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創作のブログです。

ファントムの中で

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1

 透明なガラスケースを子供の指で叩きながら、持ってる、持ってる、持ってる、持ってない、持ってる、と壊れた花占いのように大声で呟いていた。ケースの中には遊戯王のカードが陳列されていたが、ひどくまばらで品揃えは悪かった。平日の昼間は表の通りも静かで、窓の塞がれた雑居ビルの一室の中に外の光はささない。たくやはこつこつガラスを叩く指を止めた。退屈そうな顔で
「店長ぜんぜん客きてないじゃん」と言った。
 ガラスケースに囲まれたレジカウンターの中でぼんやり宙を見ていた吉崎は、視線も姿勢も動かさなかった。
「ねえこの店大丈夫なわけ?」
 たくやの声はまだ男の声に変わっていなかった。
「たくやがたくさん買ってくれればいいんだよ」
「金ねえし」
 たくやは店の奥へ移動して、折り畳み式の長机の上に座った。1時間100円の利用料をとるデュエルスペースだったが稼働率はあまり高くなかった。店には装飾もポスターもなく、事務所か部室のようだった。たくやは床から浮いた足をぷらぷら振っていた。
「ちょっと、そんなところに座らないでよ!」
 吉崎が突然怒鳴った。たくやは足を止め、口を開けたまま吉崎の顔を見ていた。
「降りろよ!」
 たくやは慌てて机から降りた。不安そうな顔で黙って突っ立っていた。憎々しげな視線をしばらくたくやに寄せていた吉崎は、何も言わずに振り向けた顔を元に戻した。たくやは数分そのまま立っていたが、音を立てないように注意してパイプ椅子を引いてゆっくり座った。大人に突然怒られて元気を急落させていた。ケータイをいじっている吉崎の背中へ、盗み見るように時折視線を送っていた。まだ怒っているのか、もう大丈夫なのかはかりかねていた。


2

 カードゲームショップ・ファントムは、形式的に開かれていながら実体的には極めて閉じられていた。ファントムは4階建て雑居ビルの3階に店を構えていた。ビルの入り口には小さな看板が設置されていたし、ネットや雑誌のカードショップ一覧にも名前が出ていたから、公開された店に違いなかった。しかし店の窓はふさがれ、事務所のような扉からは店内をうかがうこともできず、一見の客には入りづらい雰囲気を漂わせていた。実際初めて店に入れば見慣れない顔を常連の客がぶしつけに眺め回して居心地の悪さを感じさせた。
 客層は小学生の高学年から大学生あたりまでで、男子中高生が中心だった。友人に誘われて来店し常連客になるパターンばかりだった。近辺には他にショップがなかったため子供の自転車の行動範囲ではファントムに行くしかなかった。競合店がないために乏しい品ぞろえのままだった。
 一部の子供たちにとっては家でも学校でもない溜まり場として居心地の良さを感じさせた。デュエルスペースも利用せず商品も買わなければ金もかからずだらだら過ごしていられた。店長の吉崎は40代後半の取り立てて特徴のない中年太りした独身の男だった。見守るというより子供たちに積極的に話しかけるタイプだった。吉崎は子供たちに侮られていたが、本人の中では慕われているという理解だった。


3

「お金がほしいの?」
「えっ」
 たくやには一瞬意味がわからなかった。怒られたばかりで少しおびえていたから鋭く反応したが、おびえていたせいで頭がまわらず意味を呑み込むのに時間がかかった。
「お金? はあ、まあ」
 なんとなくおもねるような口調になった。大人をなだめようと相手の気に入る反応を無意識に探っていた。吉崎がまだ怒っているのかどうかをはかりかねていた。とにかく話を真面目に聞いているという態度を示そうと、椅子から少し腰を浮かせていた。椅子がきしんで音を立てたから、たくやは焦った。吉崎を刺激するようなことは全て排除しようと努めていた。
「水着の写真をインターネットで売ってお金を稼ぐんだけど、1セット売れたら千円渡すってことでどう?」
 たくやには吉崎の言う意味がわからなかった。
「これってたくやにとって損になることがないよ。だって写真を撮るだけで、別に売れなかったら最初からゼロ円なだけで損しないし、売れたらそれでお金が入ってくるし」
 損得をゼロサムとしてどこで損が出ているのかを点検するといった視点は、たくやはもちろん持ち合わせていなかった。
「実はたくや以外にも三宅君とか、佐藤君とかもやってて、二人とも1万円くらいゲットしてるんだよ」
「えー……」
 吉崎は店を閉め、大きなデジカメとブーメラン型の小さな競泳水着を持ち出した。たくやは水着をつけるのをしぶった。そのときの吉崎の、大人の失望をあらわにした顔がプレッシャーになった。実際に水泳選手がつけて世界中のテレビに出てるのに恥ずかしいことはないし、他の子もそれで写真を撮っていると言われて、自分では納得した気で水着に着替えた。それは結局自分への言い訳だった。大人の圧力に負ける屈辱を、無意識に言い訳で塗り固めただけのことだった。
 立ちポーズを正面と後ろから何枚も撮られながら「かっこいい」、「結構筋肉あるじゃん」、「モデルみたい」と散々褒められて気分が乗ってきた。ブリッジや倒立をさせられた。長机の上に寝かせられて撮られた。さっきは座るなと怒ったくせにと釈然としなかったが吉崎の上機嫌に水を差したくなかった。天井の青白い蛍光灯を見ていた。


4

 用賀はたくやの隣で落ち着きなく視線をさまよわせていた。親に連れられて行くいつもの玩具店とはあまりにかけ離れた玄人じみた雰囲気に気圧されていた。
「いらっしゃい。はじめてかな」
「あ、はい」
「用賀君っていうんだけど遊戯王に興味あるっていうから」
「じゃあ最初にこれを買ってね。スターターデッキっていうの、つい最近こういう初心者むけのが出たんだよ。40枚カードが入っててすぐ遊べるようになってるから」
「あ、そうなんですか……」
 吉崎に言われるままパックを買い、二人分200円の使用料を払って、用賀は初めて会った高校生に遊び方を教わった。横でたくやはぼんやり眺めていた。しばらくデュエルもしていなかったなと思った。解説が進むうちに、たくやがあれこれ口を出して、高校生が苛立ちを募らせていった。たくやはそれに気づかず生意気に口出しを続け、用賀はやきもきした。吉崎が手まねでたくやを呼んで席を離れ、用賀は少しほっとした。
「いやあ売れた売れた」
 一瞬、吉崎がさっきのスターターデッキのことを言っているのかとたくやは思った。1万2千円あるからと吉崎から封筒を渡されて中身も見ずに急いで学生服のポケットにねじ込んだ。
「たくやの写真かなり人気だよ。お客さんが新作を待ってるって。今までで一番だよ。1週間で12個も売れるなんて初めてだよ。まあ、ちゃんと僕が営業努力をしたってところもある。会員向けのダイレクトメールと、前に買ってくれたお客さんにもメールした。ホームページにサンプルを載せてる。商売下手な人はさあ、サンプルをけちるんだよね。それじゃダメなわけ。そこで客が食いつくかどうか決まるわけなんだから、出し惜しみしない方がいい」
 吉崎がぴかぴかの笑顔で言うから、たくやも曖昧にめでたい気分になった。吉崎は特に他の子どもたちに隠す様子もなく自画自賛をとめどなく続けた。
「まず第一に商品である写真のクオリティがしっかりしてないといけないけど、そこそこいいデジカメ使ってるし、ライティングもそれなりに気にしてる。特に店内の蛍光灯だとどこに立つかで陰が変わる。先週写真撮ったときも僕、結構細かく立ち位置とか指示してたでしょ? そういうこと。陰がどうつくかで全然印象が違うからね。陰影がなさすぎるとのっぺりした感じになっちゃうし、強すぎても自然さがなくなる。作りこみ過ぎって感じっていうかな。その辺のバランスが大事だから」
 たくやはブースターパックをひとつ箱買いして、発売したばかりのモンスターハンター2も買った。アルバイトのできない中学生にとっての1万2千円は、戸惑いを平気で乗り越えて、軽い全能感に似たものを与えた。


5

 たくやは用賀とさして仲が良かったわけではなかった。同級生だったからそれなりに話をしたことはあった。二人が偶然体育で最後の片付けを言い渡されて、世間話をした。普段何をして遊んでいるのかという話題になって、たくやがプレステや遊戯王と何気なく漏らしたら、用賀が遊戯王のことをあれこれ聞いてきた。そんな流れでファントムへ案内することになっただけだった。遊戯王にはまって用賀はたくやより詳しくなった。ノートを作って勉強していたようだった。どちらかというと内気そうに見えたが、目的を通じて常連の高校生や大学生たちとも次第に仲良くなって、トレードでコレクションを充実させていった。ただ、吉崎を含めて年上との接し方は上手くなく、遠慮が先に立って友人のように接することはなかった。たくやは自分の方がこの店では先輩だという意識が抜けずにやや苦痛を感じていた。それは用賀に対する憎しみとは異なっていた。学校から店への行き道にほとんど毎日会話を交わすうちに親密さは自動的に増していた。ただ、優越感を得られると思った場面で期待を裏切られる苦痛だった。用賀はショップの大会で準優勝した。
 吉崎はあまり気乗りしない様子で大会を開いた。メーカーからのノルマだから仕方がなく開いていると平気で公言した。トーナメント表づくりも進行も客に全部任せていた。しかし決勝戦が近づくにつれて騒ぎはじめた。優勝した20代前半の社会人より、準優勝の用賀を誉めちぎった。後日吉崎は、用賀を写真のバイトに誘った。
「いや、ちょっと」「いえ」と用賀は遠慮とも拒絶ともつかない返事を繰り返した。吉崎は苛立ちもせず、はじめはこの小遣い稼ぎのメリットを、途中から自賛を、上機嫌でとめどなく話し続けていた。たくやは横で聞きながら、中学生の自分が、大人の賢い稼ぎ方で勝ち組にいることに満足感を覚え、用賀に対する久々の先輩面をさげて優越感も覚えていたが、帰り道に用賀が
「あれって児童ポルノでしょ。やばいよ」
と言うのを聞いてから、漠然とした不安にまとわりつかれた。


6

 ファントムに着くと、店のドアには「CLOSED」の札が提げてあった。押すと鍵はかかっていなかった。吉崎は苛立っていた。
「っていうか約束は10時だってもう1週間前からわかってたわけだよね? なんで5分前になって遅れるとか平気で連絡できるの。っていうか遅れるってことがわかった時点で最悪連絡だけでもすぐ入れるべきでしょ。こっちだって10時からすぐ始められるようにスタンバイしてたのに、しかもどれくらい遅れるのか言わないせいでいつまで待てばいいのかわかんないでしょ。何分遅れるって言ってくれればそれまで他のことで有効に時間も使えるのに。時間泥棒っていうのは一番やってはダメなことだ。そういう自覚がないんだよね。約束をきちんと守る。そういうところで信用ができてくわけじゃん。やっぱ意識が足りないんだよ。プロ意識がさ。お金もらってやってるってことはプロなんだよ。わかる? いいや、もう、時間ないしさっさと始めよう」
 たくやはその通りだと思った。吉崎の指摘はもっともだと思った。反省してしょげかえっていた。機材や衣装をかかえた吉崎について店を出て階段を上った。4階は貸主が倉庫にしているため、屋上に上がる際に誰かに見とがめられることもない。空は底もないほどの青さだった。残暑も見送って肌寒い日だった。客のリクエストだからと家から持ち出した学校の体操服と学生服で撮影した。吉崎の指示は貧しく、笑顔で、腰に手を当てて、腕を組んで、などといった程度でいつも変わらなかった。それから吉崎は白いブーメラン型の水着を出して着けるように言った。しばらくプロ意識という言葉で忘れていたあの不安をたくやは思い出した。
「そういうのって児童ポルノになるんじゃない?」
「えっそんなわけないだろ!?」
 吉崎は心底びっくりしたという表情でじっとたくやを見つめた。
「ちんちん出してる訳じゃないんだから児童ポルノになるわけないし。だっておかしいでしょ、ふつうにプールとか行けば水着の子なんてたくさんいるのに、それがポルノとか理屈がおかしいもんね。ちゃんと法律を勉強していない人に限ってそうやって怯えるんだよね」
 確かにそうだとたくやは安心した。白い水着はずいぶん股ぐらが強調されて恥ずかしかった。しばらく撮影が進んで吉崎はきりふきを取り出した。水で全身を湿らせるという。ただでさえ屋外で水着姿が寒かった。
「俳優なんて役づくりのために歯を折ったり何十キロも減量したりするんだよ」
 我慢も必要と観念して水をかけられた。試しに撮った写真を吉崎に見せられて、本当に肌が輝いてかっこいい、モデルみたいだとたくやは思った。ただ、白い水着が透けて肌色が浮き出ている、特に股間がほとんど性器が見えるくらいに透けているのが耐えられないほど恥ずかしかった。さりげなく手を前に持ってきたりしたがすぐに吉崎にどかせと言われた。
「寺田っているでしょ。高3の。あの子も写真撮ったんだよ。でもやっぱ消してほしいとか言ってきてさ。おかしいよね。こっちだって時間使って撮影したのに。その分の時間給を請求してもおかしくない話だけど、まあこっちは大人だからそこまでは言わないけど。だったら最初から引き受けなきゃいいのに。結局、覚悟が足りないんだよね。プロとしての。やっぱそういう子だとどっちみち続かないから、僕なんかは無理矢理引きとめたりしないけど」
 この撮影は合計2万3千円をたくやにもたらした。そして用賀は地域で2番目に偏差値の高い高校へ進学した。たくやは下から3番目の高校へ進学した。


7

 高校進学後も用賀は時々ファントムにやってきた。受験勉強中に比べれば頻度は上がったものの、以前のように毎日近く来るわけではなかった。たくやはいつも店にいた。用賀は店にくると1、2回だけデュエルをして、余りの時間は別の客にゆずって、たくやとだらだら話していた。お互いの高校生活の話だった。たくやはもうすぐ衣替えの季節だとふと思ってやや憂鬱になった。春に用賀の学生服のつめ襟に鈍く光る校章を見て吉崎が「頭いいとこじゃん。すげえ」と言うのを見て、自分の派手ですぐに目につく真っ青なブレザーが恥ずかしくなったのだ。夏を迎えてカッターシャツになって目立たなかったのがまたあの制服に戻るんだなと思ってかすかに憂鬱だった。知らない人たちならともかく、ファントムの中は顔見知りだらけだった。
「そういえばスーパーでバイト始めたって言ってたけど、どんな感じ?」
「スーパーやめた。クビになった。仕事あんま覚えらんなくて」
「うん……」
「いや、おれ、バカだし」
 今のは余計だったとたくやはすぐに後悔した。バイトを始めることになった時は、用賀より先に大人になったみたいな優越感でほこらしげに饒舌に語った、あの記憶が、余計な一言をたくやに付け足させた。用賀は何もなかったように、ミスドでバイトを始めたクラスメイトがいること、そっちも大変そうだということ、バイトはやっぱり大変なんだ、僕もやってみたいけど難しそうだなと、極めて穏やかに用賀の立場を救おうとした。
「まあでも、写真のモデルの仕事も、高校に上がってから1セットで1000円だったこっちの取り分を、1500円に上げてもらったから……」
「え、店長がネットで売ってるとかいうやつ? まだやってたの?」
 割とのんびりと話す用賀が、いつもより早口に、少しまくしたてるように聞いてきたから、咎められているような気がしてたくやはひるんだ。そんな様子を察して用賀はやや恥じたように目をそらした。
「いや、ほんとにときどき。最近筋トレとかしてて、筋肉ついてきて、前よりモデルらしくなってるっていうか」
 今日は全部が全部、いらないことを言ってばかりだとたくやは自己嫌悪に陥った。


8

 たくやの写真データは結局、中3のときビルの屋上で撮影したものが最大の売上を記録してその後はそれを下回っていた。吉崎は海で撮影をすると言い出した。もう9月を下がって少し冷え始めていた。古い白のワゴン車を三笠さんが出し、それに吉崎、たくや、徳永君が乗った。三笠さんは写真の常連客で40前後の痩せた人当たりのいい男だった。吉崎は運転免許を持っていなかった。徳永君は大学2年生のファントムの客でたくや同様この日のモデルを勤めるという。髪は伸び眉も手入れしていない、おどおどした態度の男だった。吉崎があからさまに馬鹿にするので自然とたくやも年上だが見くびった態度で接した。
 海岸に着いてたくやが先に水着に着替えて撮影を始めた。三笠さんと徳永君は吉崎の後ろでぶらぶらしながら撮影を眺めていた。吉崎がいっぱいになったSDカードを交換すると言ってワゴン車に戻っている間、三笠さんもタバコを取りに戻った。徳永君はどういうわけか
「表情のバリエーションを増やすと、もっとよくなるかも」
とアドバイスめいたことを突然つぶやいた。たくやは猛烈に腹を立てて、せめて怒鳴らないように我慢して無視した。徳永君は聞こえていないと勘違いしたのか、同じことをもう一度言った。モデルの中では徳永君はもちろん、誰よりもキャリアが長い。しかも痩せてろうと胸で腹だけ少しふくらんだ徳永君と違って、ずっと肉体も魅力的だと思った。お前なんかに言われたくないと苛立った。さすがに二度目で意図的に無視されていると気づいて徳永君は気まずそうに黙った。続きの撮影では波打ち際に入った。案外水の中の方が暖かかった。30分ほどの撮影を終えて海から出ると急に寒さに襲われた。急いでワゴン車に戻ると駅伝のゴールのように三笠さんがバスタオルを構えてたくやを抱きとめるように体を拭いた。
「お疲れ。寒かったでしょ」
「あ、いや、自分でやりますんで……」
「ああごめんね」
 三笠さんからバスタオルを受け取ってワゴン車のバックドアから乗り込んだ。三笠さんも後からついて入った。吉崎は徳永君を続けて撮影していた。
「撮影はどうだった?」
「あ、まだ写真見てないんで……」
「そっか。出たら買うよ。たくや君ってここのモデルの中では一番かっこいいしね」
 中学の頃は子供体型だったのが今では筋肉もついて、顔も垢抜けてきた。新作も定期的にリリースしている。努力している姿がかっこいい。そう認められて、褒められ慣れていないたくやは「はあ」と生返事だけを返したが、かなり気を良くして饒舌になった。学校のこと家のこと交友関係、モデルのバイト、あれこれ話をした。たくやの認識の上では会話をしているという感覚だったが実際には、三笠さんはほとんど自分のことを何も話していなかった。たくやの話をごくわずかに先回りして全てを肯定していた。ちょうどたくやの自尊心を満たすポイントを支えていった。三笠さんは自分の意見など何一つ言っていなかったが、たくやは三笠さんを「話上手な人だ」「話好きな人だ」と思い込んだ。話は性的な方向へ進んでいった。彼女はいないし童貞だとたくやはあっさり打ち明けて、早く体験してみたいと言った。三笠さんは初めて持論めいたことを言い始めた。
「セックスって日常からのグラデーションになってるんだ。なかなか体験してみないとわからないかもしれない。オナニーの気持ち良さの、もっとすごそうなのがある、そんな風に思ってるかもしれない。後はおまけというか儀式として、キスだの前戯だのがある。セックス特有の気持ちいいことが、何か特別にあるってそんな風に思ってるかもしれないけど、ちょっと違うんだよ。たとえば、吐き気がする時に背中をさすってもらえると気持ちいいでしょ。あと人とハグをすると心安らぐ。自分で触っても平気なのに他人に脇腹を触られるとこそぐったい。そんな日常で経験のある他人とのふれあいの不思議な感覚が、より拡張された形で展開される。そういう側面があるんだ。実際、」
 三笠さんはふいにたくやの後ろに回って、首や肩をもみはじめた。
「自分でやってもそうでもないけど、人に肩をもんでもらえば気持ちいい、そういうことの先にあるんだよ」
 三笠さんの手はたくやの肩から、二の腕へ移った。
「細いけど、筋肉があってしっかりしてるね」
 たくやは大人の男の骨ばった手に触られて堪らなく不快だった。父親に触れられるところを類推してもみたがやはり不快だった。他人に触れられる機会が日常的にないことも手伝っているのかもしれなかった。三笠さんの手はそのまま腹へと伸びた。たくやは体を固くして耐えていた。相手の意図を掴みかねてぐるぐる考えを巡らせていた。手が下腹部へ伸びるに及んで、たくやは太ももを閉じ、前かがみになって侵入を拒んだ。それでも手は執拗に狙ってきた。体がのしかかってきた。もはや不快感ではなくはっきり恐怖を覚えた。全力で三笠さんの手首をつかんでどれだけ引き離そうとしても無理だった。もう一方の手が抱き寄せるように強く胸を掴んできた。たくやの背中に男が密着して息を荒らげていた。
「ちょっと。なんなんですか。ちょっと」と抗っても、黙ったまま攻勢は緩まなかった。
「三笠さああん」と間延びした声が耳に入って、バックドアから覗く吉崎の顔に二人が初めて気づいた。三笠さんは慌ててたくやから体を引き剥がした。
「そういうのはねえ。ちょっとねえ。まずいって、感じがしますう」
「すいません。たくや君も、ごめんね、なんか」
 徳永君は水着で全身濡れたまま馬鹿みたいに吉崎の後ろで震えて立っていた。
「徳永君!」
 たくやが手元のタオルを徳永君に向かって投げた。タオルはすぐに空気をはらんで広がって失速し、たくやのすぐそばに落ちた。徳永君はへらへら笑っていた。


9

 タレコミがあった、タレコミがあった。
 吉崎が店の中で騒いでいた。みこしの掛け声みたいだった。客はみな無視していた。たくやが店に入ると吉崎が近寄ってきた。
「流出してんだよ。商品が。写真がふつうに掲示板に乗ってるんだって。オリジナルサイズだよ? こんなの違法だよ。絶対訴えてやる」
 吉崎は数日後におとなしくなって訴訟も起こさなかった。プロバイダへ文句を言ったらしい。
「逆に児童ポルノだって。変なの」
 吉崎は最近はじめたダウンロード販売をやめ、DVD-R郵送のみに戻し、ホームページには「流出が発覚した場合、購入者の住所、氏名を掲載します!」という文言を35pt、ボールドの赤字で書き付け、掲載するサンプルの数を削りサイズも極端に小さくした。
 そうした影響もあってわざわざ海で撮った写真は、ようやく中3の時の作品と同程度に売れた程度にとどまった。ガソリン代で赤字になると言って吉崎はたくやの報酬を抜いた。たくやは文句をぶつけたが、海にただで遊びに行ったくせにとなじられて、そう言われればそうかという気もして黙った。ところが客の反応は上々だったらしく、海での撮影は何度か実施された。用賀はいつしか店に来なくなっていた。たくやも特に連絡をとっていなかった。頭のいい学校だし、まだ高2だけど受験勉強が始まってるのだとたくやは大雑把に理解した。
「ファントムよりも全日本少年倶楽部の方をメインにやっていきたいんだけど、やっぱりモデルの確保が難しいんだよ。みんな大きくなると遊戯王にも飽きて店に来なくなったりするけど、弟とか後輩を連れてきたりしてくれて、そこからまた新しい世代が来てくれる。ネットショップが発達しても、まだまだプレイや個人トレードする場として店が機能するからね。それでモデルを維持できるんだからお店もやめられないんだよ」
 突然吉崎は店の3分の1をパーティションで区切って「占い フォーチュンマンジュ」という看板を掲げた。清瀬萬珠先生が現れた。吉崎は興奮しながらファントムの客に、萬珠先生がどれほど優れた占い師かを語った。駅前で20年間に1万人も見た。芸能人もお忍びで見てもらいに来る。占星術や易、手相顔相などに通暁し、それらを独自の理論で組み合わせて運命を見る。先生にお願いして月曜と木曜だけここで出てもらえることになったという。子供たちの何人かが見てもらいたいと言い出した。萬珠先生は気のいいおじさんという雰囲気だった。普段は内容によって3~6千円だというが、特別に千円で手相を中心に見てもらった。たくやは、これから5年くらいがこの先の人生を左右する重要な時期だと教えられた。何か気分が高揚した。
 たくやは隣県のいわゆるFランクの私立大学に進学した。用賀は進学に伴って地元を離れ、一人暮らしを始めたらしいと人づてに聞いた。


10

 たくやは大学を2年で中退した。決意を実行に移す前に、もちろん萬珠先生に相談した。とても大事な時期だから真剣に考えた方がいいと教えられた。真剣に考えたら、今の大学の勉強を続けてもあまり意味がないと思った。この大事な時期に時間を無駄にできないと思った。大学生活を体験できたことや、大切な仲間もできたことには感謝していた。サークルの仲間はかけがえのない宝だと思った。女の1年先輩と初めて性交したこともあった。恋愛とはとても呼べないただのはずみだった。最中は必死でよくわからないうちに終わって、後からあれこれ考えていると、三笠さんの話を思い出した。しかしたくやにとってはただひたすら性器の快楽が支配的で、体に触れる心地よさを見つめる余裕などなかった。三笠さんの話はそのまま忘れていった。何とかしてまたしたいと強く思ったものの、先輩はいつでも都合が悪く、さすがにたくやも避けられているのだと気づいて諦めた。
 モデルになろうと思った。ルックスには自信があったし、7年間実際にモデルをしてきた経験もあった。大手芸能事務所や雑誌モデルに応募したが声がかからなかった。次に声優の専門学校に通おうと思った。アニメもそこそこ見ているし、最近はビジュアルも重視されているし、職業モデルほどルックスに厳しくはないだろうと思ったが、大手の専門学校へ通うには家を出なければならなかった。まずは金を貯めることが先決だと考えた。ファントムは半年前、二駅離れたところに2号店をオープンして吉崎はほとんどそちらにかかりきりで、たくやが1号店では店長代理として仕切っていた。吉崎は月曜と木曜は必ず1号店にきて、フォーチュンマンジュで萬珠先生から占いを熱心に習っていた。その後でたくやに経営者目線を持てといった訓示をするのが毎度のことだった。
MBAとかを海外で取るっていうのが流行ってるらしいけど、僕に言わせれば甘いよね。はっきり言って実際に店舗を経営して、得られる経験に勝るものはないわけ。海外でMBAとか取れば何百万ってかかるけど、それより実戦経験を積んでるんだから、たくやは結構めぐまれてると思うんだよね」
 たくやも「店長代理」という肩書きを与えられて以降、熱心に店長の期待に応えようとしていた。


11

 しゅんた兄ちゃんと一緒にこたつに入ってお話しした。しゅんた兄ちゃんは28歳だと言った。たくやには30代後半に見えたがどうでもいいことだった。その後たくやは水着に着替えてしゅんた兄ちゃんにマッサージをした。
「しゅんた兄ちゃん。触って……」
 仰向けにマットに寝そべるしゅんた兄ちゃんの腰にまたがって、その手をとって自身の股間に導く。
「金ねえし」
 しゅんた兄ちゃんは無造作にたくやの手を払った。たくやは曖昧に笑った。サービスを終了した。ファントムの上、4Fに開店した「おもてなしボーイズ」の店番と店員もたくやは任されていた。
 ネット人口は爆発的に増えている。それなのに、比例してうちの写真が売れないというのはおかしいと吉崎は常々苛立っていた。その話を電話で相談しているのをたくやは聞いた。
「三笠さんはさすがに状況認識が鋭いな。だけど、それを実戦で活かそうとしない。やっぱりサラリーマンなんだな」
 吉崎は三笠さんからの受け売りをあたかも最初から自分の考えのように語って聞かせた。ネット人口が増えた分、大手が参入する土壌ができた。大手がもっと良質なモデル、良質のカメラマン、機材、ポージングの写真や動画を、より安価に販売する。しかもウェブサイトも充実している。すぐにカードで支払ってダウンロードして楽しめる。だから少年倶楽部の写真をわざわざ買うのは、情弱か、日常感あふれる場所でモデルらしくない男の子が、おろかにも写真を撮られて売られている、そんなシチュエーションに興奮する変態だけだ。
 その年の夏にJKリフレ摘発が世間の話題になり、秋に滝川クリステルの「おもてなし」へと話題がうつり、冬の手前で吉崎はおもてなしボーイズを開店した。12人いた少年倶楽部の現役モデルのうちの8人と、ファントムの客から新たに雇った3人の11人が店員になった。
「これ! 50万円!」
 吉崎は店に設置したシャワールームをたくや達店員に頻繁に自慢した。店は4つの個室が設置されたが、3部屋以上が同時に稼働することはなかった。JKリフレ摘発で客が警戒していたし、店員の質も高くはなかったから客の入りは良くなかった。それでも女子高生に比べれば割安な料金で多少は客がついた。吉崎は店員たちにブログとTwitterを更新しろと催促した。アピールが足りないから客が来ないんだと怒った。たくやにはお前が店員を管理できていないからだと叱責した。不可避的に店側の立場に立つたくやに、店員達の文句の矛先が向いた。特に最年長27歳のりゅうへいはたくやの顔を見れば不平を言った。完全歩合制で儲からないことへの文句が主だった。りゅうへいは普段は会社員で営業をしているという。開店して半年で雇われた男で、吉崎が面接したその日に少年倶楽部の写真も撮られていた。不平に反論するとまともに答えずに、
「君はちゃんとした社会経験を積んでないから物事がわかってない」
とたくやにとってはどうしようもないことを言った。幸いりゅうへいは他の店員全員から嫌われていて3ヶ月でやめていった。


12

「射精させた場合は水着代3千円でしょ。べつに払うし。金あるし」
 りゅうへいに水着の上から雑に性器をもまれ、たくやは憤りで頭がものを考えられないくらい熱くなって、体が硬直して身動きもできなくなった。りゅうへいは店を辞めてしばらく経って客として来店した。指名はたくやだった。暇そうにだらだらしていた店員たち、この日はたくやの他に大学1年のこうせいと高校2年のけいたが出勤していたが、二人も唖然としてりゅうへいを見ていた。
「はあ? こっちは客だよ? 金ちゃんと払うってゆってるんだから」
 そう言われて仕方なくたくやはりゅうへいを個室に案内した。こたつの時期は終わって、かわりに設置されたソファに座ろうとすると、「それはいいから」とすぐにペッティングに移った。「りゅうへい兄ちゃん」と呼ぶよう強制された。終始苦痛だったがそれでも刺激を与えられて生理的に射精に至りそうになっていた。
「ごめんやっぱなしにして」
 たくやがりゅうへいの手首をつかんで止めさせようとしたが、りゅうへいは強い力で水着の上から擦る手を止めなかった。
「なに言ってんの。僕は客だよ?」
「やめてマジやめてって。マジで」
 拒みながらたくやが射精するのとほぼ同時に、部屋へこうせいがなだれ込んできた。
「ふざけるなお前ぶっ殺すぞ」
 立ち上がりかけて何か言おうとしたりゅうへいの肩を、こうせいはいきなり蹴りつけた。
「僕はお客様なのに! こんなことして訴えてやるから絶対」
「お前がこんなバイトしてるの会社にばらすよ」
 こうせいの後ろに控えていたけいたがそう大声で叫んだ。割とおとなしいけいたがこんなに大きな声を出すなんて思ってもいなかったみんなは、少し面食らった。けいたは床に落ちていたりゅうへいのズボンのポケットから財布を抜き、札を全部抜き取って「迷惑料だから」と言った。そのお金は後で、料金分を店に入れて残りは全部たくやが受け取ることになった。りゅうへいは何か喚いて暴れたがこうせいが上から抑え込んで叩いていた。
 りゅうへいはゆっくり服を着てどういうわけかへらへら笑いながら、こうせいとけいたに連れられて店を出ていった。一人になってたくやは情けなくてぽろぽろ泣いた。先に戻ってきたけいたに促されてシャワールームに入った。まるで自然な様子でけいたも服を脱いで一緒に入って、まだ呆然としているけいたの精子で濡れた水着を脱がせて体を洗ってやった。学校でお漏らしでもした子を慰めでもするみたいなやり方だった。それから本当にそうするのが当然だと思われるくらいにやさしく、たくやの唇に唇を押しつけた。シャワーのお湯は少し熱いくらいだった。
 後になってからたくやは、人に触れて気持ちいいってことの先にあるキスや愛撫の気持ちよさって、ああいうことだったのかと思ったけれど、その後お互いその時のことは触れずじまいのまま、けいたは半年くらいして大学受験の勉強が忙しいからと店を辞めた。


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 吉崎が逮捕されてファントムの1号店・2号店、フォーチュンマンジュ、おもてなしボーイズは閉鎖された。全日本少年倶楽部はじめウェブサイトの類はそのまま放置された。詐欺罪だったと聞いた。店の運営や未成年の使用とはまるで無関係なところで、本人もよくわからないまま詐欺に荷担していたらしいと聞いたが、たくやにはよくわからなかった。店の仲間たちや常連客とは散り散りになって、まるで最初から何もなかったみたいになった。
 用賀から久しぶりに連絡が入った。ゴールデンウィークに地元に帰るから飲みにいかないかという誘いだった。たくやはいつでも大丈夫だったが5月4日、月曜の夜に会うことになった。ファントムのあったビルの1階に、小ぢんまりしたおしゃれな居酒屋がいつの間にか入っていた。店に入る前に用賀が3階に上がりたいと言い出した。ビルの階段を上る途中も、もう鍵がかかっていて開かない元ファントムのドアの前に立っても、しきりに用賀が懐かしい、懐かしいと言った。たくやにとってはつい最近までいた場所で、何も懐かしいことなんてないのに、他人にとってははるかに過去の物になっているということが不思議で仕方がなかった。初めて君に連れてきてもらってからもう9年も経つんだよなあ、と用賀が噛みしめるように言うからたくやはその時間にびっくりした。
 居酒屋ではお互いの近況報告に始まって、会わなくなってからの5年分の話をぽつぽつした。用賀は、ただ大学に行って卒業して、みんながそうするから同じように就職しただけだよと恥ずかしそうに言った。今は都内の大手電機メーカーで働いているという。たくやは何かバイトを始めて、とりあえずお金を貯めたいと言った。用賀は自分のことを話すより、たくやの話を聞きたいという態度を示していたから、店にいた間ほとんどたくやが話をした。最近は店を任されたりして、だいぶ経営のこととかもわかったし、この経験を活かしていきたいとたくやが言って、用賀は「うん」と言った。
「就職したときなんか奇妙な感じがしたんだよ。今までバイトでせっせと働いてきたのに、それよりぜんぜん楽なのに、っていうか仕事なんてまだ全然してないくらいなのに、ふつうにバイトしてたのの何倍も給料が貰えるんだよ。この世界ってどうなってるんだろうって変な感じがした。大学で勉強したことやそのポテンシャルが、少しは労働者としての有用性を上げてて、そのちょっと希少性が上がってるっていうところにお金が払われてるんだ、っていうのは理解できるけど、理屈ではそう思ってもやっぱり、こんなのなんか変じゃないかって感じがするんだよ」
 そんな話をしたときだけ、用賀が珍しくたくさん喋ったのでたくやも聞き入ったが、いまいちよくわからなかった。用賀はいらないことを話し過ぎたと言わんばかりに、また恥ずかしそうにしていた。
 2時間半ほどで店を出た。こっちから誘ったからと用賀が代金を支払って、たくやはそれを素直に受け入れた。
「そういや帰り道は逆だったもんね。いつもファントムを出てここでじゃあねって別れてたんだっけ」
「うん。じゃあね」
「じゃあ」
 別れて帰るふりをして、用賀の背中を見送ってから、たくやはビルに入った。ちょっと屋上に出てみようかなと思った。そこなら用賀みたいに過去が懐かしいという気持ちが湧いてくるかもしれないと思った。けれど屋上のドアには鍵がかかっていた。ガチャガチャとしばらく無心にノブを回して、手を止めたら今急に自分がここにいるということに気づいたみたいな顔をして、不思議そうに階段を下りていった。