OjohmbonX

創作のブログです。

ポーラー・ロゥ (2)

 医療技術の素晴らしさもさることながら、歯医者へ通う頻度の高さが口臭のすみやかな解消を実現せしめた。弟はすうーと家を出て行く。いつの間にか歯医者へ行っているのである。弟の口内は一体どのように処置されたのかと、口の中を覗こうとすると弟は、姉さんにそんな権利は無いと拒絶するので私は絶叫した。ちょうど甲子園球場が鳴らすサイレンによく似た音で、アァアーと叫んだ。私の行為に抗う弟を見たのは初めてだった。それに困惑してあんな音が出るのだ。このサイレンのような声を出したのも初めてだったので、私はそれにも驚いてかえって冷静になれた。それでもう一度私はゆっくり甲子園を叫んでみた。今度は自主的に、全く冷静に叫んでみた。想像以上に上手く叫べたように思う。これならいけると思って私は窓を開けアァアーアァアーと近所に向かって叫んだ。そして窓を閉め、機嫌よく叫びながら自室に戻ってパソコンの電源をつけ町内掲示板(電子版)をさっそくチェックした。すでに何人かが書き込んでいた。
『今サイレンみたいな音がしませんでしたか』
『私も聞きました。何だったんでしょうね』
 本当に町内のやつらはグズどもばかりだ。自分たちの町が甲子園球場に突如様変わりした事件にまるで鈍感なのだ。だから私は自分から書き込むことにした。
甲子園球場っぽくなかったですか?』
 私はキーボードのF5キーを連打して掲示板を更新しまくる。次の書き込みをほんの少しでも早く見なければならない。
『あ、本当ですね。たしかに似ていた気がします』
 その同意を見て私は興奮して再び窓を開けアァアーアァアーと叫びながら書き込んだ。
『今またしましたよね、サイレン。聞きましたよね?』
 更新ボタンを押しまくる。
『ええ、また鳴りましたね』
『うわー。怖いなあ。何なんでしょう』
 私は叫び続ける。書き続ける。
『しますぅー。しますぅー。サイレンですぅー』
 サイレンを鳴らす上半身に集中していたせいで下がおろそかになって放屁した。屁には二種類あり、肛門をさわやかに通り抜けるタイプと肛門を熱くさせるタイプがある。今のは後者だ。熱い場合はその奥に、穴の奥に灼熱のマグマを控えさせている。場合によっては情熱的なマグマがややはしたなく噴火していることさえある。
『え、今の何ですか?』
『屁?』
『屁ですよね』
『私は違うと思います』
 私は掲示板に書き込んで、火口を厳重に絞めて、窓とカーテンを閉め、パソコンをシャットダウンし、布団を被って、寝た。


 妙な夢を見たような気がするものの覚えていない。単純だったのに複雑なようだった。ひとつひとつの要素は単純で知っていることなのに、その組み合せが突飛で複雑だった。ともかくひたすら必死に対処していた感覚を覚えている。いつものことだ。夢も目覚めた直後に何度か振り返って頭に定着させなければどこかに流れていってしまう。その定着させる時間を持つ余裕を与えられなかったのは、夢に流れていた音が少しずつ形をはっきりさせて、音楽だと思っていた音の流れが言葉を形作り、人の話す声だとわかって、ひどい頭痛を引きずりながらまぶたをなんとかこじ開けると、光の飽和の次に目の前に弟の顔がいて滔々と何かを話し続けているのだった。弟の顔がいたせいで私の夢は反芻される間も無く定着せずに流れていった。そうしてようやく弟の言葉たちの流れが文章を形成し始めて意味が通る。
「といったように口の歓び、というものが確かに存在する。今まで誰も俺に口の歓びを与えてはくれなかった。そもそもそんな種類の歓びの存在を俺は知らなかった。義務教育のカリキュラムには存在しない。それが何だってあんな! あの歯科医は全く信じ難い。俺の歯茎に固く鋭い、冷たく光る銀の鉤爪の先端を押し当てる。そして俺に手鏡を持たせるのだ。あまつさえ、その様子を俺に見せようという。鉤爪の先が、緩んだ俺の歯茎に押し当てられるたびに、その脇の歯周ポケットから血と膿が滲み、唾液と混じりあって流動性を獲得して流れ出す。何度も何度も彼は銀の爪を押し当てる。そのたびに鈍い痛み、痛みと言っていいのかわからないほどの、こそばゆさ、痒み、それらに似たレベルの痛みが甘く生じる。何度も、何度も繰り返される……いつ終わるのか、全く知れない。口を開き続けて顎がだるく痺れてくる。どれくらいの時間が経ったのか分からない。押し黙ったまま歯科医はひたすら柔らかく先端を押し当てる。血と膿が流れる。手鏡を持つ腕が疲れて痛む。彼の目は見開かれている。凝視している。大きなマスクに覆われて全体の表情は知れない。けれども双眸は熱を帯びて光り輝いている。この繰り返しの中に時間が埋没して、時間が捕らえ難いものに成り果ててようやく、まったく唐突に、まるでこれまでの繰り返しを一切無効にするようにあっけらかんと歯科医は手を止める。眼も冷ややかさを取り戻す。何もなかったような顔をしているのだ。そのまま誰も何も語らなければ、あの狂った口の歓びは犬死にに死ぬ。黙殺される。しかし医者はこう言う。
これはひどい。見ましたか?」
 あの繰り返しを認めるという! 鏡の中で俺はただちに喜色満面になるが、それを抑えられない。何せあの二人の共演を語り合って俺と医者の紛れもない事実にすることが許されたのだから。
「ひやひや、ひやひやよ! ひおいえうえ!」
「患者が何を言っているのか本当にわからない」
「ほんほーひひおいえうえ! おえ、はいーひひへはへおへんへんいうあああっあおおーッ!」
「黙れ患者!」
「ひおい」
 そして治療は開始されたよ。太い注射器で麻酔薬を射された。まだ俺はその感覚を「痛み」としか語り得ないが、あれは強い圧力で押されるような――実際に液体を注入しているのだからその感覚かもしれない、そして少しずつ唇や歯茎がふくらんでいくような感じ、まるであちこちを蚊に射されて腫れ上がったような、感じ、感じが消えていく感じ、」
 私は弟の顔を手で払って布団の中で体を横向けた。目も閉じる。口の歓びだか何だか知らないけれど私には関係が無い。弟はまだ何か話し続けている。それで私は突き放す。
「あんたの好きにすればいい。報告はいらないから出ていってよ」
けれど弟は笑う。
「姉さんオホホホホ、好きにするのは俺じゃない、俺の口を好きにするのは、もちろん、あの歯科医だからねオホホホホ、ホホホホ」
弟が部屋を出て行ったので私の腹立ちと偏頭痛だけが部屋に残された。


(つづく)