OjohmbonX

創作のブログです。

ポーラー・ロゥ (10)

 わざと立てているとしか思えない派手な音を立てて弟は毎日家に入り込んできた。時間は決まっていない。食事どきでも明け方でも構わず現れた。郵便受けの口から剥したガムテープを丸めてその辺に捨てる。捨てようとして粘着剤が手にくっついて上手く捨てられずにいると、次第に苛々し始めて怒声や罵声を喚き散らす。しばらく土足のまま早足で家の中を歩き回った後、何もせずに出て行く。この繰り返しはひどいストレスだった。いつ来るかいつ来るかと脅えて過ごさなければならなくなった。郵便物はまだ届かないようだ。
 弟は毎日少しずつ話をし始めた。私に、というわけではなく誰に対してかは分からない。弟の話は妙に一般的で何のことを言っているのかよく分からなかった。勝手に声がラジオから流れてくるみたいに、別の何かから言わされている箱のようだった。
「他人たちがいて、自分がいる。その間に生じる関係性については非常に興味深い。一つ一つを電荷を持つ粒子として見なして電磁場の振る舞いというアナロジーでどこまで語り得るものか」
「世間が分離可能だと信じているものの多くが、その実、原理的に分離不可能であったりする。単純に、ひたすら主観的に、何の必然もない位置にボーダーラインを引いているだけだったりする問題であっても、大多数がそこに境界の存在を想定している場合は、当人もまたその幻想を盲目的に見てしまうのだ」
「経験論的に言えば、こういうことがある。ある誰かと別の誰かが一気に距離を縮めようとする。その過程は当人たちにとって非常に幸福である。けれど距離が無限小に近づくにつれ、憎しみが勝る。ほんのささいな事に耐えられなくなるのだ」


 玄関先から絶叫が聞こえて出てみると郵便受けの前で弟が髪を掻き毟りながら怒り狂っていた。郵便受けには石がびっしり詰まっていた。律義に毎日弟が熱心にガムテープを剥がすものだから町民の悪意がエスカレートしたのだ。石を取り出そうにも郵便受けの裏蓋には南京錠がかかって開けられない。私はバールのようなもので手早く郵便受けを叩き落とした。
 弟は目を見開いて、急に欧米人のする「信じられない」というポーズをした。ポーズはしたが声を上手く出せないらしく、口はぱくぱくするばかりだった。
「郵便受けなんてあるからだめなんだよ。壊せば直接届くでしょ、たぶん」
と私が答えると、それから弟は何かを許したようで、このスカスカの家に再び住み始めた。
「ところであれは何?」
 弟の視線を追うと庭の墓の上だった。
「墓標よ」
 墓の上には陶器の小人が乗っている。私が乗せたのだ。悪意のお墓。
 今は弟の動静をいささかも気にしないでいられる。全部お墓に埋めたのだ。


 一緒に住み始めて弟の口臭が元に戻っていることに私は気づいた。
「歯医者はどうしたの」
「二度と行くかよあんなとこ」
「歯医者に行きなさい」
「行かない! 別に俺が来たって来なくたってどうでもいいんだよあいつは」
 よくよく話を聞いてみると、こういうことだった。
 当初喜々として通っていたものの、弟はふと気づく。歯医者は自分の知らないところで、自分の知らない患者の歯も治療しているのだということに気がついたのだった。治療台に案内されてじっとその日の治療に思いをはせていた時、ふいに磨りガラスで区切られた隣の治療スペースの向こうから患者と歯医者の話す声が聞こえた。一瞬、自分の治療への想像が途絶した瞬間に隣の話し声に割り込まれたのだ。弟は堪らず治療台を降り、磨りガラスの仕切りの上から隣を覗く。覗いた瞬間、大学生ほどの自分とよく似た人間が治療を受けながら、歯医者の肩越しに自分を睨んでいた。あわてて弟は治療台に戻るがあの目は張り付いてしまった。もはや上の空だ。医者に治療されても何かしっくりこない。そのまま通い続けるものの毎回気が乗らない。ついに予約をすっぽかす。歯医者を試すつもりで。けれど何の連絡も無い。歯医者からは何の連絡も無いのだ。歯医者が自分に施す治療のことを、こちらが考えるほど切実には、人生そのものと断じられる喜びだというほどには、歯医者は考えていない。不当に軽んじられている、この非対称を見てしまった以上もう耐えられない。自分の知らない患者を自分の知らないやり方で施術している。そして自分が見たことのない、知らない歯医者を自分ではない患者が知っているのだ。あの目で俺を排斥して、嘲笑している。目は拭い難く張り付いている。
「一人で浮かれていた自分が馬鹿だったんだ」
「そうじゃなくて、歯医者で浮かれること事態が馬鹿なのよ」
 しかし弟はあきらめきれずにいる。歯医者から手紙がくるのを待っている。愚かな弟。一周遅れもいいとこだ。私はとっくに通過したのにまだこんなところにいる。


 弟が戻ってみると、のり弁だけでは何となく物足りなくて、私はエビを茹でる。野性味あふれるエビの暗い赤色が、みるみる鮮やかで嘘っぽい赤色に変わる。湯から上げ、熱さと痛みに耐えながら殻を剥く。指が傷つき火傷もするが一心不乱に殻を剥く。そしてボールに一杯の剥きエビを弟と食べる。
 弾力のよい身、白い固まりが、弟の薄い唇に吸い込まれるのを、ふいに目撃してしまった。あわてて目を逸らすがもう遅い。自分のエビすら見ないよう目を強く閉じる。けれどもう遅い。閉じたまぶたの血管を透かして視界は橙色になる。そしてエビが遮断したはずの視界で勝手にはじけてゆく。あの弾力を存分に生かして。弟の薄い唇が閉じる前に、前歯でエビが剪断される。細い細いゴム糸の束に刃物が当たって、次々に繊維が弾けていくみたいなエビの弾力。私自身がついさっき実際に確かめた触感が生々しく現れる。
 私はあきらめて目を開く。横目で弟を盗み見る。次々に、エビが、ぷりぷりのエビが口に運ばれてゆく。私は目を逸らせない。私の身体は耐え難い熱を帯びる。無理だったのだ。弟を過去のものにできたと思えたのは都合のいい楽観論だった。またあの不自由に支配される。ため息をついてあきらめる。
 ただし、今回は完全に内側に閉じ込めるのだ。絶対に外へは出さない。ドアの漏れ光も洗濯物もゴミもチェックしない。まるで完全に重力圏を脱出しているように振る舞う。せめて外側だけは。そんな決意をして、止めていた手を動かして私もエビを食べ始める。
 いや、私は最初からこの罠に身を晒すためにエビを茹でたのかもしれない。誘いに乗ったのだ、きっと。一周遅れだったのは私の方だ。一周だろうが二周だろうが同じ位置、結局、この周回から抜け出さなければ同じなのだ。


(つづく)