の環境が悪くなったりするんだったら,死ぬ必要は,ある.だったら俺は死ななきゃいけない,って考えたんだけど,死ぬきっかけみたいなのが見つからずに,ってか俺がただ臆病なだけかもしれないけど,とにかく,だらだら生きてた時期に,エアコンのこと思いついたんだよ.俺の生きる意味は,一生懸命働いて,その金でエアコン動かして,少しでも地球温暖化を防ぐことなんだなって」
 生き生きした萩田の表白に,私は愕然とした.
 そして同時に,いつか萩田が「俺は,学校の勉強が嫌いじゃなかったし,授業なんかも真面目に受けてたけど,ほとんどよくわからんかった」と語っていたのを想起し,私は彼が基礎的な科学の知識を,あるいは考え方を少しでも有していたら,と茫漠として,暗澹たる感慨に打たれた.
「? どうかしたんか」と萩田は心配気に,私の浮かぬ顔の訳を訊いた.
 私は,萩田にその訳を言うのを逡巡した.言わねば萩田が余りに不便(ふびん)である.しかし,言うのも,また,余りに不便である……それに,上手く説明する自信が私になかったことも,私を躊躇させた.
「なんだ,言いたいことがあるんなら,言えばいいのに.嫌な奴」と萩田が言うのを聞いて,私は,とまれかくまれ,説明しようと決意した.
「……エアコンが室内から室外へと熱を移動させるのに用いる電気エネルギーは熱エネルギーに変化し,総体として熱エネルギーが増大する,つまり,エアコンを動かしたときに,暑い空気と,冷たい空気とでは,暑いほうが多く出る,ということ……」
「うぅん……何エネルギーとかはよくわからんかったけども,結局,冷たい空気を外に出して,熱い空気を部屋の中に閉じ込めるんだから,暑い空気と冷たい空気のどちらが多く出るのかなんて,そんなこと関係ないんじゃないの.俺が電気代と暑いのを我慢すればするだけ,外が涼しくなるんだろ」
「いや,『熱い空気を部屋の中に閉じ込める』ことは完全にはできない.一時的に室内が高温になったとしても,空気や壁,窓ガラス,その他から,熱は室外へ伝播されてしまう.実際,エアコンを止めてから徐々に室温が下がってきただろう.……下がってきたにしても,まだ少し暑いなあ.扇風機は」
「ないよ.だって,生活費とかも節約して,できるだけエアコンの電気代に金を使ってきたんだから」
「……その,電気を起こすために,化石燃料,石炭とか石油とか天然ガスとかを燃焼させるが,同時に二酸化炭素なんかも生じてて」
二酸化炭素って,地球温暖化の原因になってるとかって聞いたことあるけど.……じゃあ,俺がエアコンを動かして,電気を使うってのは,うぅ,でも,『一時的に室内が高温にな』るってお前はさっき言ったが,じゃあ,外も『一時的に』は涼しくなるんじゃないの」
「外は如何せん広いからね.室内機の送風口の付近だけは極一時的に冷えるのだろうが,ほとんど,何も」
「だから,『ちっぽけな,抵抗』って言ったじゃないか.ちょっとでも,冷えるんだったら,いいよ」
「『ちっぽけ』ですら『ちょっと』ですらない.ほとんど何も影響を与えない.発電時にもエアコンの作動時にもほとんどのエネルギーを損失として熱に変換しているわけだから,むしろ温暖化に与して,あ,いや……」
「じゃあ,俺が,働いて稼いだ金注ぎ込んで,5年もずっと,糞暑いのに耐えてたのは,全部,地球温暖化のためだったって言うの?」
 思わず萩田を追い詰めてしまったことに気づいて,私は悔いたが,どうしようもなかった.
「ってか全然納得できない.だって,俺が,汗水流して働いて,ほとんど休み無しで働いてだよ,稼いだ金をね,稼いだ金をほとんど全部使って,年中フル稼動なのですよエアコン,夏の,今日みたいな暑い日なんて,地獄室内なのですよね,こっちを地獄にする分,外を天国にするのが当たり前で,冷気出まくって.エアコンからはがんがん冷気出てるのに,どうして,それが,ああ,わけがわからない,外に冷気出てて,俺が暑いの我慢してるんだよ,どう考えたって,俺が,温暖化,冷房当たって快適に過ごしてる奴らより,温暖化とか,暑い中をさらに暑くして生きている俺の方がなんて,自然に考えてますよ,おかしいですよ,うぅぅ」
 萩田の低く短い呻きの後,互いに沈黙のまま,暗鬱とした空気が私を圧迫した.
 数分経ったあたりでふいに掛時計の規則正しい針の音が聞こえてきた.というより,急にそんな音が意識された.萩田もそうであったらしく互いにほとんど同時に時計を見上げて,萩田が「もうこんな時間か.……いや,ありがとう」と呟いた.それほど時間が経っていたわけではなかったけれども,明らかに気落ちした声に圧されて,ろくろく返事もせず静かに部屋を出た.


 自宅の玄関の扉を開けようとして,それまで私がずっと缶ビールを手にしていた,計らずも持ち帰っていたことに気づいて,さらに私の気分が深く沈み込むのを認めた.飲むことも捨てることもできずに,そのまま扉の隅の目立たないところに置いた.


 翌日,萩田は無断で欠勤した.彼についてそんなことはこれまでになく,しかも連絡が取れないらしく社長は大層心配していた.私も社長と同断であり,しかも如上の出来事により社長以上に心配し,また何となく責任を感じてもいた.私は私が萩田の家を訪ねるべきであると考えながら,私の生来の卑怯のせいでぐずぐずと行かずにいたが,4日目にようやく訪問した.
 玄関をノックすると軽やかに扉が開かれ「あ,お前かア,ちょうど良かった」と晴れ晴れとした表情の萩田が現れた.私は4日前に萩田宅を去るときに横目で見た意気沮喪の態の萩田をそのまま想像しており,最悪,「俺の生きる意味」を失った萩田は自殺しているのではないかとすら考えていたのであって,私はやけに萩田が明るいことに不審を抱きつつも,とにかく大分安堵させられた.
「ようやく完成したんだ.明日から仕事をこれまで以上に頑張らなきゃいけなくなった.ほら,あれ,完璧だろ?」
 すっと伸ばした萩田の指先を眼で追った.窓外へ冷気が出るように取り付けられた扉のない冷蔵庫を見て,私は,私の無力を痛感させられた.