OjohmbonX

創作のブログです。

飛翔

「ご注文は?」
「瓶ビールだよぉもちろん瓶ビール以外ありえないじゃんぶふぅ」
「……グラスはどうなさいますか」
「ぶぶぶぶぶぶ要るに決まってるじゃないかぶふぅんどうやって飲むんだよ」
「……グラスは,いくつに,なさいますか」
「ぼふぉおん! 俺だけしか飲まねえよこいつが飲むなんてあるぃえねえっつーの」
「で……は……すぐに……お持ち致します……」
「ぽぴー」
 今夜はウェイトレスだ.結婚以来,毎夜私を看護婦,秘書,メイド,その他に見立てての遊戯.日毎に酷さを増す.とうとう他人・同僚を連れてきて,私をさらに辱め追い詰める,どぐされ夫は今夜も笑う……
 両親に相談すれば,同居している兄嫁が勝ち誇ったように嗤笑するのだろう.そして,情け顔で母を通して離婚を勧めるのだ.実家の私の居場所を少しずつ消滅させていった張本人が! もはや私を救うのは,みのもんただけだ.夫がどれほど私を追い詰めても,兄嫁がどれほど私の逃げ道を塞いでも,いつかみのもんたが全てを打ち壊し,私を救う.みのもんたによる救済の予感だけが私の平静を保った.


 窮まった.もう駄目だ.私がビールとグラスを盆に載せて居間に戻ると,夫が同僚の乳首を両足指で挟み込んで
「ぶっぶっこんな感じで,毎朝毎朝ぶっ」
 同僚と夫は私を横目でちらりと見てから,顔を見合わせてだらしなく嗤いあった.窮まった.私の寝相を暴かれた.私が家族以外にひた隠しに隠していた,寝ているうちに近くにいる者の乳首を足指で挟むという癖を,暴かれた.恥ずか死ねと? 私は私の生命を保持する為に,私の良い神みのもんたと明日の昼に接触しようと決意した.


「いやあ,奥さん,そんな旦那さんはいっぱいいますよ」
 神は私を見放した.私は圧倒的な疲れを感じて電話とテレビを切った.
 あの女が口を挟むまでは上手くいっていたのに.みのも出演者もスタジオの見学者もテレビを見ていた全ての人たちも,誰もが私に同情していたところに,コメンテーターだか何だかしらないあの女が,ブタ音声を発する私の夫はブタ似なのかと,流れを無視して容喙した.私は私の良い神と,私の生命を巡って対話しているのに,邪魔をするな!
「いいえ,私の夫の顔体はほとんど妻夫木聡です」
 スタジオがさあっと静まり返るのがテレビを通してでもわかった.夫,同僚,兄嫁だけでなく,あらゆる人が私を追い詰める側に回ったのだと,私は理解した.どうでも良い.どうせお前らはそもそも私を救えないのだから.私を救う私の神みのもんたはお前らなどには迎合せず,お前らごと私の世界を爆砕し私をユートピアへと導く……はずだったのに.「そんな旦那さんはいっぱいいますよ」? どこに「ぽぴー」なんて言う夫がいるのか!
 私は送受話器を取り上げ,再びみのもんたに電話をする.
「いつまでも黒いからって調子に乗ってんじゃないわよ!」
 荒々しく電話を切る.しまった.110番に掛け間違えた.怒りが私を狂わせたのだ.しまった.既に「あらゆる人が私を追い詰める側に回ったのだ」ったが,私はさらに,自ら私を追い詰めさせる口実を与えてしまった.警察は逆探知により私の居場所を速やかに特定するだろう.逃げるか? 無理だ.全てが敵になってしまった今,どこに逃げ場があろう.いっそ警察に夫の悪逆無道を訴えるか.いや,だめだ.私とみのもんたのどちらを信用する? あんなに黒くて良い神様と私を比べるまでもない.みのが白を黒と言えば,例え雪であっても,それは黒いのだ.


 玄関のチャイムが鳴る.体がびくんと跳ね上がる.まだ5分も経っていないのに.
 私は私の生を諦めた.神が世界の消滅を否定したのだ.つまり,私の生を肯定しなかったのだ.私はここで果てるべきなのだ.包丁を握り締める……
 うるさい! チャイムが絶え間なく鳴らされる.警察は私の死の権利さえ奪おうというのか.不当だ.その責任を少しはとるべきだ.
 左手でドアノブを握り,玄関の扉を開けると同時に右手の包丁を突き出す.包丁の刃を手で掴み止めたのは,警察官ではなく,良質のみのだった.こんなに黒いみのをはじめて目にする.刃から伝い落ちる血さえ黒い.みのは私の右手から包丁をするりと抜き取り,代わりに何かを握らせて,微笑んだ.しかし黒い.黒く,あまりに黒く,もはや虹色だ.光り輝く.みのは虹色の羽を大きく広げ,ぱっ,と飛び立った.
 飛翔するみのの後には虹ができた.


 消えゆく虹を見送って,右手をゆっくり開くと,1万円札と「これで元気出して」と書かれた紙切れ.私は十分満足して,夕食の準備に取りかかった.

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