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OjohmbonX

創作のブログです。

それは既に一つの革命であり、そしてまだ始まったばかりなのだ

 友達に温泉の素を飲ませて遊んでいたら、急にその友達がゲボして、びっくりしちゃった。
 と10歳の息子が話すのを聞いて、明子は愕然とした。てっきりDSが流行っているものだとばかり思い込んでいたのに近ごろの子たちって、進んでるわ。私ぜんぜん知らなかった。さっそく明子はiPadを手に取り、safariを立ち上げた。
 あーお母さん、いけないんだ。ご飯のときは、ゲームとかしちゃいけないって言ってるくせに。
 黙れ小僧。
 ちょうど中華包丁で食材を切り落とす要領で、食卓をまな板代わりに、自分を指さす息子の小さな指をiPadで切り落とした。子供は木枯らしが吹き抜けるような声で悲鳴を上げた。明子は、こんなに切れ味がいいんじゃ、ジョブズが退いてもAppleは安泰であろうよ、と思った。それに、CEO職を退いただけでまだ会長職には留まっている訳だし。
 明子は血まみれのiPadを布巾で拭い、SafariGoogleを表示した。「温泉の素 小学生 飲ませる 友達 ゲボ 流行 DSよりも」と検索したが目ぼしい結果は得られなかった。「ゲボ」という言い方が一般的ではないかもしれないと「嘔吐」に変えて検索し直してみたが、だめだった。ワードが多すぎるのかもしれないと、あれこれ変えても無駄だった。
 ぜんぜん、流行ってないじゃないの、その遊び。お母さんをだますなんて、ひどいわ。
 明子は、強い光が高速で点滅する専用のアプリを素早く立ち上げ、iPadの画面を押し付けるように息子の目の前に掲げた。息子は泡を吹いて白目をむき、痙攣し始めた。癲癇の症状だった。明子は息子が癲癇持ちだと知って軽いショックを受けたものの、現代医療では適切な治療を選択することでその程度はかなり軽減され、自動車免許の取得も条件付きで可能であることを検索結果で知って安心した。さっそく息子を脳神経専門の病院へ連れて行きたいと思ったが、よく見たら息子の人差し指がとれている! 先にこの治療をしなければ!
 さっそく病院を検索する明子であったが、折悪くiPadのバッテリーが3%になっていたからあきらめて充電した。その間に食卓を片付けていたら、急に極度の疲労に襲われて明子はソファで眠ってしまった。


 翌朝、明子は息子の脳と指のことをすっかり忘れ果てていた。しかし「自動車免許の取得も可能」の部分だけ覚えていたので、息子をさっそく自動車教習所へ連れていった。
 お母さん。あのね、ご存知だとは思いますけど、自動車免許は18歳にならないと取得出来ないんですよ。
 じゃあ、仮免だけでいいですわ。
 しかし教習所の職員はその申し出さえ断った。彼は明子をかすかに嗤っていた。この辱めを明子は許せなかった。教習所の職員の、頸動脈のあたりをじっと見据えたまま、バッグの中のiPadに手をかけたところで、息子がお母さん、とおずおず呼びかけた。
 お母さん、僕ね、ほんとは新幹線の運転手になりたいんだ。
 愚かな夢だわ。敷かれたレールの上を走るだけの大人になりたいだなんて、愚かよ。
 可憐でつぼみのような夢を木っ端みじんに破砕された小さな心はきしみ、彼はぽろぽろ涙をこぼした。母親はそれを目にして、近ごろの子って変わってるわ、そんなものになりたいなんて、と思った。その瞬間、「近ごろの子」のワードを思った瞬間、一気に息子の温泉遊びの記憶が引き出された。明子はバッグからiPad素早く取りだし、Safariを立ち上げた。しかしネットワークにつながらない。明子のiPadは3Gモデルではなく、Wi-fiのみのものだった。この教習所には無線LANが用意されていなかったためネットワークに接続出来ない。
 どうして無線LANを用意していないの! 怠慢よ!
 明子はiPadを一閃、職員の頸動脈を切断して息子の手を引いて教習所を去った。
 こんな未開の地に用はないわ。だいたい車なんて、免許なんてなくったって好きに乗ればいいのよ。お母さんだって今までそうしてきたし、たぶんみんなもそうよ。


 ドラッグストアの店内で、明子はワイルドに温泉の素のパッケージを次々に開封し、息子に飲ませていた。私はだって息子のことを完全に理解している。息子の好きな遊びだって一緒に遊んであげられる。
 お客様おやめ下さい。
 何を? 購入前の商品を開封すること? それとも息子に温泉の素を飲ませること?
 明子はiPadのチラシ表示アプリを起動した。そしてドラッグストアのチラシを店長に示した。
 よく見なさい。ここにクーポンがあるでしょう。だから私にはこうする権利があるってわけ。
 クーポンは割り引きだけです。しかもそれは、うちのクーポンじゃなくてマツキヨのです。
 うるさいわね。マツキヨだったらあなたみたいにグチグチ言わないわよ。
 店長はたじろいだ。近所につい先日オープンしたマツキヨは激しい攻勢をかけている。客が目に見えて奪われている。今がこの店にとっての正念場なのだ。どんな手を遣ってでも客を繋ぎとめるべき時期なのだ。店長は、だから、この母子の脇で温泉の歌を歌って盛り上げた。
 ついに息子はゲボしだした。ゲボは温泉だった。だから店は温泉になった。繁盛した。マツキヨとの共存共栄だった。
 ゲボ温泉が繁盛すればするほど、世間は児童虐待であると非難した。
 ねえ、ゲボするの楽しい?
 うん。
 息子が言うので母親は世間の非難を突っぱねた。これは息子のためにやっているのだ。
 しかしゲボ温泉も長くは続かなかった。息子がゲボし過ぎて死んでしまったからだ。店は潰れた。マツキヨ一強時代の到来だった。


 葬儀はつつがなく進行し、出棺に至った。葬儀場の表で、明子は遺影(もちろんiPad)を手にして立っていた。涙も見せず気丈に振る舞っていた。iPadの中で子供はゲボしながら笑っていた。本望なのだと明子は信じていた。これと決めた夢に進んで死ねば、子供であろうと本望なのだと信じていた。そして私はそれを全力で支えた。温泉の素を飲ませ続けたあの日々は、いささかの後ろめたさもない。世間に後ろ指指されようと、私は何度でもその指をこのiPadで切り落としてやろうと、むしろ殺気立ってさえいた。
 iPadを持ち直そうとして指が、ふいに画面の上をスライドし、別の写真に切り替わってしまった。写真を戻そうと画面を見て明子は慄然とした。それは息子が、新幹線の運転士の帽子を被って笑っている写真だった。いったいいつ撮られたものかは分からなかった。これが本当の笑顔だと明子は知った。これと並べれば温泉を吐く笑顔がいかに苦しみを糊塗したものかは明らかだった。あの笑顔は私の望みを無理に映した鏡なのだと思った。思った瞬間、明子は膝から崩れ落ち、嗚咽した。
 おお、史也! もう死んでしまった。私は愚かな母親!
 そのときどこからともなくiPadが飛んできた。強い回転がかかって空を裂いてくる。それはまだ誰も目にしたことのない新型iPadだった。参列者の誰ひとり声を上げる間もなく、新型iPadは明子の首を切り落とし、どこかへ飛び去っていった。
 明子は絶命した。
 愚かな女への、最後の慈悲であった。



 会長、いったいどこへお出かけになっていたのですか。
 日本だ。
 そんなお身体で! いけません!
 構わないさ。私はただ、全てのAppleユーザーを愛しているだけなんだ。