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創作のブログです。

わずか5秒のうちに全員が黒い胸の虜になった

 1999年7月15日の熱い教室で、吉田彩は陰口を背中の右半分で耐えていた。反応さえしなければ存在しないのと同じだと信じているような頑なさで、机の上に置いた手を一心にいじっていた。しかし陰口も、それをやり過ごすことも、同時に停止した。休み時間の教室の全てが停止した。この1年4組に留学生が来ると予言する金内和彦の声に全員が全神経を傾けたからだった。
 金内和彦は開け放たれたままのドアをくぐる瞬間、わずかにうろたえたような様子を見せた。誰もこの時点で彼に注意を払っていなかった。金内和彦は一重まぶたの奥を欲求でぎらつかせた目で素早く教室の中を見渡した。渡邉博明たちが集まって話し込んでいるのを目指して机をよけながら進んだ。目の前を金内和彦が通って夏の男子高校生の、汗ばんだ不快な体臭を嗅いで吉田彩が顔を上げた。
 金内和彦は教室の全員が自分の発言を聞いているとはっきり意識しながら、あくまで渡邉博明たちに話しかけているという体裁を保った。注目に自尊心を掻き立てられて、もうすでに留学生がドアのすぐ裏まで来ているかのような言いぐさで興奮を露わにして語った。教室の誰もがその切迫感を真に受けて共有していたし実際、翌朝、黒板の前に立つ留学生のルーシー・チャプターマンを目にしたとき、全員が金内和彦の報告からわずか1秒後の出来事のように感じたのだった。


 1年4組の生徒全員が人生ではじめて黒人を直に目にした。カリフォルニア州から来たルーシー・チャプターマンは戦車を思わせる佇まいで1年4組を圧倒した。チャプターマンさん、と担任の山内英男教諭が呼んだとき、彼女ははじめて声を発した。「ジャスト、ルーシー。オケーィ」とのことだった。教室に緊張が走り生徒たちはわずかな隙も見せまいと神経を張り詰めた。ALTのネイティブスピーカーと隔週で接していたにも関わらず、クラスの3分の2がそのわずか3語を聞き取れずに混乱した。
「はじめまして、ルーシーといいます」
 隣席の水島涼子はルーシー・チャプターマンから初めて声をかけられる光栄に浴したが、笑顔がひきつるのを隠蔽する余裕もなく、差し出された手を曖昧に握り返した。「ハハハ」と乾いた意味のない笑い声を上げるのが精一杯だった。
 名前を問われて「リョーコ、リョーコといいます。ハハハハ」と返した直後に水島涼子はあまりに自分が愚かに感じられて、自己嫌悪に襲われたものだ。ルーシー・チャプターマンは全く意に介さず「リョーコ! よろしくお願いします」と言って早々に反対側の席に座る永田充に向き直って同じやり取りを始めた。分厚い唇から白い歯が輝く像が水島涼子の視界にべったりと張り付いて、明け方の夢に生涯現れ続けた。
 全員にとって救いだったのは、この7月16日がともかく金曜日であり、8時間をやり過ごせばこの緊張から解放されるという事実だった。


 休み時間が訪れて、水島涼子も永田充も他意のないふりで席を離れ、いつもの話し相手のもとへ移動した。ルーシー・チャプターマンは一人で座っている吉田彩へ確信に満ちた足取りでまっすぐ向かって声をかけた。例の挨拶を再演したあとで便所の案内を頼んだ。吉田彩は案内の礼を言われてルーシー・チャプターマンと便所の前で別れ、帰っていいものかどうか迷ったが結局待つことにした。体感的には10分以上の3分が経ってセーラー服の裾で手を拭きながらルーシー・チャプターマンが便所から出てきた。
「アヤ! 待っててくれました。ありがとう」
 ルーシー・チャプターマンは肩をゆすって体をもて余すような歩き方をした。特に胸が、収まっているのが不思議なほど張りつめてセーラー服を突っ張っていた。胸元を露出させていた。廊下で学生たちの注目を浴びて、微笑と呼ぶにはあまりに白すぎる歯を見せながら、「こんにちは」「こんにちは」と快活に声をかけて回った。吉田彩は、誰に表明することもなかったけれど、自分を偶然同じ方向へ歩く人だと規定した。
 短い叫び声をあげて男子生徒が抱えていたプリントの束を放り上げた。卒業の喜びを表現するかのような身振りだったが、表情はルーシー・チャプターマンを見て恐怖を浮かべていた。40枚のプリントが白い面をぎらつかせながら、薄暗い廊下をゆっくり舞い落ちていった。オーゥ! とルーシー・チャプターマンは慨嘆を小さく発したものの、その男子学生にも白い歯を見せて「こんにちは」と言いながら、しかしプリントを拾うわけではなく、のみならず足で踏みつけさえして、何の配慮も払わず1年4組の教室へ戻る道を進んだ。


 廊下でプリントを拾い集めるのを手伝った吉田彩が教室へ戻ると、ルーシー・チャプターマンは吉田彩の席に座っていた。吉田彩は一瞬何も考えられなくなった。あたかも自分自身がこの黒人の、年齢さえよくわからない女になったかのように感じられて呆然とした。
「とても暑い。日本はとても暑い。汗が出ますね」
 ルーシー・チャプターマンは大声で話す。教室の全員が、気にしないふりをしながら注意を最大限に払っていた。
カリフォルニアも暑い。しかしね、違います。……アー、ヒューミッド……」
「湿度」
「そう! 湿度がすごい」
 吉田彩はカバンからうちわを取り出してルーシー・チャプターマンに譲った。一昨年に母親が友人と花火大会にいった際に無料でもらった、温泉宿の広告の入ったうちわだった。「なんかちょっと、恥ずかしくない、あんなの学校で使うとか」と水島涼子に言わせて、陰口の材料を提供したうちわだった。ルーシー・チャプターマンは貨物列車の車輪が激しくきしむような音を上げて、吉田彩に謝意を表明した。
「アヤはこれをくれました」
 突然振り向いてルーシー・チャプターマンに声をかけられ、権藤和孝はかろうじてハハハとひきつった笑いを返すのが精一杯だった。自分の席を奪われても何も言い返さずに突っ立っているバカと思われている気がして、吉田彩は右手で寒くもない左の二の腕をさすり続けた。


 2限目の冒頭で英語教師・伊勢美鈴が「ミス・チャプターマン」と出席をとると、ルーシー・チャプターマンは肩をすくめ首を大げさにふり、あからさまな失望を示しながら「ジャスコーミー、ルーシー」と言った。伊勢美鈴はありえないほどの狼狽を呈し始めた。早口の日本語で膨大な数の言い訳を13分間も尽くし、その要旨は、日本社会においてはたとえ生徒であっても教師は敬称をつけて呼ぶべきというものだったが、ルーシー・チャプターマンはおろか生徒の全員が聞き取れなかった。13分間のその弁解は日本語のような発音の英語と、英語のような発音の日本語が無秩序に混在し、終わりの予感を与えられない不安から生徒たちを苛立たせ、津田義則以降の出席も忘れ去られたまま、残り37分間の講義ではいつもの高慢な態度と発音を自粛した。7月15日のたった50分間で伊勢美鈴が取り返しのつかない侮蔑を生徒から購入した一方、数学教師の久米靖次郎は休み時間の廊下でルーシー・チャプターマンとごく軽快に英会話を楽しむ姿を見せて生徒から尊敬を買うことで全体のバランスを取った。


 いったいどんなやり方でルーシー・チャプターマンが休み明け月曜の朝に現れるのか、恐れ混じりの期待を昂らせた生徒たちを満載した教室にルーシー・チャプターマンは姿を見せなかった。始業の1時間半前、7時に三島豊は誰もいない教室の窓をいつも通り開けながら、いつも通りなら7時20分ごろに渡邉光一郎が来るが、もしその前にあの黒人女が登校してきたら二人きりで過ごすことになるのだろうかと思った。三島豊は自席で文庫本を開きながら、視線を曖昧に紙面に落としたまま文字を追わずに、ルーシー・チャプターマンとの会話をあてどもなく想像していた。家族や生活の話を聞いてみたいと思っていたのだが人の目がある中で目立つ真似は絶対に許されない世界だったから諦めていた。渡邉光一郎が挨拶もせずに席に着くのを視界の端に見て、三島豊は楽しい夢想を止めて読書に向かおうとしたがまだ今一つ集中できなかった。そうして一人ずつ生徒を孕ませていきながら教室は、一人の新しい生徒を欠いたまま、9時20分、1時間目の世界史の授業を終了させた。


 ルーシー・チャプターマンが現れない理由を渡邉光一郎と湯屋翔が語り合っていた。留学生向けの特別授業に出ている、道に迷って学校にたどり着けない、警察の職務質問を受けている、もう教室にいるのに黒すぎて見えない。小さな声で少しずつふざけて陰気に笑い合っていた。一体どこに住んでいるのか、普通はクラスの誰かの家にホームステイをするものだがそんな様子はない、公園で野宿をしている、点々と家々を渡り歩いていく、夕方になると突然チャイムが鳴ってドアの前にルーシー・チャプターマンが立っている。「ハーイ。」今日か明日にでもうちらのところに来るかもしれない。困惑する子供をよそに、母親は「あなたがルーシーさんね」と自然に迎え入れた。子供には不可視の強固な保護者のネットワークが正確に作動していた。父親と兄が帰宅し、5人で食卓を囲む。兄の部屋を明け渡してルーシー・チャプターマンが眠り、数年ぶりに兄と弟がひとつの部屋で眠る。今夜だけはエアコンが許された。
「手ぶらで来たけど、着替えはどうしたんだろ……お兄ちゃんの服着てるの?」
「あの人ものすごい体だな。年下とは思えない。ああいうの、お前、興奮とかする?」
「いや……そういうのはないけど……」
 わずかに外の街灯がカーテンの隙間から壁を青く反射させて、その影の中で兄が動いた。床に敷いた布団から這い出て弟のベッドに滑らかに入り込んだ。背中から腕を回して弟を抱き寄せる格好になった。
「寒い」
「ハーイ」
 ルーシー・チャプターマンが教室の後ろの扉から入ってきた。スカートは膝上10cmまで短く、胸元のボタンは無化されて胸が解放され、袖は消滅していた。
「いかがですか。とても暑いです。カスタマイズ以外の何物でもない」
 真っ白なセーラー服と真っ黒な肌のコントラストがはるかに強さを増していた。うちわで激しく扇ぎながら
「アヤはこれをくれました」とルーシー・チャプターマンは言った。何から聞くべきか誰かが一つでも選ぶ前に9時30分のチャイムが鳴り終わり31分に教師が入ってきた。


 月曜4限目は世界史で1年4組の担任、山内英男教諭の受け持ちだったが、授業を始めなかった。教壇に米川結衣が上がって妊娠していると告白した。騒然とする同級生の中で一人にゅうーと手を上げたのはルーシー・チャプターマンだった。
「今、ユイが、赤ちゃん持ってるの意味ですか?」
 そうだと困惑しながら山内英男教諭が答えると、ルーシー・チャプターマンは花鳥園のような音を脳天から発して口を両手で押さえながら突然椅子から立ち上がった。号泣して前方になだれ込んだ。そのままの勢いで小柄な米川結衣を正面から抱え込むように抱き締めた。
「とってもおめでとう、すごーく、お母さんはすばらしいですね!」
 アメリカの気配がこの教室に到来したことを数名の生徒が察知した。
「ね、みんな、おめでとうですね? うれしいですね? クラップ、ああ、クラップ、」
「拍手……?」
「そう! 拍手を、しますね!」
 アメリカ人を除き日本人全員が思考の停止した状態で機械的に拍手をした。拍手をするためにルーシー・チャプターマンから急に体を引き剥がされて、米川結衣は少しバランスを崩した。そして誤ってルーシー・チャプターマンの両胸を両手でわしづかみにした。
「オーゥ、ホッホッホッホ!」
 ばんざいしながらルーシー・チャプターマンは笑った。米川結衣はたった今世界を発見した幼児のような顔をした。生徒全員が今、ルーシー・チャプターマンの胸を意識した。もう一度ルーシー・チャプターマンが米川結衣にハグしたとき、胸がつぶれて横に流れるのを見た。わずか5秒のうちに全員が黒い胸の虜になった。米川結衣は自分自身が主人公だったことをすっかり忘れて、夢の住人の足取りで教壇を勝手に降りた。
「あんなおっぱいあるんだ……知らなかったぜんぜん……」
 ルーシー・チャプターマンが拍手をした。日本人生徒全員が心の底から盛大な拍手をした。それは級友の妊娠に送る拍手ではなく、留学生の圧倒的な黒い胸の、再発見の喜びだった。
 水島涼子が隣の席に向き直りルーシー・チャプターマンを見つめた。
「プリーズ、タッチ、バスト……」
「オー? わかりました」
 困ったような顔でルーシー・チャプターマンが水島涼子の胸に触れた。水島涼子はキャッと短く叫んで
「ノゥッ、ノゥッ!」
と制止した。
「アイ、タッチ、ユア、バスト、オッケー?」
 ルーシー・チャプターマンの胸は性欲の通念を越えて、物体としての驚異をもたらした。1年4組の女子のほとんどが続々と許可を得てルーシー・チャプターマンの胸をわしづかみにした。彼女たちは感想を交わしあう余裕すらなく呆然とした顔で席に戻っていった。いずれの友人グループにも属していない数人の女子は後回しになったが、それでも多少は仲のいい級友に誘われて胸に触れていった。吉田彩は誰ともほとんど繋がりがなかったから触れなかった。それは性欲を超えていたから男子たちも触れて結局、吉田彩だけが体験しないまま下校した。夏休みまで残り半日だった。このまま1年4組で吉田彩だけがあの圧倒的な胸を体感することもなしに1ヶ月以上の空白を迎えるのかもしれない。男子の全員はそのことに気づきもしなかったが、女子の全員が意識していた。


 7月20日は全校集会の後、担任からの簡単な連絡事項を伝えて終了の予定だった。吉田彩がルーシー・チャプターマンの胸をつかむことはもはや絶望視されていた。山内英男教諭がひとわたり夏休みの注意事項を伝え終わったところで、一人にゅうーと手を上げたのはルーシー・チャプターマンだった。
「私は、ルーシー・チャプターマンと、ちがいます。ダイアモンド・ウィリアムズといいます。怒らないでください」
 ダイアモンド・ウィリアムズは、手違いでルーシー・チャプターマンという姓名が学校側に伝わっており、祖母は白人で実家ではピエロという名の犬を飼っていると言った。
「あ、うちも犬飼ってる」
 ほとんど無意識に吉田彩が口に出した。
「それはすごい以外の何物でもない」
と嬉しそうに言うダイアモンド・ウィリアムズが猛然と歩み寄り、吉田彩は抱きしめられた。父親の臭いのようなものを嗅いで吉田彩は思わずダイアモンド・ウィリアムズの熱い肉体を押し返した。とっさに胸を手のひらで押し、信じがたい感触にたじろぎながら、吉田彩はダイアモンド・ウィリアムズの胸をつかんだ最初の日本人になった。1999年の夏休みが始まるわずか12分前のことだった。