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創作のブログです。

多数決がその前提として啓蒙を要求していることを忘れてはならない

 多数派が必ずしも正しいわけではない――しかもそうである場合が少なくない――ということは、Yoshiの『Deep Love』シリーズや片山恭一の『世界の中心で、愛をさけぶ』が、大西巨人の『深淵』や金井美恵子の『噂の娘』、笙野頼子の『水晶内制度』、阿部和重の『シンセミア』、中原昌也の『あらゆる場所に花束が……』、鹿島田真希の『一人の哀しみは世界の終わりに匹敵する』などを発行部数なり売上げなりの面で圧倒していたとして、小説の面白さとして圧倒的に劣っているという一事をとっても明らかなのに、多数派の意見をよしとする多数決が様々の場面で多く用いられるのはどういうことなのだろうか。

・多数派が正しくない場合


 ある問題を正しく理解できている人たち(A)と、現時点で理解できていないが理解できるポテンシャルを持つ人たち(B)と、理解できない人たち(C)とがいる、ということを上図は示す。(もちろん、特に正規分布に従う必要はない。それから、別の問題ではAがBやCになることも、その逆もある。)
 ある問題に対して正しい理解と解答を得ているAに比して、そうでないBやCの方が多数派であるなら、多数派の意見は正しくないということになる。

・多数決は啓蒙を要求する

 Aの領域が最初から十分大きければ何の問題もないが、BやCの領域が十分大きい場合、そのまま多数決をすると誤った解答を導くこととなる。
 そこで必要となるのは、AによるBの啓蒙である。彼らが十分にコミュニケートする過程で、Bの誤った意見・論理がAにより正され、Bの領域が縮小(消滅)する・Aの領域が拡大する。その結果、多数派が正しい意見を持っているだろう、とみなすのが多数決だ。
 ちなみに、それならば多数決などせずに最初からAの意見を通せば良い、と考えたとしても、不幸なことに、誰がAなのかがわからない。誰がAで、Bで、Cなのかがわからない以上、十分なコミュニケーションのとられた暁には正しい意見が多数派となっている、と信じるしかない場で、多数決がとられるのだ。(<みなす>とか<信じる>とか書かれるところに明らかなように、多数決は正しさを全然保証しない。)
 そういったわけで、多数決には「事前に十分コミュニケートすること」、「A、B、Cの全員が図で右側へ行くよう努力すること」、「Aが存在すること」、「AとBの合計がCに比して十分大きいこと」、などの条件が必要となりそうだ。
 こういった諸条件が満たされない・満たし得ない場においては、多数決はナンセンスでしかあり得ない。(が、そういった場で、マジョリティーが大きな顔をしていることが少なくない。たとえば、売り上げの多寡によって小説の面白さをはかるといったこと。)

・ついでに、『Deep Love』のこと

 小説という枠の懐の深さに驚嘆させられるような小説『Deep Love』が出版されたことに立脚して、日本人の知的レベルが下がった、などと嘆く人がいるが、それは大きな誤解である。

 上の図で、右へ行くほど小説が読めている人たちで、青が普段小説を読まない(買わない)人たち、黄が普段小説を読む(買う)人たちを表す。青と黄がまばらななのは、小説を普段読まないが読める人や、その逆が存在しているためである。
 当然、小説は黄の人たちにしか買われないのだから、出版社は右端の黄が集中しているあたりのレベルの小説を出版することになる。真ん中あたりのレベルの小説を出版したとしても、それより右側にいる人たちには見向きもされないし、左側にいる青の人たちには手にとってもらう機会がない。
 しかし『Deep Love』はインターネット・携帯電話を利用することで、左側にいる青の人たちに手にとってもらう機会を生み出せたため、一時的に普段より黄の人たちを増やすことができた、というだけのことであって、別に日本人が全体として左側にシフトしているということを意味しない。(様々の分野において、Aの人たちによって少しずつ全体として右側へシフトしている(あるいは、右側へ引き伸ばされている)ということはあっても。)<『Deep Love』が出版されたことに立脚して、日本人の知的レベルが下がった、などと嘆く人>は、たんに黄の人たちだけを見ているに過ぎない。
 黄の人が増えるということは(別して出版業界にとって)喜ばしいことに違いないし、『Deep Love』によってそれより左側にいる人たちが少しでも右側に行けたとしたら、これも喜ばしいことに違いない。(しかし、私自身は『Deep Love』を読むことでより右側に進めるとは思えないので、読む気にならないが。)

・付記

 ところで、これを書き進めていくうちに、これと同じことがすでに書かれているのを私は知っている(どこかでそれを読んだ)ように思われてきた。そして、書き終えたところでそれが、『大西巨人文選1 新生』の付録『大西巨人文選1 月報1996・8』所収の「1957年3月5日付け『新日本文学界常任幹事会への意見書』」であったことを思い出した。

 ――今日主として必要なのは、多数意見の正当公明な・民主的な形成とそのようにして形成せられた多数意見にたいする正しい尊重・服従である。「少数意見を排除せず」の強調必要もさるべきこととはいえ、多数意見の成立・形成過程におけるフェア・プレイと民主性とこそ主として実践的に強調せられねばならず、このことが実行せられるときは、ほとんど従属的に少数意見にたいする不当な抑圧・排除は防止せられ得ることになり、かくて多数意見の尊重という、これこそ確立せられるべき目的が達成せられるのである。
(略)つまり、今日われわれは、「少数意見を排除せず」とか「少数意見を(も)尊重する」とかいうネガティヴなスローガン(?)を強調するよりも、むしろいまこそ「多数意見を尊重する」、「多数意見に服する」、そのためには「多数意見を公正・民主的に形成する」というポジティヴなスローガンをかかげるべきである。……

 ちょうど半世紀前に書かれたことを、私は新たな何物をも加えずに書き直したことになる。しかし、それはそれとして無益ではないと思われるから、載せておく。

・選挙のこと

 小説のことしか例に挙げていなかったのだけれど、そもそもこのことを書く気になったのは参議院議員選挙についてテレビやら新聞やらで報道されていたのを見たり聞いたりしていたからだった。<こういった諸条件が満たされない・満たし得ない場においては、多数決はナンセンスでしかあり得ない>という意味で、選挙という多数決について大いに疑問を持ちながらも、それ以外の方法を示し得ない以上、せいぜい<事前に十分コミュニケートすること>という条件を満たすよう努めるしかない。