OjohmbonX

創作のブログです。

教養主義?/裁判員制度のこと

 体系の皮相的な獲得は、その体系による束縛を往々にして結果する。
 例えば、ニュートン力学によってあらゆる物理現象が説明でき、またあらゆる物理現象がニュートン力学によってのみ説明されると信じて疑わない高校生がいるかもしれないし、構造はスタティックなものでしかないと信じて疑わない構造主義者がいるかもしれないし、神の存在を信じて疑わない宗教の信仰者がいるかもしれない。より卑近な例として「友達は大切だ」といった小学校なり何なりで教え込まれる道徳を挙げても構わないし、あるいは、スポーツ選手のフォームを列しても良い。
 ここで、体系の束縛から逃れるために、そもそも体系を知らずにいる、という解決を思いつくかもしれない。しかし、体系を知ることは体系に縛られることの必要条件ではあっても十分条件でない以上、それはネガティヴな解決である。ポジティヴな解決とは言うまでもなく、体系を知りつつ縛られない、ということである。


 ここで、あるいは蛇足でしかあり得ないかもしれない・言うも愚かのことかもしれない補足を2点挙げておく。
 まず、例えただ1つの仮定(=主観的な何か)のみによって構成されていようとそれをも体系と呼ぶ、ということ。
 それから、知る/理解する、といった語は、その体系を実践する用意を持ち合わせてようやく使い得る、ということ。ニュートン力学により物理現象を捉え得て、構造主義により社会なり言語なりの構造を捉え得て、宗教により世界を捉え得て――ただしこれらは、ある何かを正しく捉え得ないと断言し得る・体系の限界を知ることを含む――、あるいは、友達を大切に(?)し得て、そのフォームで競技ができて、それら各々を知っている/理解していると語ることが許されるのである。
 この後者の<補足>を踏まえて敷衍すれば、先述のポジティヴな解決、体系を知りつつ縛られないということは、とりもなおさず、理解した体系を実践するか否かを主体的に選択するということであり、換言すれば、体系を相対化・客観視するということである。そして、体系を相対化することとは、体系の持つ仮定(群)の採用が主観的でしかないことを、ひいては体系の選択が主観的でしかないことを認めることに他ならない。


 その意味で、体系の相対化、体系を主体的に選択しているという自覚の獲得に先立って、自分の持つ体系の仮定がいずれに存在するのかという把握が肝要であるように思う。
 水泳(競泳)のフォームであればその仮定を「より速く泳ぐ」ということと、その競技のレギュレーションに認めても構わないだろう。(そもそも別に速く泳がなくとも構わず何なら「より奇抜な動きで泳ぐ」でも構わないのであるから、「より速く泳ぐ」ということは主観的に選択されている。競技のレギュレーションも同断。)この仮定から出発して「より水の抵抗を小さくする」といったことを経て、あるフォームに帰結する。もしも、コーチなり何なりによってあるフォームを与えられた選手が、それを絶対視する=仮定からそのフォームへと到る論理を把握しようとしない=体系を皮相的に獲得する=そのフォーム自体を仮定としてそれが仮定であることに無自覚であるならば、彼は、そのフォームに縛られることになる。一方そうでない選手は、仮定から別の結果、より優れたフォームを帰結し得るかもしれないのである。


 体系を絶対視しないことは別の体系を生み出すための不可欠の条件である、ということは当然であるにせよ、新たな体系を生み出すには――効率の問題として――既存の体系を知った上で、そこからズラせてゆく方が有利であろう。その例として、ユークリッド幾何学の仮定の1つである平行線公準(=直角仮定)を採用しないことで、別の幾何学、双曲幾何学などが導かれたことや、古典力学から零れ落ちる・古典力学が説明し得ない現象であった光電効果量子力学古典力学を包含する)を導く一端を担ったことや、構造がスタティックであると仮定する構造主義に対して構造がダイナミックであり得ると仮定することである種のポスト構造主義が現れたことなどを挙げることができるかもしれない。
 要するに、創造的な何事かを成し遂げたいと願う者にとって、ネガティヴな解決を選択する・体系を知らずにいるより、ポジティヴな解決を選択する・体系を知りつつ縛られない方が有利であり得る、と言いたいのであり、これを指して「教養主義」と呼べるかもしれない。




 ところで、2009年5月までに日本で実施されるらしい裁判員制度は、

法律の専門家が当然と思っているような基本的な事柄について,裁判員から質問や意見が出されることによって,国民が本当に知ろうと思っているのはどういう点なのかということが明らかになり,国民の理解しやすい納得のいくものに(裁判が)なると思われます。
裁判員制度http://www.saibanin.courts.go.jp/qa/c1_2.html
(括弧内引用者)

と書かれるところからすると、体系=法のあれこれ(法の常識?)を知りつつ縛られないというポジティヴな解決を<法律の専門家>に実践させたいらしく、それは大変結構なことと思う。しかし、知りつつ縛られない契機、自身の持つ体系を相対化・客観視することの契機を<国民>(裁判員)へ身勝手に委託するより前に、<法律の専門家>自身にまずは求めよ、と<国民>私は言いたくもなるのであった。
 この感情は、自らの力を一切尽くさぬまま授業の課題の解答(レポートなど)をまるまる要求して憚らない同級生に対する苛立ちに、あるいは似ているかもしれない。私は、<法律の専門家>自身によるポジティヴな解決の試みがなされていた(いる)のかどうかを、知らない。




 なお、体系についての理解は「引かなくていいかもしれないボーダーラインを引くことしか頭にない人たちを減らしたい」(id:OjohmbonX:20070617:p1)に先達て書いた。上に書いたことを了解し得ない読み手にはこれを併せて読んでもらいたい。