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創作のブログです。

ポーラー・ロゥ (9)

 誰とも言葉を交わさず、他人が吐いた言葉に傷つけられることも、自分の吐いた言葉に傷つけられることもない生活がこれほど楽だとは知らなかった。毎日無言で買った弁当を食べて、寝て、掃除や洗濯をして暮らす。何かを分かろうとしなければいけないわけでもなく、記憶が勝手に想起されるのを眺めるだけだ。本当にまるで自分とは関係ないみたいだ。あんなに弟に執着して、ヴァンダーに執着していたのも過ぎてみれば痛みと同じで、痛かった事実を忘れてしまうわけではないけれど、ともかく今は痛くないのだから他人事と変わりなく遠方から眺めている。窓を開けたままベッドに横たわれば春の夜があの肉感的なやり方で鼻の奥まで入り込んでむっちりと居座るし、のりは箸で易々とは裂けてくれない、この繰り返しなのだ。


 ぱたたたと粒を板にばらまく音がしてのり弁を食べる箸を止めると雨が降っていて、雨の匂い、土埃の匂いが鼻にも届いてきた。雲が薄いせいかあまり暗くはない。音と匂いに誘われて庭に目をやると墓からドレスの端がはみ出していて思わず箸を取り落とした。ちょうどゾンビの方法で土の下から這い出したのだ。真昼の日の光は雲で弱められているものの完全にニュートラルで平等にどす黒い赤を描き出している。忘れることなど許されない。自分でも知らぬ間に立ち上がって縁側に歩み寄りドレスのゾンビを見下ろしていた。こうやって何度でも目の前に現れる。悪意が布の残骸になって確実に目の前に現れる。私はそれを呆然と見つめるしかない。
 突然、背中から腹へと衝撃が突き抜けて痛みに視界が歪む。再び像を結ぶと目の前にあの布がある。ビロードの布目さえ見えそうなほど間近にある。ぎょっとして私は跳び退く。身を引き剥す。すでに私は似ていない! 顔に冷たさを感じて手で拭うと雨を吸って泥になった土がべっとりとついていた。服も泥で汚れていて、見上げると私が立っていた位置から弟が私を見下ろしていた。いつの間に帰っていたのか分からない。弟は無言で私の後ろに近づいて、私を庭へ突き落とした。無表情で私を見下ろしている。雨が温い。
「俺宛の手紙こなかった?」
と問われても言葉の意味が結ばずにぼんやり尻餅をついたまま弟を見上げていると、弟は勝手に話を続けた。
「こないだろうね。だって郵便受けの口がガムテープで塞がれてるから」
 口が塞がれている。まだ嫌がらせは続いていたのだ。町民たちは言葉を失くしても悪意は広く薄く保持されているのだ。
「姉さんはここで一人でのうのうと生きていたんだ。せめて郵便物くらいチェックするべきだと思うよ穀潰し。本当に役立たずだな。俺はここにはもう住まないけれど、毎日郵便受けの封を剥がしにくるから」
 そう言って弟は消えた。とにかく、ドレスをもう一度墓に戻さなければいけないと思って、周りの泥をせっせと手でかき集めて、盛って、叩いて固める作業を繰り返すうちにぼんやりしていた頭に思考が戻ってきたようだった。さっきは何が起こっているのか把握するのに頭が空転するばかりで何も言い返せずに弟を帰してしまった。土を叩いていると悔しくて涙が出た。なんで泥にまみれてこんなことをしなければいけないのか。弟と出会って十九年になるがあんな物言いをされた覚えはないしされる覚えもない。穀潰しだなんてあんたに養ってもらってるわけじゃない。弟が一方的に言うだけ言っていい気でいるかと思うと腹が立つ。自分だけ高い位置に立ったつもりでいるなんて許せない。引きずり落としてやるチャンスはあの間にしかなかったのに逃したのが悔しくて悔しくて地団駄踏む思いがして飼い犬と思い込んでいたのに手を噛まれて息もできない。そもそも私が勝手に作り上げたポテンシャルの場の中で、私の認識の中で誰もが上下を繰り返しているだけなのだ、それを平坦な状態に戻そうと私が必死になる必要なんて外側から見ればないと頭では思えてもなにせ、私の身体は外側ではなく内側に閉じ込められているのだから、ぎりぎりの縁で自分自身を救えるかどうか、その瀬戸際にいるのだ。もう一歩踏み出せば転落だ。足の先はもう崖の外へ出ている、体が揺れている、腕を振り回して何とか落ちないように、こちら側へ戻ってこないといけないから
おぉぉ、
おおぉぉ
と獣の咆哮で私は泣いた。絶叫する。周りの泥を手で掬って顔に塗りたくる。泥を撒き散らす。腹の空気の塊を、おっぴろげた喉でそのまま出して出す叫び、いったん人間をやめる、何もかも忘れる。おぉぅ、頭が空っぽになる。強制的に、おぉお泥まみれになって、遮断する、叫んで、泥を撒き散らして、時間も他人も、自分さえも忘れて、叫ぶうちに、ゆっくり、ゆっくりと、少しずつ、叫ぶ自分が自分で見えてきた。戻ってくる。そうして、ああ、脱出できた、言葉が頭の中に戻ってきても大丈夫だ、人間に戻れる、と確信が全身にみなぎってきてようやく叫ぶのをやめる。何とか、こちら側に戻ってこれたのだ。


 一時的に自分との距離を一瞬でゼロに漸近させなければ崩壊のただ一歩手前で踏みとどまることはできなかったのだと、つい今し方の自分を振り返りながら、ひどい疲労を感じて気持ちの悪いぬるさの地面にべたりと尻をつけてぼんやりしていると、視界の端で何か動いた気がしてそれは、塀の上から覗いていた目、ちゃんと傘まで差した、隣家の若い主婦だった。
「見世物じゃない!」
 頭が一瞬で燃えるような熱さに逆戻りする。私は泥を主婦に向けて投げ付ける。が、泥は傘でガードされ、そのまま塀の向こうへ主婦は傘もろとも引っ込んだ。
「馬鹿にするんじゃない、馬鹿にするんじゃないわよ!」
 べたりと地面に座ったまま周りの泥を塀の向こうへ次々に放り投げたが、
「好きでやってんじゃない、どうしようもないんだよ馬鹿にしやがって、自分だけ平気な顔して、出てきやがれ逃げるなッ」
 しかし向こうからは何の反応もなく音もなく、私は疲れ果てて、どうでもよくなって、ずるずる泥も落とさずに居間へ這い上がった。そのままごろりと仰向けに体の重さを床に投げ出した。床はちゃんと受け止めてくれるのだ。この固さは優しくはないけれど気は楽だ。
 ようやく息をついて天井を見る。みじめだ、あんまりだとは思うけれど、まだギリギリ大丈夫。かすかにやる気のようなものが、じわりと体に滲んで来るのを捉えながらゆっくり大きく呼吸をしていると、突然ガラスのぶち割れる音が私の足元で聞こえ、続いて重量物の落ちた音がした。そのまま重量を感じさせる音でごろごろ私の横まで転がってきたのは分厚い陶器でできた人形だった。ディズニーの七人の小人の構成員だ。身を起こしてみると庭に面したガラス戸が破れている。
 たしかに隣家の主婦は、こういったディズニーの白雪姫を好みそうな、そして新居に越してすぐ、必要な家財もまだ揃っていないのにホームセンターで陶器の人形を買ってくるタイプの顔をしている。あれはキャラを演じてるんだね。すてきな奥さんになりたいんだね。それがこんな形で悪意を剥き出しにするんだ、突然。
 自分以外に、というより、自分さえ、何もかもいない振りして、傷つきも傷つかれもせずに安住できるなんて、まるで嘘だったのだ。あの日々は目をつぶっていただけでその実、泥まみれだったのだ。悪意だろうと善意だろうとべったり泥みたいに張り付いていて絶対に、逃れられない。


(つづく)