OjohmbonX

創作のブログです。

善き羊飼いの子は羊

「ハーイ」
 かん高い声を聞いて甚六は、ヘーベルハウスを、意識しないまま心の底で一瞬期待しながら振り返るとしかしそれは、イクラちゃんだった。甚六にはまるで分からない。なぜ、いつから、自分の部屋にイクラちゃんがいるのか。
「チャーン」
 さらに振り返ると別のイクラちゃんがいた。甚六にはますます分からない。なぜ二人もいるのか。
「ハーイ」「チャーン」「ハーイ」「ハーイ」「チャーン」
 ころんころんとイクラちゃんは増えていく。甚六は分からない。どこからイクラちゃんが出てくるのか。なぜこんなにもいるのか。けれどともかく、イクラちゃんはいる。際限なく増えてゆく。増えて、この二階の六畳間はイクラの海になった。しかし考えてみればイクラなんだもの、うじゃうじゃいるのが正しいような気も甚六にはしてくるのだった。
 豊饒の海は甚六の膝丈ほどの深さで蠢いている。明るい栗色の細い髪が美しく海面を覆って揺らめいている。
 ばらばらに、間断なく発せられるハーイチャーンというかん高い声が重なってもはや、個別の声と弁別し得ない。思わず甚六は耳を塞ぐが無駄だ。頭を内側から割るような鋭さで音は、覆う手を無視して耳を素通りし脳を痛めた。完全に思考を奪われて思わず「うるさい!」と甚六が絶叫すると、声はぴたりと止んだ。蠢いていた海面も静止した。
 完全な静けさは、けれどすぐに持続を拒んだ。ばらばらに向いていたイクラちゃんどもは一人残らず中心にいる甚六に向いた。そして顔を上げ、甚六を不機嫌な目付きで睨みつけたかと思うと、
『バァブ』
と声を揃えて低く、一つ唸った。
『バァブ、バァブ、バァブ』
 そこから規則的に、機械的に揃ってイクラちゃんどもは鳴り始めた。鳴りながらそして、膝丈の海だったものが盛り上がり、次々に折り重なって甚六の部屋、この空間を埋め始めた。膝丈が腰の高さに、胸の高さに深まってゆく。永遠の予備校生である甚六は、物理化学の基礎的な知識を正しく得ていた。それで瞬時に認識したのは、イクラちゃんどもは六方最密充填で積み重なっているという事実だった。空間充填率は74%、球として最高の効率を誇る。
 規則的な『バァブ、バァブ』の音は、止まないアラームが警告の意味を無くすように、意識にあってもはや意味をなしていない。詰まりゆくイクラちゃんの頭のひとつが甚六の腹にめり込む。子供の体温の高さに包み込まれて息が苦しい。この構造の中で俺は異物か、74%に俺の存在する余地はあり得まいと甚六は生きることをあきらめた。どうして俺が、大学にさえ受からぬまま死なねばならないのかと、よりによってどうして俺が、と思うもののともかく、この自分が選ばれてしまったのだ。超越的な存在が主体性を発揮して俺を選んだ訳ではなく、まるで何の必然もなく、ただそこにあるようにして、選ばれた。そうして受け入れて、圧力と熱は高まってもはや、甚六は意識をまともに保てずそれを手放した。


 しかし意識は勝手に戻ってきた。少しずつ和らぐ圧力と熱に呆然としていると目の前のイクラちゃんがひとつひとつ取り除かれ、その透き間からウキエの顔が現れた。
「イクラちゃんばっかりこんなに集めて、どうかしてるのよ」
「俺が集めたんじゃない」
「どうでもいいわよ。いいから兄貴も手伝いなさい」
 甚六はウキエと一緒に、イクラちゃんをゴミ袋に詰め始めた。大きなゴミ袋が一つ一杯になるたびに口を縛って部屋の外に置き、次のゴミ袋に詰め始める。透明のゴミ袋はぐねぐねと蠢いてくぐもった音で「ハーイ」、「チャーン」と言っている。
 あらかた片付けたところでウキエは、イクラちゃんの詰まったゴミ袋を二階の窓から捨てた。地面にぶつかる衝撃で水風船のようにゴミ袋ははじけ、中からイクラちゃんが飛び散って、ばらばらに家の前の道を歩き回った。
「イクラちゃんを勝手に捨てて、近所迷惑じゃないか! 不法投棄、不法投棄!」
「いいのよ」
 ウキエは甚六に取り合わず次々捨てた。まだ部屋に残って袋詰め前のイクラちゃんも掴んで窓の外へ放り捨ててゆく。そして最後の一人の襟首を掴んでウキエが投げる瞬間、甚六は絶叫した。
「よく見ろ。それイクラちゃんじゃない、タラちゃん!」
 指摘は遅く、タラちゃんは既にウキエの手を離れ窓の外へ放り出されていた。
「ですーぅ」と尾を引く声が甚六の耳に残った。
「タラちゃんを窓から捨てていいと思っているのか!」
「いいのよ。兄貴は何にも分かってないのよ」
 甚六が窓枠に手をかけ外を覗くと、大量のイクラちゃんどもの周りを、タラちゃんが四つん這いで素早く駆け回っている。大量のイクラちゃんだけでは拡散してしまうところを、タラちゃんが散らぬようまとめている。完全なひとつのシステムだった。それでこの妹はいいと言ったのか。自信に満ちた態度をして、全てを分かっていたというのか。高校生のくせに、この妹は、タラちゃんを用意していたというのか。
「違うわ。私が用意したのではない。イクラちゃんがいればタラちゃんもいる、それは、ただ、そういうものよ」
 タラちゃんがイクラちゃんどもを追い立てて行く。その後ろを悠然とついていくのがタイコさんだった。羊の群れと牧羊犬と、羊飼いのようだ。そのままゆったりと去って行った。まるで何事もなかったように静けさが戻った。あんな子育てもあるのかと思った。


 しばらくぼんやりと、静かな窓外を見つめたままの甚六はようやく体を部屋に戻して驚愕した。一人イクラちゃんが残っていたのだ。しかもこの、捨て忘れのイクラは、ハーイともバブゥとも言わずに、
「えげっ、えげっ」
と喉を割るような音を発するばかりで、目はあらぬ方を向き、よだれも垂れたまま、せわしなくその場でぐるぐる回っていた。
「お前、喋れないのか」
 イクラに向かってというより、思わず呟いて甚六は、もともとイクラちゃんは喋れないじゃないかと思ったが、
 しかし壊れている。
 猛烈な哀しみに襲われて甚六は、壊れたイクラを捕まえて抱え上げた。
「ぎぃー、ぎぃー」
と嫌がり暴れるイクラをなおも甚六は抱きすくめた。小児特有の甘い匂いと体温の高さが迫って甚六は苦しいほどのいとおしさを感じた。腕をかまれたが、それすらいとおしい。この子は俺が育てようと思った。
 その決意を笑ってウキエは、イクラちゃんを甚六の腕から取り上げた。さっさっと二度ほどイクラちゃんの頭をウキエが撫でるととたんにイクラちゃんは安らいだ顔でおとなしくウキエの腕の中に収まった。ウキエはイクラちゃんを母親のような顔で見つめている。甚六は顔が熱くなるのを感じた。突発的な怒りだと分かって、ああ、これが嫉妬かと知った。こんなところで、こんな形で嫉妬という物を知るとは思わなかった。そうして冷静に一方で考えたところで、沸き立つ憎悪は他方で沸き続けている。この感情を解消するために荒々しくウキエからイクラちゃんを取り返そうとした。
 ウキエは微笑したまま、甚六がいくら揺すぶってもびくともしない。イクラちゃんはその腕の中で安らかに眠っている。
「イヤーッ」
 甚六は少女のような声を上げていた。それをウキエは蔑んで嗤う。
「男の嫉妬ほど醜いものはないわ」
 ウキエは窓辺へ歩み寄り、イクラちゃんを、窓から捨てた。
「イヤーッ」
 甚六はウキエを突き飛ばして窓に駆け寄る。イクラちゃんは家の前の道路にべったり落ちていたが、ゆっくり立ち上がって、目的も意味もなしにその場でぐるぐる回り始めた。甚六は振り返りざまにウキエの頬をしたたか打った。
「あいつには、牧羊犬も、羊飼いもいないんだぞ!」
「兄貴は何も分かって無いのよ。あれでいいのよ」
「お前が言うのだからそれは正しいのだろう。だが俺には分からない。分からない以上、俺は、俺の信じるところをするより仕方が無いんだ」
 俺はこの子と生きると決意したのだ。甚六は窓枠に足をかけた。
「私たち家族を見捨てるか」
 地獄の底から響くような低い声に振り返ると、全てを燃やし尽くすようなウキエの眼が迫っていた。ああ、この目は、この顔は一生自分を責めるだろう。記憶に張り付いて自分を苛むだろう。そういう予感を持ったが甚六は、すでに窓枠にかけた足に力を込めていた。飛び降りようとした瞬間、シャツの裾を引かれた。
「私を見捨てる?」
 燃えるような目ではなく今は、水の底に沈んだ哀しい目でウキエは見ていた。さっきの目なら、一生自分を苛むことになったとしても、それに対するように自分を立てれば苦しみながらも生きられる。しかしこの目は、全てを飲み込んで、対立すら許さないだろう。もはやこの絶望の目を見て自分は生命を保つことすらままならないかもしれないという、思考というよりやはり予感を見たのだが、きわめて強固な愚かさを頼りに甚六は、ウキエの手を払った。そしてもう一度、自分が飛ぶ先の道路を見定めたところで、向こうから一人の女が駆けてくるのに気づいた。
 タイコだった。
 彼女は九十九匹のイクラちゃんたちをそのままに、たった一匹の、この一匹の迷える子羊を迎えに走ってくるのだ。そしてえずきながら狂ったように回り続ける一匹のイクラちゃんを抱き締めた。
「チャーン!」
 イクラちゃんはひとつ空へ響く声を上げた後、あぁーん、あぁーんと、母に抱かれて存分に泣いた。そこへタラちゃんに率いられた九十九匹のイクラちゃんがゆっくり追いついて取り囲んだ。ハーイ、ハーイ、ですぅと晴れやかに、彼らは一斉に祝福した。お日様も笑っている。
 甚六はこの眼下の光景に感激をあらわにして
「主よ! 主よ!」と叫んだ。
 しかしウキエはそれを笑った。
「ハハハハ。あれは悪魔よ」
 ぎょっとして甚六が振り返る。
「あいつも、わたしも、それから、あんたも悪魔よ。ハハーッハハハ」
 甚六は、妹が言うのだから正しいのだろうと思った。