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OjohmbonX

創作のブログです。

権利のための闘争

 やや混み合った電車の中で、若者が携帯電話でずっと大声で話し続けていた。その若者の肩を掴んで無理やり振り向かせたのは草野仁だった。草野さんは面前した若者の両肩を、厚い両手でがっちり掴んでいる。若者は体を揺すぶって抜けようとするがまるで動かない。若者の足はかすかに浮いている。草野さんは涼しい顔で若者を持ち上げているのだ。まるで逃れられない。そして草野さんは有無を言わせぬ穏やかさで宣告した。
ボッシュートになります」
デレ、テレ、テーン
 若者の足元に突然、黒く丸い穴が生まれて若者は吸い込まれていった。草野さんが若者の肩を離すと、まるでフラットな黒、あらゆる波長を吸収する完全黒体の穴に、何の抵抗もなく若者は落ちていった。身体は一瞬で吸い込まれた。そして同時に、妙な効果音が流れたのだった。
 そして穴は何もなかったように消えいつもの電車の床に戻っていた。


 乗客は誰もが驚いたが、マナーを守らなかった若者が悪いのだし、それを注意できなかった後ろめたさに黙っていた。彼らはさすが草野さんだと後ろめたさの裏返しに感心していたものの事態はそう甘くなかった。草野さんは無辜の乗客を手当たり次第ボッシュートし始めたのだ。
 乗客たちは次々に草野さんに捕まってボッシュートされてゆく。車内は混乱した。隣の車両に逃げようと両端に人が集まる。
「ハハハハハ、ボッシュート
 ちょうど草野さんが背を向けている隙に、私は席を立った。立ったが、その瞬間、ちょうど振り返った草野さんと目が合った。まずいと思う一方で、でもそのまま見逃してくれるかもしれないという期待も浮かんで中腰のまま固まっていると、
ハハハ、ハハハハハ
と笑いながら草野さんが大股で自分に目線を合わせたまま近づいてくる。私の希望を笑い声で粉砕して。慌てて逃げようとするがあえなく捕まった。捕まって瞬時に恥ずかしさが込み上げてきた。他の乗客たちが見ている、私をとろい奴だと蔑んで安心している、と思うと居た堪れなくなった。けれど草野さんの分厚い両手で肩を掴まれてみれば温かく、何もかもが、いきなりどうでも良くなるのだった。暴力的に思考を奪うのだ。仕事のことも家族のことも今俺を見ている乗客たちのことも、何もかもがどうでもよくなっていっそ、穴に落ちてもいいとさえ望んでしまう。あの穴、何も光のない穴に、入ってしまえばきっと、その先はまるで何もない、その何もなさに抗いがたく魅力を覚えている。公共の場で舌さえ絡ませ合って、体さえまさぐられているカップルの女の心情は、こういうものかと、ぼんやり思いついたところが口は、抗いの言葉をうわ言みたいに発していた。
「あ、やめて……」
「やめません」
「せめて、ヒントを」
「ヒントはありません。ボッシュ
ボッシュート!」
 自分でも分からないが、草野さんに先立って絶叫していた。草野さんの足元に黒い穴が出現し、草野さんは吸い込まれていった。吸い込まれながらふいに優しさそれ自体の笑顔を浮かべて草野さんは私に軽く頷いた。納得づくのボッシュートなのはなぜだ、全て知っているような顔をするのはなぜだ、疑問が一気に頭を飽和させるが解消されはしない、正解を教えてくれる男は永遠に穴に消えた。
デレ、テレ、テーン


 そういう訳で、この草野仁の存在しない世界で私は、脱サラして世界ふしぎ発見を仕切っている。芸名は視聴者を混乱させないよう草野仁の名を継いだ。
 むしろ痩せていた私の体はすぐに筋肉の固まり、ダルマのようになった。それは黒柳がすごいからだ。黒柳はクイズに負けた瞬間、その全存在を賭けて色気を噴出させる。スタジオ全体が黒柳の絶望的にムンムンの色気に流されそうになる。不正解を無かったことにしそうになる。常にパーフェクトを目指す黒柳の執念、この色気を無効にして厳然とボッシュートするのは並では勤まらない。厚い筋肉を身にまとって防御するのだ。
 そうしてある日鏡を見てぞっとすることになる。肉体のみならず顔まで草野仁そのものになっているのだ。
 ボッシュートを繰り返すうちに耐え難くなる。一方的にボッシュートする快楽は耐え難い。その後に猛烈な罪悪感を伴うこの圧倒的な快楽に耐えようとますます筋肉を鍛える。けれど少しずつ初めの快楽は薄れ、罪悪感を免れるためにプライヴェートで、誰も見ていないところで何か適当な小物をボッシュートし始める。けれど次第に小物では満足できなくなる。家電を、机を、それでも、もはや非生物では満足できず、飼い犬を、ボッシュートしてしまった。筋肉をさらに鍛えるが少しずつ魂が追い抜いてゆく。これはいけない、肉体が壊れるか、あるいはその前にボッシュートの欲望に飲み込まれてしまうと危機感をディレクターに相談すれば彼は、目を背けていた哀しみがふいに目の前に現れたという顔で、君は4人目の草野仁なのだと言った。私は完全に理解した。
 草野仁という魂はこうして人の肉体をいくつも渡り歩いて受け継がれてゆく。黒柳徹子という肉体と魂の融合した完全な生物を抑え続けるために。一つ、私は世界のふしぎを発見した。
 そして私はもう一つ、ふしぎを世界に加えようと思う。私は草野仁を私で止めてみせよう。方法は分からない。それでもこの草野の連鎖を私が止めるのだ。いつか黒柳が滅びる日まで、たとえ身体が筋肉だけになってでも権利の委譲を留め切る。


 いつか草野仁黒柳徹子も滅び去った世で誰かが、このささやかな世界のふしぎを発見するだろう。