OjohmbonX

創作のブログです。

春はあけぼの

 彼は、部下に舐められるなど断じて許し難く耐え難く思ってこれまでひたすら隙の無さを養っていたので、今日から配属される新人に対しても、容赦なく厳しく接しようと決意して、迎え入れた新卒の新入社員は、そもそも極度に緊張していた上、課員全員の前での挨拶の場でいきなり、声が小さいだの話に筋が通っていないだの、事細かに反論の余地も与えられずに課長に責め立てられ、彼自身も自分を低く見せること、道化になることに慣れていなかったことも加わって、ほとんど恐慌をきたし、ひたすら謝罪の言葉を繰り返すものの、何を謝っているんだ、自分のどこを悪いと思って謝っているのだと課長にさらに責め立てられ、混乱の最中で次々に出まかせの言い訳を、自身でも意味も分からず繰り返し、ますます課長は苛々を募らせて責め上げ、新人はあわあわと泣き顔で言い繕い、二人の声は静かなオフィスに次第次第に大きくなってゆき、ほとんど怒鳴り合いを呈する中でついに、それを打ち止めたのは新人の、かすれたような、それでいて上ずった絶叫だった。
「かかか課長様、足をお舐めしましょう!」


 もともと静かだった課員たちはもちろん、課長も新人も黙ってオフィスは静まり返った。課員たちはもちろん、課長も新人も驚愕していた。何を言っているのか。
 ようやく課長が口をきいた。
「な、なぜだ」
「あの、」
 新人は自身でも意味が良く分かっていなかったが、何か筋の通った理由をすみやかに述べなければ、ロジックがなっていないと責められた記憶が生々しく張り付いていたので、口ごもって間も無いうちに、さらに分からないことを言った。
「課長様の足を、お舐めすることで、課長様の足が、清潔になり、課長様の仕事に対する、モチベーションが上がり、ひいては、課全体の、モチベーションが上がり、わたくし、新人のわたくしでも、せめてできる仕事をと思い、わたくしが、わたくしなりに、考えた、工夫でございますので、さっそく、お舐めさせていただきたいと思います」
「い、いいよ。そんなことしなくても。課長様、って何だよ……」
 課長は急に歯切れが悪くなった。これまでロジック、ロジックで仕事を進め、相手のほころびをまるで逃さず突いてきた習慣を持つ彼は、ほころびしかない、全体的に得体の知れないこの論理に恐怖していた。それを新人は、これだ、課長が望んでいたのはこれなのだと勘違いして、この一点押しを決意した。
「大丈夫です課長様、わたくしは、舐めますんで」
「違う。そうじゃない」
 なおも新人は課長に顔を寄せて興奮しながら言い募った。
「もう、今日はわたくし、それだけをするつもりで、出社したと、就職したと言っても過言ではなく、通勤中も、ずっと自分の手を、練習のつもりで、舐め続けてきたので、完全に手が、いい感じに、なっておりまして、」
 嘘八百を並べ立てる中で新人は「いい感じに」という言葉を使った直後、しまった、と思った。課長はついさっきもこの締まりの無い言葉遣いに対して、定量性に欠ける、客観性を失している、具体的にどの程度の効果があるのか数値で言えと責められたことを思い出して覚悟したが実際には、課長は目も合わせようとせず
「もういい。もういいから、席に戻れ。朝礼はこれで終わる」
と言うだけだった。
 新人は、許されたと思った。自分の熱意が通じたのだ、一人の社員として認められたのだと思った。安堵感から彼は喜色満面になるのを抑えられなかった。
 急ににやけ始めた新人を見て、課長はますます恐怖を感じた。
 新人は、まずは認められた、しかしこれは罠なのだと考えた。試されているのだ。自分が口だけの男か、本当に実行する男か。その場さえ逃れられればいいと思っているのか、いいや本気で仕事を成す気でいるのか。怒られ慣れていない新人の精神は既に破壊され、その末に一点の救いを見た以上、もはや何の迷いも無く、
「では、舐めさせていただきます!」
と叫んで課長の足元目がけて飛び込んだ。


 自分の指示をまるで無視して、猛烈に嬉しそうな顔で自分の足に飛びかかる自分よりはるかに年下の男に、課長の恐怖は突き抜けた。やめてくれ、やめてくれと逃げ回るものの、この新入社員は床を這い回りながら追いかけてくる。足に纏わり付いてくる。課長は発狂しそうになりながら後退りし続ける。


 逃げる上司と、その足に追いすがる新人を、課員たちは夢でも見ているみたいに思ってぼんやり、ただ遠くから見ているばかりだった。意味がよく分からなかった。それで何か、自分とは無関係に進んでゆく出来事を安全な位置から傍観してばかりだった彼らはしかし、巻き込まれた。新人は急に興奮した顔を課員のいる側に振り向けた。
「み、みなさん、課長様を押さえててください、ぼ、ぼく、その間になめますんで!」
 課員たちは黙っていた。動きもしなかった。ただ、この先の予測不能性に神経を尖らせながら、とにかく自分に降りかからないよう、すばやい反応の前の沈黙を守っていた。
 新人はしばらくきょろきょろ課員たちを見回していたが、それを一人の上に止めた。最も近くにいた比較的若い課員だった。
 新人の、期待に満ちてぎらぎらした目に見つめられて彼は、隣の社員に思わず目を向け助けを求めたが、その視線は受け止められずに隣の社員は目を逸らした。
 いつの間にか課長は彼のすぐそばに来ていた。手を伸ばせば届くような距離にいる。ほとんど新人は自分の足元にいた。そしてぎらぎらした目で自分を見つめている。期待を込めて見つめている。やめてくれやめてくれ、よりによって俺に期待するのはやめてくれと思いながら目を逸らせずに彼は新人を見つめ返している。
「せんぱい!」
 彼は反射的に課長を羽交い締めにしていた。いつの間にか背に回って腕を回していた。いけないいけないと思っていたのが、たった一つの声をきっかけに、もうしている。課長の全身の筋肉が固まりに固まっているのを感じた。課長の恐怖を彼は見た。
 課長の肩越しに、新人が課長の足を掴むのを見た。夢見心地のような顔をしてゆっくり、顔を靴に近づけてゆくのを見た。そして猫みたいに華やかに舌をちろりと出して課長の靴をささやかに舐めた。そして次の瞬間には、犬みたいに意地汚く舌を出せるだけ出して、一心不乱に舐めしゃぶっていた。足をしゃぶられて急に、課長の全身の力が抜けたのを感じた。重さがそのまま自分の腕と胸にかかった。彼はこれが死かと思った。死の受容、あきらめ。抱えているのは死骸のようだった。


 結局新人はそれから、直接お舐めするのがいい感じかもしれないと言い出し、もはや課長は何も言わずされるがままで、靴と靴下を脱がされた課長の素足は嬉しそうな新人にしゃぶり尽くされ、その日は一日、課長は椅子に座ったまま課員に一つの指示も与えずうつろな目で生返事を繰り返すばかりで翌日から出社しなくなり、次の課長は別の部署から横滑りしてきたとても人当たりの良い課長で、新人はしばらく誰かからこの話を蒸し返されるたびに顔を赤くして愚かさを恥じていたが、そのうち新人は新人でなくなり誰かの先輩になり、目撃した社員のうち定年を迎える者も次第に現れ、人が替わり、上司が替わり、会社はこうして、春と年度を重ねてゆくのである。