読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

OjohmbonX

創作のブログです。

アジテルス

 その日は思いがけず早く会社が退け、いきなり家に戻れば妻が驚くだろうと少しばかりのいたずら心で連絡を入れずに帰宅しました。音を立てぬようそうっと玄関をくぐり抜け、居間を覗くとそこに妻はいました。私の帰ったことに気づかぬらしい妻は、片手に掲げたアジの開きを、飛行機の模型を持った男児がするように、空中で右へ左へ動かしているのでした。
「シュゥォワアァァァ」
 効果音を口で入れつつ、アジの開きを右へ左へ、あるいは宙返りさせたりしているのでした。夫の私が言うのもなんですが妻は誰もが貞淑と認める人で、結婚して30年強経ちますが、子供染みた言動を見せたことがありません。ですから、孫と一緒ならまだしも一人でアジの開きで遊ぶ妻に私は大きに驚かされ、ただただ唖然として引き戸の隙間からその後姿を見つめるばかりでした。
「くぅおっ! 速過ぎる、制御しきれねぇっ! お、おぅっ、おわああぁぁぁ」
 そう叫びながらアジを頭からちゃぶ台の足にぶつけたかと思うと「ドオォォォゥンヌッ!」と効果音を口で入れつつ、指をもじゃもじゃさせて爆発を表現していました。どうやら戦闘機のつもりのようです。
 それから直ちに右にアジの開き、左に生肉の塊を手にして、
「へえ、俺とやろうってのかい若いの」
「黒いイナズマ……あんたの伝説は知ってる……だが、時代は変わったんだ! あんたは旧式の戦闘機だが、俺のは最新鋭のステルス……勝負は目に見えてる」
「さあ、どうかな……? 来い!」
 どうやらアジの方が最新鋭のステルス戦闘機のようです。生肉とアジの激しいドッグファイトが始まりました。
「ピヒュールルルル……ドォゥンヌ!」
 アジの発射したミサイルが生肉に命中したらしく、妻は生肉をちょっとちぎって捨てました。
 あまりに夢中の様子の妻は、私がすでに、彼女の真後ろにまで迫っていることに気づいていないようでした。
「チュイーン、チュイーン、ド、ド、ド、ド……」
「何をしているの」
「ひいぃょぉぉぉっ!!」
 私が声をかけると妙な悲鳴を上げて、よほど驚いたらしくアジの開きと生肉を放り投げました。生肉はうまい具合に私の禿頭へぬちゃりと着地しました。
「いつ帰ってらしたんですかっ」
「何をしているの」
「どうして電話して下さらなかった!」
「何をしているの」
「え、ええ、今日はちょうど、魚屋さんでいいステルスを見つけたものですから」
「ステルス? ふうん、どう見てもアジの開きにしか見えないけれど、これはステルス戦闘機なの?」
「……ええそうです。これはとてもアジっぽいステルス戦闘機です」
 狼狽していた妻でしたが、私の意地の悪い言い草とにたにた笑いにいささかむっとしたようで、急に開き直ってアジのことをステルスと言い張り始めました。これは面白いと私も悪乗りしてしまいました。
「どうしてもアジの開きにしか見えない」
「いいえ、ステルス戦闘機です」
「どうして魚っぽい形をしている必要があるんだ」
「それは……その方が、いいからです」
「何がいいんだ? わかるように説明しなさい。何がいいんだ?」
「……味がいいのです」
「フホッ! 味! 馬鹿な」
「馬鹿げてなどいません。任務の上で必要なことなのです」
「お前は頭が悪いからいけない。言い逃れもあまりに稚拙に過ぎる。出任せにしても、もう少し先を見通して言え。一体、ステルスの負う任務と味に何の関係があるんだ。言えるものなら言ってみろ。何の任務だ」
「あなたの……口の中に突撃する任務ですー」
 逆上したか、妻は拳もろともアジテルスを私の口の中に突撃せしめ、私の前歯は折れました。激しい痛みと怒りを感じました。確かにからかいはしたがこの仕打ちはあんまりだ、折れた前歯はもはや取り返しがつかぬ、あんなみっともないアジテルス遊びを遊んでいた自らを恥じることなく逆ギレ、なんたる悪妻か、と妻を睨め付けようと痛みにつむっていた目を開いたところが、呆然とさせられました。
 妻は、涙を流していたのです。そうしてこう言いました。
「これは、愛です。私の、偽らざる、まことの、愛です」
 滂沱として流れる涙を拭いもせずに、血まみれのステルスを私の口から取り出しそのまま貪り食い始めました。そして私の禿頭に載った生肉を刷り込むように撫で回しました。
「あなたのハゲ頭に栄養がゆきわたって髪が生えてきますように、って」
 私は、許そう、妻のすべてを受け入れよう、アジテルス遊びを遊ぶ妻を受け入れよう、と心に決めました。私もまた涙を、恥も外聞もなく、ひたすら流しに流していました。この涙と、私の口から流れるものか、あるいは妻の拳から流れるものか判然としない血とで、私の顔はぐちゃぐちゃでした。
「今から二人でドッグファイトをしよう。さっきの続きだ。俺も悪かった。俺がアジの開きの役をする。お前は生肉だ。いいか」
「そうです私は生肉です。ようやく私、本当の妻になれたように思われます」
「ああ、俺も、これからは真の夫であり、新鮮なアジの開きであり、最新鋭のステルス戦闘機である」
「そうです私は生肉です! 行きます、あなたと共に、どこまでも行きます!」
 妻はラジカセのスイッチを押し、X JAPANの"Forever Love"を流しました。
“フォーエヴァーラーヴ”
「へえ、俺とやろうってのかい若いの」
“フォーエヴァージュリーム”
「黒いイナズマ……あんたの伝説は知ってる……だが、時代は変わったんだ!」
“あ・ふ・れ・る・ぅ”
「あんたは旧式の戦闘機だが、俺のは最新鋭のステルス……勝負は目に見えてる」
“想いだけが”
「さあ、どうかな……? 来い!」


 波平54、フネ52の年のことであった。