OjohmbonX

創作のブログです。

ポーラー・ロゥ (13)

 まだ時間が早いから喫茶店に入った。ホットコーヒーと紐みたいなのをカウンターで受け取って、もちろんそれに見合った金銭も支払った上で席に着いた。ホットコーヒーを一口飲んでから私は紐を食べた。その店では誰もが紐のようなものを食べていた。そういう店なのだ。紐、もしくはハンバーガーを食べさせる喫茶店なのだが、誰もが朝に相応しいのは紐だと思っているのか、ハンバーガーを食べている者はいない。
 店内にはおばさんの集合体や学生崩れのかたまりがあちらこちらにいた。全て女だ。平日の朝なら出勤前の会社員単体が多いのかと思っていたがそうでもないらしい。そして時間を気にする様子も無くおしゃべりに興じている。もちろん紐を食べながら。紐にも色々な種類があるが、私はカルボナーラにした。匂いや見た目がさっきのゲロとやや似ている点が気に入ったのだ。どのグループも熱心に話をしていた。誰もが事実の指摘に留まり得ずに分析を語っていた。ソファー続きの右隣りの中年女性のグループの現在の主題は山田さんだ。うどん屋のパート仲間らしい山田さんは数分後の需要を先回りしての茹でが遅いのみならず、うどんの湯切りが甘いために彼女たちの俎上に載せられたようだ。いくら自分たちが適切に、素早く処置しようと山田さんがボトルネックとなって結果は客の怒りに達するらしい。うどんのような紐を公的に扱っている女たちが私的にも紐を食べにくるとは恐れ入る。
「でもさ、あたしたち、ほんとは単に、山田さんが嫌いなだけなのよね」
 一人がそう結論づけて彼女たちの哄笑がわっと砕ける。そして話は山田さんの私服に移ってゆく。うどん屋なのにいつも変なドレスを着てくるのよ。春なのに重そうな。ただでさえ体が重そうなのにね。調理場が狭いのよ、通り抜けられなくて、無理に通ろうとすると、お肉が震えるのよね、それでぶりっこぶって、ああん、とか言うの、四十代なのに、
 左隣りの高校生たちはミカがムカつくという話をしていて、ミカがいかにムカつくか具体的な実例を競って挙げ合った後、共通点を抽出して帰納的にミカを語った。最終的にはミカの彼氏が悪いという結論に落ち着いた。頭がくらくらする。誰もが話し合っている。真剣に考察して真っ直ぐに恥じらいもなく披瀝している。この世の中に生きている自分以外の人間がそれぞれ物を考えてそれを口にする、積み上がって進むこともなく言葉が消費されて行く、これまでも今この瞬間もこれからも何か厳しく形になりもせずひたすら生まれては消費されていく、そして彼らが死んでまた別の彼らが現れて同じことを繰り返して行く、世間のバイアスがかかるばかりで停滞して飽きることもなく繰り返される思考ども、その断片を許しも得ずにまざまざと見せられるのではまるで吐き気がするようだった。こっそり吐いてもカルボナーラにまぎれてバレないかもしれない。まったく、私も同じ穴のムジナなのだ。
 カルボナーラにこっそり吐いて、吐いた物を紐といっしょにまた食べるという振る舞いはいくら何でも野蛮過ぎるように思われたので堪えて、しかもちょうど時間も頃合いになったからコーヒーで飲み下して店を出た。午前八時四十五分だった。


 渋谷もセンター街の奥へ進んでほんの少し裏へ入るとまるで表の人通りが嘘のように静まり返っている。少し迷いながらも地図を見ながら曽根歯科クリニックに着いた。
「久野重之の姉ですが」と受付の女に言うが生返事をしたきり私を見上げているばかりの阿呆面だから無視して診察室に進もうとすると素早くカウンターを回って私の目前に立ち塞がってにやにや笑うのだった。その笑いは私を馬鹿にしているものかと一瞬頭に血が上ったけれどそうではなく、困惑した上の、とまれかくまれ執り成すための笑いなのだった。化粧の仕方が頭の悪そうな女だ。やたら明るいチークを塗っておめでたい顔をして髪も明るいブラウンの小柄な女は妙に甲高い声で話した。
「弟さんは診察中ですので、待合室で待ってて下さい」
「私は姉なので見学します」
 決然と言えば女は不安な顔をして
「先生に聞いてきますので、ちょっと待ってて下さい」
と奥に慌てて消えるのだった。患者は他に誰もいない。女が奥に消えてわずかな時間が経っただけでも私一人が取り残されたような気にさせられる。しかし女は戻ってきた。何か誇らしげだった。
「先生に聞いたんですけど、そういう、お姉さんが見学できるサービスって無いらしいんですよ。別にうちがやってないんじゃなくて、どこの歯医者もやってないです。これって、常識じゃないんですか」
「お宅の先生ってどちらのご出身なんですか」
「え」
「どこの出身かって聞いてるの」
「福井って聞いてますけど」
「だからよ」
「え」
「福井はやってなくても、東京じゃ見学は当たり前なの。早く通して」
「え。あたしは愛知出身ですけど、そんなの聞いたことない……」
「だから中部地方だけ遅れてるのよ。さっさとどいてよ」
「え。え。先生に聞いてくるからちょっと待ってて下さい」
 ほとんど泣きそうな顔をして女は引っ込んですぐに勝ち誇った顔で出てきた。
「ほらぁー。やっぱり東京でもおんなじですよぉ」
「そうね」
 女の小顔の鼻と口の間を、握り締めた拳で思い切り殴り付ければ女はピーッと笛を強く吹いたときに出る割れた音を出して昏倒したからそれをまたいで私は診察室に入った。診察室は非常識に広かった。広いというより長い。何も据えられていない真っ白なスペースが長く続いた奥に一台だけ治療椅子が置いてある。本当はあと五、六の治療椅子を並べるつもりだったとしか思えないつくりだ。共同で開業する予定の歯科医が逃げたのか、金が尽きたのか知らないけれど奥に進むと弟が元福井県民に治療されていた。あの笛の音が聞こえていないはずはないと思うのだけれど二人ともまるきり私を無視して静かに治療を続けていた。歯科医は大きなマスクをして表情が伺えない上、背を向けているし弟は目を閉じたままだ。
「久野重之の姉ですが」と気を遣って自己紹介をしても声は壁と床に吸い込まれるばかりで二人には届いていないような態度だった。


(つづく)