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OjohmbonX

創作のブログです。

つつきつつかれ

 白刃をだらりと提げた噂の辻斬りを面前にしてもなお平内は、自身が標的とは露ほども考えなかった。名のある遣い手を選ぶと噂の辻斬りが、まるで剣に疎い自分に用のあるはずもないと信じきっていた。
「抜け」と辻斬りに言われるまま訝しげに刀を抜くに及んでようやく、自分が斬られようとしていることと、その理由に思い至った。


 平内は今世話になっている家へ、死んだ親の残した金で買った免許皆伝を提げ、
「私から剣術を奪えば何も残りますまい」などと嘯いて転がり込んだ。ずいぶん剣術に熱心な家主が子弟専属の剣術家を探していると耳にしたのだった。住み込んで平内はただちに馬脚を現した。
「貴様、剣などさっぱりではないか」と詰る家主にしかし
「さようで」と笑っていたら、何となく呆れて許されたのだった。その妻や子供たちからも気に入られ、それから家事や雑務や子供の世話をしてほとんど下男のようにその家に留まっている。およそ二百五十年後、おぎやはぎが取ることになる手口と人柄に平内は先んじていたのだ。
 そんな当人も忘れていた訛偽に今更騙されたのか。
 平内は思わず笑みを浮かべた。過去の自分が追いついて今の自分に復讐しているように思えた。あり得なかった剣豪の自分、その亡霊がこの目の前の辻斬りであるような気がした。そうしていずれ逃げても斬られ向かっても斬られる。過ぎた冗談に思えてつい、笑いが口元に広がるのを抑え切れずに平内はやや顔を伏せた。


 目の前の男の笑みに古淵は虚を衝かれた。これまで斬り捨てた男たちの誰もこんな顔を浮かべなかった。
 辻斬りを始めたばかりの頃、男たちは古淵を嘲笑した。よりによって選んだ相手がこの俺かと、自身の腕に恃んだ、まるで自分の死を前提にしない嗤いだった。そんな名のある男が二人三人と惨殺されるに従い、相手の顔から笑みは失せ、強ばり、なお意地で向かっては地に倒れ臥す。この繰り返しに古淵はとうに飽きていた。
 そこへきてこの男の笑みだった。自信からくる見くびりでは決して無く、むしろ自嘲のような笑いに見えた。理解を越えたものに接して古淵は一瞬、自分が斬られる姿を夢想した。しかしそれならそれで構わないと思った。どの道もはや、うんざりしているのだ、何もかも。


 平内は途方に暮れていた。抜けと言われて抜き、刀を正眼に構えてはみたものの、当の相手が構えもしない。右手に刀を提げたまま構えぬ構え、後の先を取る無形の位を平内は知らなかったから、単に構えていないと思ったのだ。覚悟だか諦念だか定かではないが、自分自身はもう斬殺を受け入れているのだから早くしてほしいとさえ願っていた。この気まずい時間を早く終わらせてほしい。それでも相手は動かなかった。
 平内は仕方なく構えたまま歩み寄ってみた。それでも相手は動かない。切っ先はほとんど辻斬りの胸に接していた。


 古淵は驚愕した。間合いが一であり全ての世界なのだ。それをこの男、まるきり無視して、ちょいと飲み屋へ「やってる?」とでも伺う調子で間合いに入ってきた。生死を分ける境界を平気でずかずか踏み込んできたのだ。
 古淵は対応を取るのも忘れ、何か自分の方が間違っていたのではないか点検するように記憶をかき回し始めた。これまで立ち会った男たちは古淵の、まるでどこからでも斬り込めそうでその実どこからも斬り込みを許さない、いささかの水も漏らさぬ隙のなさに構えたまま寸分も動けなかった。ついに痺れを切らして半ば博打のように踏み込んだところを古淵に斬り伏せられる。確かに俺はいつも通りだったはずだ。それがなぜ、俺は今胸元に刀を突き付けられている。


 平内もまた困惑の極みにいた。胸元に切っ先が当たっている相手が何も仕掛けてこない。私を斬りにきたのではないのか! 仕方がないので平内は試しに、切っ先で相手をつんつんしてみた。


 俺つんつんされてる! 古淵の混乱は、死も構わぬという先程までの投げやりさをあっさり覆い尽くした。古淵は知らず知らずゆっくり後ずさり、きびすを返して闇の中に駆け出していた。
 闇に消えた背を見送って平内も刀を不器用に仕舞い帰路についた。




 古淵は翌朝早くに布団をあげたもののそのまま、天井を見つめて畳に寝転がっていた。昼を過ぎてもひたすら昨夜の顛末を反芻していた。
 昨夜は混乱のうちに、あれを秘剣か奥義の類いかと考えた。朝目覚めてすぐにそれを否定した。何でもない、剣を知らないだけだと決めつけた。それで片が付いたかに思われたが片付かない何かがわだかまり続けて昨夜の顛末を何度もつぶさに、一つずつ確かめるように思い出す作業を古淵に強いた。そのたびにあの混乱と、つつかれたこそばゆさを再現させた。首を傾げて胸の小さな点々の傷跡も見た。しかし感覚の再現は当夜ほどの強度には程遠かった。その劣化に苛立ち、その苛立ちが鞭を打ってまた一から思い出させた。どうにかして再びあの奇妙な感覚を取り戻すことに憑かれていた。
 そうするうち日も暮れ、また刀を差して家を出た。家の者は皆、噂の辻斬りが俺だと薄々感づきながら黙っている。そのまま流せば初めから何事もなかったことになると信じてでもいるように黙っている。それを思うたびに古淵は腹の中に暗い澱のようなものが滞るのを感ずるのだった。少しでもそれを漏らすように、古淵の口元にふっと笑いが浮かんだ。
 この部屋住みの三男を、どこか婿入りさせて片付ければ解決だとあいつらは思っている。古淵はひどく意地悪い気分に満たされて、絶対に逃れさせぬと口元だけの笑いをさらに引きつらせて思った。縁談など何度でも反故にしてやろうと思った。居続けてやる。
 きっと昨晩の男が俺を訴え出るだろう。俺に咎めがあるかもしれん。だが咎めがあっても腹など切らん。馬鹿馬鹿しい、死ぬなら庭で首でも括る。俺の醜い死骸が枝に揺れる不愉快を受けるがいいと、その想像にかすかに溜飲を下げた。しかしこの種の悪意を抱けばいつも、ただちにその愚かしさに苛まれ、いたたまれずにこうしてまた人を斬っている。
 今夜はもう二人目だった。まるで芸もない突きをかわしざまに胴を抜いた。おびただしい返り血は黒い装束と夜の闇に沈んでまだ足りない。それで三人目を求めた。小柄な老人だった。老人は足をもつれさせてよろけ、構えが崩れ油断を誘うと思えば突然鋭く飛び込んできた。古淵はそれをかろうじてかわしたが、着物が割れ薄皮一枚が切れた。すかさず追撃を与えたが既に老人は二間ほども飛び退っていた。さらに老人は飛び込んでは離れ、離れては飛び込んだ。物の怪の如き速さだった。そのたびごとに古淵は少しずつ傷つき、他方で古淵の剣先は空を斬るばかりだった。古淵は自身の中に怯えと焦りが生ずるのを冷静に見極め脇に押しやり、辛抱強く耐えた。次第に老人の攻めは間遠になり、鈍り始めた。体力の衰えは隠しきれないと見え、そうしてようやく古淵の剣は老人の体を捉え始めた。なお古淵は逸り気を抑えに抑え、慎重に老人を少しずつ斬り、息が乱れた瞬間を捉えて斬り伏せた。
 老人は古淵の剣の師だった。切り合いの内にあって古淵は、目の他は顔を黒い布で覆っているから気づかれまいと、気づかれねばよいと思ったり、あるいは気づかれたところで何だ、どうせどちらか死ぬのだと開き直ったりしていたが、見下ろした老人に「おい」と呼びかけられると総身に震えが走った。
「俺はお前など知らんぞ。狂人だな」
 軽蔑を露にして突き放すように言い捨て、老人は死んだ。古淵は耐え難い疲労を全身に感じて帰路についた。
 驚きなのは、自分でもどこかで赦されると楽観していたことだった。罪業の罰は免れ得ずとも、人自身、この俺自身は赦されると勝手に思い込んでいた。師の最後の言葉に落胆した時、その落胆の淵因を心中探り、探り当てたのがその思い込みだった。自分がまだ何かに縋っていたと知って驚くのと同時に、親も師も無い、もはや何物も無いと知って掛け値なしに絶望した。
 何も無いがせめて、昨晩のあの不思議な感覚だけはもう一度味わってみたいと思った。古淵自身はその欲求を、蹴りを付けていないものに蹴りを付けておきたいという信条からきているものとだけ見ていたが、絶望をかろうじて回避するための、それもまた縋ることに外ならぬこととはいささかも気づかなかった。


 平内は洗濯板に衣類を擦り付ける手をふいに止めた。昨夜のことを思い出していた。何か思考がまとまるというのではなしに、散り散りにただ思い出すだけだった。
「あれお侍さん、どうしたの」
 通いの女中に声をかけられた。平内は女中や下男の連中に「お侍さん」と呼ばれていた。刀も遣えぬくせに、という意味がこもっていたが軽侮ではなかった。もっと親しみをこめて、自分たちに近しい存在と見做してのことで、平内は心地よく受け止めていた。
「いや、今日は暖かいなと思って」
 女中はうれしそうに笑って去った。突然手を止め放心していた理由が、自身の知った平内のものと知って安心したのだ。
 今度は手を動かしながら考えていた。聞こえが悪いから世間には、自分が剣術遣いのままにされていたことを思い出した。しかし女子供の口に戸板は立てられず、女子供から伝わって男たちまで、誰もが表立っては言わないまでも住み込み剣術遣いの真相を知って、誰もが嬉しそうに受け入れていた。
 それなのに昨晩の辻斬りは自分を剣術遣いと勘違いしていた。ひょっとして世間との関わりをほとんど失った男かもしれない。
 そういったあの男のあれこれを推測しながら、平内自身も中心をあえて避けていると気づいていた。そして別にその中心を追い求めようという気も支度もないままに突然、あのとき、あの男がなぜ自分を殺さなかったのか、という問いが言葉になって胸を衝いた瞬間、見たくなかったものを見た思いにとらわれ、ひどく気分が沈んだのだった。あれは私に幻滅したのか。平内はもうたまらなくなって洗濯物を手放し桶の縁を両手で掴み、桶に張った水に視線を落とし何も見ないまま固まった。
 自分から進んで身を窶したような男だが、自分の企図しないところで誰かに落胆されるのは耐えられぬほどの嫌悪を自分自身に浴びせるのだった。
 突然、その傾いた背中に柔らかいものがぶっつかってきた。
「ねえお侍さん、どうしたの」
 家の子供だった。甘い土のにおいが鼻の奥を満たし、体温の高さを容赦なく背に伝えていた。
「桶を覗いてみたらね、ちょうど雲が映っていたものだから」
 そんな平内の肩越しに子供も桶を覗き込んで、きゃっきゃと嬉しそうに笑った。




 突然姿を現した自分を前に呆然としている古淵を少し笑って、平内は脇道に入った。古淵がついてくるのを背で感じつつ、階段を上がり人影の無い神社の境内で足を止めた。月のよく出て明るい夜だった。
 静かにたたずむ平内を前に、古淵は何か焦るように口の覆いを外して捨てた。平内はゆっくり刀を抜いて正眼に構えた。先夜とは違い今度は古淵の方から、居ても立ってもいられぬといった態で切っ先の寸前まで近づいた。平内は古淵を再びつんつんした。
 つんつんされながら、期待と焦燥をあられもなく零していた古淵の表情はみるみる枯れていった。最初につつかれたときに味わった、強い混乱と興奮に思考を取り払われた中で、心地よさとも言い換え得る軽い痛みをあちこちにいくつも植えられていく、あの極めて不思議な尾を引く感覚は、既にここにはなかった。ただそれだけを求めて生き長らえていた古淵にとってもはや絶望だった。
 謎解きをして退屈だと思い、他人を、師さえも斬って違うと知り、もはやこの男しか自分にはないと観念して確かめた結果がこのざまだった。どれだけお膳立てしようと、全く同じものは二度と現れないと知った。古淵は肩から背にかけて、脱ぐことのままならぬ石の重い羽織りをかけられたような疲労を感じ、
「もう殺してくれ」と言っていた。それから言い訳みたいに、
「俺を殺せば手柄にもなろうし」と付け加えた。
「では私も斬ってもらおうかな」と平内は屈託なく笑った。
「落胆されたまま終わるのも夢見が悪いし、それに、それでお前も分かるか知れぬし」
 俺が分かるとはどういうことかと古淵が問い返すより早く、平内は突きを繰り出していた。ほとんど反射的に古淵も鯉口を切って刀を走らせた。平内の突きが古淵の腹をえぐった直後、古淵の一閃が平内の首筋を断ち切った。
 平内は即座に絶命した。


 地に伏して痛みにもがきながら古淵は、平内の死骸を見て混乱しつつ精一杯考えた。平内の意味や意図を自分の中でいくつもいくつも取り出しては否定する繰り返しの中で突然、惜しくなった。思考を暴力的に無化して、ただ堪らなく惜しく、この世の、自分自身を含めた何もかもに耐え難く恋い焦がれた。そんな感覚はこれまでついぞなく、訳も分からず目に涙が溢れた。
 これまでは駄目ならただ次々に捨ててきた。そしてもう何も残っていないと絶望したのに、そうではなかった。例え二度目が一度目を喜劇として反復しても、それをそのまま愛せばよかったのだと気づいた。
 平内の的外れな剣が燃えるような痛みを古淵に与えて苦しませた。死に向かういまさら知っても遅いと恨みかけたがすぐに違うと思い直した。いつになろうが関係ない。全てを肯定する感覚を知れば、もはや幸福。自分を救済した男と、全てにひたすら感激しながら、古淵は苦しみ抜いて死んだ。
 夜が明け、日は酷薄な平等さで二人の無残な死骸を照らした。数えで平内が十九、古淵は十七であった。