OjohmbonX

創作のブログです。

波野夫妻はその後一子を――あまりにわがままで、まともに喋らぬ子を――もうける

 犬を欲しいと思った。
「20年前に芽生えてからくすぶり続けてきたぼくの犬欲は、今、とめどないものになりました。ぜひ、犬を飼いたい」
「いいですよ」
 妻は快諾してくれた。このとき妻は雲竜型(横綱の土俵入りの型の一)を練習していた。妻は毎日雲竜型の練習ばかりしている。リビング、キッチン、浴室、玄関……あらゆるところで一日中雲竜型を練習している。仕事から疲れて帰ってきても私は料理、炊事、洗濯……全ての家事をしなければならない。
「家事をしてください。さもなくば職に就いてください」
「しかしいまどき雲竜型と英語ができなければ話になりません」
「きみの雲竜型は十分完成されているように思いますが」
「でも、英語がまだまだです」
 私は悲しくなった。なぜなら私は雲竜型も英語もできないからだ。
 そんなわけで妻は雲竜型の練習をしなくてはならないため、犬探しも私が自力でやらなければならなかった。雲竜型も英語もできない私は、犬探しくらいしなければ妻に申し訳ないと思った。
「いぬー、いぬー、どこー? どこなのー?」
 私は朝の出社と夕方の帰宅の際に声をはりあげて毎日毎日犬を探し続けた。しかし思うようにフリーの犬は見つからなかった。なぜなら現代の日本では私以外にフリーの犬を捜し求めている連中がいるのだ。保健所だ。これだけフリーの犬を見かけないところからすると、彼らは圧倒的な組織力とノウハウでフリーの犬を発見・捕獲しているらしい。そして恐ろしいのは、彼らを見かけないことだ。彼らがフリーの犬を捜索する姿も、フリーの犬の捕縛現場も、私は生まれてこの方見たことがない。よほど迅速に発見・捕獲しているらしい。あるいは変装さえしているのかもしれない。組織力もノウハウも持った、見えざる敵。一方、私には組織力もノウハウもない。後は情報だ……情報戦なのだ……彼らと私、どちらが早く情報を得るかだ……
「いぬー、どこー? どこなのー?」
 私は気を引きしめて犬情報を獲得しようとした。しかしやはり、思うようにフリーの犬は見つからなかった。見つけた! と喜ぶのもつかの間、首輪につながれた紐をたどって行った先には人間がいるのだ。いわゆる飼い主だ。しかし私はあきらめずに交渉する。
「この犬はあなたの所属ですか」
「そうです。私の犬です」
「交換トレードをお願いします。雲竜型のできる人材が私にはあるのですが……」
「お断りします」
 やはり英語ができなければだめなのだろうか。
 それでも私はあきらめずに毎日、毎日、呼び続けた。
 犬を探す私の姿を小学生にものまねされ、警察官から職務質問も受けた。
「ご覧の通り、通勤途中で犬を探しているだけです」
「はあ。でしたら、チラシでも作って貼ったらいかがですか」
 これはいいことを聞いた。家に帰ったらさっそく作ろう。そのことばかりを考えてその日は仕事を終え、家に帰る途中、先を越された。帰り道の中華料理屋に「犬、はじめました」と看板が出ていたのだ。とにかく、私は店に入った。
「ええと、炒飯と餃子と……」
 いくらなんでも犬だけ頼んだら、まるで私が犬目当てみたいではないか。
「……それから……犬を」
「犬ちょと時間かかるお客さんだいじょぶ?」
「はい、大丈夫です」
 私が炒飯と餃子を食べているところへ、中国出身の店のオヤジが「またせた。犬だ」と言って持ってきた。
 ハーイ
 どう見てもヘーベルハウスだった。
「すいません、もう満腹なので、持ち帰りにしてもらえますか」


 家に帰ると妻はビリーズブートキャンプをしていた。
「やはり基礎的な体力・筋力は必須です。雲竜型を究めるには、雲竜型から離れることも必要なのです」
 私は感動した。自らの雲竜型に慢心することなく常にさらなる高みを目指す妻。ほんとうに結婚してよかったと思う。そして、そんな喜ばしい妻に、私はもはや気後れせずにすむのだ。なぜなら……
「とうとう、犬を手に入れました」
 ハーイ
「あえて申し上げますけれど、それはへーベルハウスです」
ワンモアセッ!>
「しかし、中国の人が犬だと言いました」
 ハーイ
「あなたは私より中国の人を信用なさるのですか。もう一度申し上げます――そしてこれが最後です――それは、へーベルハウスです」
「はい。これはへーベルハウスです」
<ヴィクトリーッ!!>
 やはり妻にはかなわない、とつくづく思った。たしかに私も、犬ではなくへーベルハウスなのではないかという疑義を抱いていた。その疑義を妻は鮮やかに拭い去ったのだ。
「では、へーベルハウスが私たちの犬的な存在となるよう、頑張りましょう」
「はい!」
 ハーイ


 それから私は、仕事から疲れて帰ってきてから料理、炊事、洗濯……全ての家事に加えへーベルハウスの世話もすることになった。しかしそれは、まったく苦ではなかった。どれほど疲れていてもへーベルハウスがいつも変わらぬ笑顔で私の帰りを待っていてくれるからだ。
 ハーイ
 散歩に連れ出せば、誰もが近寄ってくる。アイドルだ。かつて私をからかっていた小学生たちも、私に職務質問をした警察官も、へーベルハウスをかわいがってくれる。
「おかげさまで、犬がみつかりました」
「はあ。それは、よかったですね……ただ、私には、犬というより……へーベルハウスに見えるのですが……」
 ハーイ
「ええ、正確には犬的な存在なんです。それでは、散歩の途中ですので」
 へーベルハウスには足的な存在が存在しないため、散歩をする際がたがた引きずることになるが、さすがにヘーベルハウスはけろっとしているように見える。


 そんなヘーベルハウスとの生活が始まって10日後、家にタマホームとダイワハウスがたずねてきた。
「タマホームとダイワハウスが何の用ですか」
ヘーベルハウスを引き取りに参りました」
 ハーイ
「ハウス! 奥に行っていなさい……! なぜですか、ヘーベルハウスは私たち所属の犬的な存在です」
「確かにその通りです。しかし、ヘーベルハウスは期限付きの移籍なのです。移籍期間が満了しましたから、引き取りに参りました」
「そんな……ハウス、そうなのか?」
 ハーイ
「なんとか、こちらに引きとどめておくことはできませんか」
「そうですね、雲竜型と英語のできる人材との交換トレードでしたら、交渉に応ずる余地がありますが」
 私は別室でビリーズブートキャンプに励む妻にたずねた。
「いいえ、私は、雲竜型はともかく、英語はまったくできません」
 ヘーベルハウスはタマホームとダイワハウスに連れられていった。
 そんなことより、明日は妻が雲竜型の路上ゲリラライブをはじめてやるため、綱の準備などでとても忙しい。