OjohmbonX

創作のブログです。

時期はずれのメリークリスマス

 何か妙な夢から目覚めると、娘が私の額を小さな人差指と中指でとんとん、とんとん叩いていた。枕元に立つ娘の顔をはっきりしない頭でぼんやり眺めているとしばらくして娘は私の目の覚めたことに気づいた。
「麻衣ね、とんとんしてるの」
「どうしてとんとんしているの?」
「昨日幼稚園で紙相撲やったの」
「だからとんとんしているの?」
「うん。お父さんの鼻もとんとんするかなと思って」
 悲しみが湧いた。私はこれほど娘を愛しているのに、この程度の娘の願いさえ叶えてやれない。しかし奇跡は起きた。私の鼻が顔面から離脱して娘のとんとんに合わせて顔面をとんとん動き出した。愛の力ってすごい。娘はあまりの気色悪さに驚き、ノーモーションで吐いた。娘の異変に台所から駆けつけた妻は、畳の上に転がったゲロまみれの私の鼻を見てギィエエエと叫んだ。叫んで、駆け寄って躊躇なく私の鼻を足で踏み潰した。普通、叫んだ後は事態を飲み込もうとしばらく遠巻きに眺めるものではないか。それを踏み潰すなんて。普段はおとなしい妻が突然ほとばしらせるこの凶暴性に私は惹かれたのだった、とふいに思い出した。
 15年前、高校生だった私は彼女の自宅に招かれた。部屋の中でしばらくぽつりぽつり話した。二人で初めての性交を実施する運びとなった。緊張の極みに達した彼女は、静けさを唐突に破るギィエエエの叫びを叫んで、私の睾丸をしたたかに殴りつけた。痛みに私もギィエエエと叫んだ。ドアを蹴破った彼女の父親もこの惨状を目にしてギィエエエと叫んだ。叫びながら彼女は、睾丸へ執拗な打撃を加え続けた。私も叫び続けた。父親の叫びも止まなかった。近隣住民が呼んだ警察官に下半身丸出しで釈明するに至った。
 それ以来、舅は私によそよそしい。
 娘を連れて妻の実家を訪ねた私達を玄関で出迎えた舅は、鼻の無い私の顔を見て「あ、」と声を漏らした。しかしそのまま私の顔から視線を外し歓待の言葉を述べて私達を請じ入れた。弁明の機会は閉ざされた。夜、便所に向かう途中で浴室の前を通りかかると中から舅の「ああー、鼻がねぇんだよなあー……」と嘆息する声を聞いた。直接ツッコんでくれ。
 翌日、妻と娘が買い物に出掛けた後、舅と二人きりになった。何とか鼻の不在に言い及ぶよう話を仕向けた。
「最近寒いですね」
「ああ、今年は厳冬らしいよ」
「僕は特にこのへんが寒いんですよ」
「……」
 私は鼻の存在した辺りに手をかざしながら言った。
「あれぇ、何でかなあ、このへんがスースーするんですよ」
「……」
「あれれー? さむーい。あれれー?」
「……」
 私は何かを間違えたらしい。舅はそれ以降、私と目を合わせなくなった。
 私は舅に背かれた。けれども娘にはまだ愛されている。娘の書いたサンタクロースへの手紙には拙い字で一言「おとうさんのはな」とあった。私は泣いた。しかしそれは全て喜びによるのではない。娘の願いを叶えてやれない無力感にもよる。私はせめて、と娘の枕元の靴下にトイザらスで買ったスライムを入れておいた。娘はスライムを好きそうな顔をしているから、たぶん大丈夫だと思う。靴下はぐちょぐちょになり、もはやスライムと分離できないけれど仕方が無い。容器を捨ててしまったのだから直接入れるほか仕方が無い。最善は尽くした。私は娘の愛に報い得るだろうか? 翌朝、娘の華やいだ声を聞いて目を覚ました。やはりスライムで正解だったようだ。しかし娘はスライムに喜んでいたわけではなかった。娘の手にはスライムにまみれた私の鼻があった。娘の願いは叶えられた。サンタクロースはいた。娘ははしゃぐのをふと止め、手にある私の鼻をまじまじと眺めた。眺めて、吐いた。娘の異変に台所から駆けつけた妻は、絶叫しながら素足をさあっと伸ばして娘の手をその甲で軽く蹴り上げた。娘の手からぽんと飛び出たスライムと吐瀉物にまみれた私の鼻を、指で強く弾いて空中で粉砕した。粉々にされた私の鼻の粉末が窓からの陽光を受けて輝きながらゆっくり畳の上に舞落ちてゆく。妻はなぜかジョジョ立ちである。私と娘は呆然と眺めていた。全ての音が私達から退いた。ある諦念が穏やかに支配した。私の鼻は再び失われた。
 けれども翌日も、その翌日も私の鼻はクロネコヤマトのクール便で届けられた。送り主は偽名だった。そして毎朝娘は吐き、妻はギィエだった。私は鼻を得る喜悦と失う絶望を繰り返した。私達家族は疲弊し、3人で合計20kg体重が減った。そのうちの大半が麻衣ちゃんの肉である。麻衣ちゃんはデブだったのであるすいません。妻は自らを責めた。
「私が取り乱して粉砕しなければ、この悲劇は終焉するのですから私は家を去ります」
「いや、そもそも俺の鼻が無いのが悪い。君がいなくて麻衣はどうする。俺が出て行く」
「いやんいやん、麻衣がおうちでゆー」
「「どうぞどうぞ」」
 冗談を言う余力さえないほど疲弊しきった私達がついに心中を真剣に検討し始めたころ、舅が死んだ。私は仕事のため死の際に間に合わなかった。遅れて向かった病院で妻は、私に舅の遺骸へ対面する暇さえ与えず、切羽詰まったように娘を連れて私を舅の家へ引っ張って行った。
「父さんは、自分が体を悪くしていると知ってたのよ」
 妻は雨戸を開け放った。息を呑んだ。舅の庭は一面、鼻畑だった。私の鼻が咲き狂っていた。傾きかけた日が黄金としか呼びようのない光で、決然としたコントラストをもたらして鼻畑を輝かせていた。妻は私の横で涙ぐんで言った。
「父さんが、俺にはもはや彼の鼻を栽培してやることしかしてやれないって……」
 思わず知らず止めていた息をようやくついたと同時に「ああっ……!」と声を漏らし、あえなく私は泣きくずおれた。私は舅に背かれてなどいなかった。全的に許されていたのだ。
「そして私が跡を継げと、あなたの鼻を父さんに代わって栽培するのだ、と……でも私は無理! この鼻を見てるといてもたってもギィエエエェェェ」
 私の脇を抜けて妻は、風の如くに庭へ躍り出、ゆったりと舞を舞うように四肢を巧みに操って私の鼻を粉砕していった。こがね色に輝く私の鼻の粉塵の中で舞う嫁。娘は後ろでゲー。ただ呆然と見ていた。再びあらゆる音が私達から退いた。
 ふいに、妻にされるがまま舞っていた私の鼻たちが、かすかに蠕動した。気のせいとも思われたその動きはしかし確信させるに至った。娘が床をとんとんと小さな指で叩くリズムに同調して鼻たちが揺れている。三位一体であった。私の鼻、妻の舞、娘のリズム。舅は私達を真の家族に導いた。絶望的に深い幸福が私達を侵した。
 娘が突然握りこぶしで床をどんとひとつ叩いた。舞っていた鼻の粉末が一瞬間、停止した。そして一体的な動きで妻の周りを取り巻いて竜巻のように流れた。中の妻が狼狽している様が鼻の流れの間隙に見て取れる。イナゴの群れのような動きで鼻たちはそのまま妻の穴という穴から体の中へ流れ込んでゆく。体を痙攣させながら抗うことを許されずに妻は、体を膨らませてゆく。そうして全ての鼻が入り込んでパンパンに膨れ上がってから、破裂した。妻が四方八方に吹き飛ぶと同時に飛び散った鼻の粉末は、再び一体的な動きを見せ、雲のような固まりになった。娘はそれに跳び乗り、夕闇の彼方に消えていった。翌朝、謎の飛行物体に乗った少女が音速を超えて中国領空を侵犯したため中国空軍に撃墜されたというニュースを聞いた。
 私は私の愛する/私を愛する人々を同時に3人も失った。しかも結局、鼻も無いし。