OjohmbonX

創作のブログです。

掛け値なしの嘘 (1)

 万丈一久は目を覚ました時、何かを炒める音を聞いた。熱いフライパンに細かく刻まれた瑞々しい野菜がその水分を一瞬で蒸発させて弾ける音を足元からまず聞いたのだった。それから、朝のニュースを流すテレビの音を聞いた。木のまな板に包丁の刃先が当たる律動的な音を聞いた。少し暑苦しく、呻きながら寝返りを一つ打った。タオルケットが暑さのためにベッドの端へ寄せ集められ、薄いカーテンは容赦なく朝日を導いて部屋の中はすでに明るかった。扇風機がふぁらふぁら鳴る中にあって、学校へ行かなければと突き上げるように思ったがすぐに、自分はとうに学生でないことに気づいた。そしてそこが実家ではなく一人暮らしの部屋だとも同時に気づいた。隣の家の朝食を用意する音だとも了解し、そしてようやく今日が土曜日で会社に行く必要もないと分かり、ベッドから起き出し窓を閉めエアコンをつけて再び横たわった。枕元の目覚まし時計を掴んで今の時間を確認し、目覚ましをセットした時間も確認してからタオルケットを肩まで引き寄せもう一度眠った。この日は私と出かける用事があり、万丈一久は午前十一時に家を出れば良かった。まだ午前七時だった。
 午前十一時を二十分過ぎて家を出た万丈一久は玄関先で白い固まりにぶつかった。後ろからふくらはぎにぶつかってきたのは隣家の子供だった。平岡ユツキという。万丈一久は彼の母親が彼をユツキと呼ぶので名前を知っていたが漢字までは知らなかった。今年の春に小学校に上がったばかりだ。しかし、あ、ごめんなさい、と謝ったのは平岡ユツキではなく玄関から顔をのぞかせている母親の平岡さんだった。母親は息子からも夫からもお母さんと呼ばれていたので名前はない。ほらユツキ、お兄さんに謝りなさいよと平岡さんに言われて平岡ユツキは顔を真っ赤にした。今言おうと思ってたのに! じゃあ早く謝りなさいよほんとうにごめんなさいね大丈夫でしたか。ええ、別に。ほらあ早く謝りなさいほんと、この子って、素直じゃないっていうか、強情なんですよ。平岡ユツキは息を詰まらせてしゃくり上げる寸前、ぎりぎりのところで泣くのを堪えていた。何で泣くのよ、何よ。あの、僕は大丈夫なんで。平岡ユツキに声をかけようとしてふと万丈一久はユツキ君と呼んでいいものか迷った。一度も話をしたこともない相手にいきなり名前で呼びかけるのは妙な気もして、けれど君と呼びかけるのも変かと思って結局、ぼくぅ? と語尾を上げて、お兄さんは、平気だから、もう行っても、いいよ、と自分の顔がへらへらしているのと言い方のぎこちなさを感じつつも何とか言い終えると、平岡ユツキは廊下を走り去った。その一瞬前に平岡ユツキが湿った目で自分を睨んだことを万丈一久は忘れなかった。親戚に小さな子供もいないし慣れていないから、ああいう小さな子供とどうやって接していいか、自分ってほら分かんないじゃんし、などと誰に説明するのでもない言い訳を口に出さずに発しながら、万丈一久は私との待ち合わせ場所に向かった。

 三ヶ月半振りに会った私たちの会話は、天気が優れて良かったとか、男二人で出掛けるのも妙な気がするとか、意味もなく当たり障りもなく続いたがついに枯渇し、向かいのホームを二人してぼんやり眺めることになった。向かいでは階段の降り口で女子高校生たちが電車待ちをしていた。中年の男が階段を降りてきた。半袖のワイシャツを着たサラリーマンだった。男はまっすぐ高校生を目がけて降り、その一人の背を無理やり押しのけ、彼女が肘に提げていた鞄をわざと強く撥ねのけて通り過ぎた。混雑もしていないホームで、避ければいいものをあえて悪意を剥き出しにしたのだ。中年の男に駅員が駆け寄り声を掛けた。ややこちらからは距離があって男と駅員が言い合う内容は知れないものの声を荒らげていることは確かだった。そして男が駅員を小突いた。その直後、駅員は棒のような物で男の頭を殴りつけた。頭を抱えてうずくまる男を何度も駅員は殴りつけた。柔らかそうな茶色い棒で、振り下ろすたびにくにゃくにゃとしなった。ウレタンか何かをビニール張りしたような棒だった。そこへ女子高校生たちが歩み寄った。駅員から予備の棒を渡された女子高校生たちも男を叩いた。女子高校生たちは三人組で、駅員は棒を三本しか持っていなかったため自分の棒を渡そうとしたが高校生はそれを断る素振りを見せた。そして棒を断った彼女は、鞄の中から筒を取り出した。ちょうど茶筒ほどの大きさで高校生はその蓋を開け、男の頭に何かを振りかけ始めた。黒い粉末で海苔のふりかけのように見えた。彼女が振りかける間も駅員と残りの女子高校生は茶色い棒で男を叩き続けていた。ひとしきり殴った後、駅員は男の髪をつかんでホームの縁まで引きずっていった。ちょうどそこへ電車が滑り込んできた。
 私たちの待つホームにも電車が到着し、向かいの成り行きは分からず終いになった。おろし金で大根をする要領で、駅員は男の顔を電車の側面に押し当ててすりおろしたのかもしれない。でもおろし金は往復してするけれど、電車は往復しないでしょ、あのおっさんって悪意じゃなくて正義感むきだしなんだよね、邪魔になるようなところに立ちやがって、罰してやる、電車の中で電話するやつに注意するのとおんなじなんだよ。それよりあの棒は何だったんだろう。知らないよ、最近の駅員はみんな持ってるんじゃないの。
 私は棒について話し合いたかったが万丈一久は男の内面について分析めいたことばかり口にし始めた。
 あのふりかけみたいのは何だったんだろう。知らないよ最近の女子高校生の間でたぶん流行ってるんだよプリクラみたいなものだよ流行ってるんだ、いったん流行り始めると集団心理で一気に広まるんだきっと女子高校生も一人だったらおっさんを棒で叩いたりしなかったと思う、三人集まって、しかも先に駅員という権威が叩いているものだから、ためらいも無く叩けるって訳でこれも集団心理だ。
 私が熱心に、なるほど、そうか、と相槌をうっていると万丈一久は嬉しそうに一生懸命話を続けた。
 私はふりかけについて、その具体的な味や材料について話をしたかったが、熱心に内面の分析を語る万丈一久はその隙を与えなかった。きらきらした顔で話し続ける万丈一久を見ながらふりかけのことを考えているとついさっきの昼食が思い出されるのだった。


(つづく)