OjohmbonX

創作のブログです。

掛け値なしの嘘 (6)

 テレビのチャンネルが普段と変わらないと、あんまり旅行したっていう実感が沸かないねえとややババ染みた口調でベッドの上を転がりながら万丈一久は言った。下着をつけたかは不明だがガウンの腰紐は結わいている。
 テレビを消し、メインの照明も消してベッドライトだけをつけた。私が習慣で本を読んでいると、眩しいと隣の万丈一久が文句をつけた。私は謝って消し、寝ることにした。隣で寝付けないらしくしきりに寝返りをうったり溜め息をついたりしているなと思っていたが急に、そういうところが、気がきかないんだよね、と私を非難する言葉が隣から投げつけられた。随分久々に私は、突き抜けるように頭にくる、という状態に陥ったが、ほんの少しでも口を開けば口汚く罵りそうで、ひどい疲労を伴うと経験上知っている事態を回避すべく、この部屋の暗さを利用して寝たふりを決め込んだ。広中佑子さんもたぶんそう言う、と会ったことも無い癖に悔し紛れのように言うのを聞くに及び、腹立ちを通り抜けてかえって穏やかな気分になり、しかしそれは単に疲れからくる睡魔のせいだったらしく、いつの間にか私は眠ってしまっていた。

 いったい何時頃か時計を確かめる気力もなくただ波の音がかすかに規則性を乱して届く中で、窓から月明かりが入って青い部屋のなか足元で、青白くぼんやりと光るシーツに身をくるませて、それを揺らして静かに万丈一久が踊っていた。身体を起こすこともできず、厚い枕に支えられた首だけを足元に向けて、声も出さずに私はそれを見ていた。薄く軽い布が白く浮かんでは舞っていた。時間の感覚も奪われ、どれくらい見ていたのかも分からず、いつ引き込まれたのかも分からないまま再び眠りに引き込まれていた。

 カーテンを開け放したままにしていたせいで部屋が明るく、早くに目が覚めた。五時一五分、日の出から間もない時間だった。ベランダに出るとひたすら空と海が静かに広がっていた。まだ汗ばむほどの暑さもなく、潮の匂いが穏やかに満ちていた。少しずつ海のかすかな波立ちが輝きを増して、白くぼんやりしていた空が決然とした今日の分の青を取り返し始め、小さくても粒とまではいかずはっきり人の形を認められる大きさでサーフィンを楽しむ男たちの姿が海に点在し、そのずっと奥では船がゆっくり視界を横切り、道を走る車のエンジンとタイヤの音が重さを欠いたままほとんど底に横たわるようにして響き続け、意識からもすぐに逃れてゆく何とも聞き分け難い人間の生活の音がざわつき始めて、六時近くになっていた。
 部屋に戻ると万丈一久が掛け布団をはね除けたベッドの上で、白くやや厳しいほどに滑らかなシーツと、白くその正しさを鼻にかけて柔らかさが鼻につく寸前のガウンを擦り合わせる音をしきりに立てながら、入眠し易いポーズを探していたが、眉間に皺を刻んだ下に薄目を開けて私の姿を認めると、開ききっていない喉をがらがら言わせながら不眠の苛立ちを隠そうともせずに、あの暑さでよく寝られたなとまるで暑いのが私のせいのように言うので、昨夜万丈一久が開けた窓を閉め、エアコンをオンにしてから、まだ早いからと促すと当然だと言わんばかりにふんと鼻を鳴らして壁側に寝返った。それは、夜中に踊ったりするからだろう、と言い掛けたが止めた。ひょっとすると私が勝手に見ただけだったかもしれないと思い至って言わずにおき、アラームが七時にセットされているのを確かめてから私ももう一眠りすることにした。

 七時に出会った万丈一久は晴れやかな顔をして、いそいそとベランダから体を乗り出しては江ノ島が見えると喜んだり、めざましテレビの星座占いを見て、今日の俺のラッキーパーソンはパスタが好きな先輩だって、もろお前じゃん。いや俺パスタ特別好きって訳じゃないし、お前の先輩でもないし。だから今日いちにちお前はパスタ好きの俺の先輩なんすよ、だからずっとパスター、パスターって言いながら白目むいてパスタを求めてさまよってて下さいよ先輩! などと機嫌よく喋り続け、軽く身支度を整えてから朝食をとりに部屋を出るときも、後ろの私に振り返って喋り続けながらドアを体で押し開けると、ドアの影から何かが万丈一久の頭に振り下ろされ、万丈一久は私の視界から消えた。
 頭を押さえてしゃがみこんだ万丈一久に体を寄せて慌てて肩を抱き、見上げると昨日のウェイターが茶色の棒を持って私たちを見下ろしていた。私はJR専用の棒ではなかったと知ってじわりと感動が広がるのを感じ、万丈一久はいってーと大して痛くなさそうに言い、ウェイターは小学生みたいな満面の笑みをはじけさせて時々私たちを振り返っては嬉しそうに廊下を逃げていった。あの棒、芯がちょっと堅くて痛ぇんだよ、と立ち上がりながら言う万丈一久も嬉しそうだった。
 一人も客がいなかった暗い昨夜が嘘のようにレストランには活気と明るさが満ちていた。バイキング形式の料理をよそうために客と給仕が手前に屯していた。私が名物だという生しらすばかりを食べていると万丈一久は、お前がパスタを食べないから俺が殴られたと笑いながら自分でパスタをすすっていた。ここからも江ノ島が見えるとまた喜んでいた。何か嬉しくて嬉しくて仕方がないといった具合で、小さな犬が転げるみたいに表情をころころ変えていた。内陸の地方出身で海を見て育たなかったから、圧倒的に広くて大きい海への憧れが強いのかもしれない、などと言い出し、今日も調子は上々のようだった。

 江ノ島はとても楽しかった。具体的には上空をトンビが飛んでいたりして良かった。洞窟もあった。すごい。
 江ノ島から真っすぐ駅に向かって歩いていると、蛙が人間をことごとく無視して道の端をのっそり移動していた。灰色に近い茶色をして大人の握りこぶしほどの大きさの蛙だった。これは思いがけず好機が訪れたと踏みに駆け寄ろうとしたがいきなりシャツの裾を掴まれて阻まれた。
「やめろ、意味がない」と止めたのは万丈一久だった。意味がないとは何だ。
「ちゃんと俺が今朝棒で殴られているから、もうお前が確かめる必要はない」
「お前は殴られたかもしれないが、俺はまだ何もない。きちんと蛙を踏んで確かめないと」
「だってどうせ、お前が殴られたか俺が殴られたかなんて区別がつかないんだから同じだよ。確認を二度も重ねる必要がない。そんな風に蛙を自分の好きなようにできると思ったら大間違いだ。大体言っておくけど今朝だって、嬉しそうにしてるなと、親みたいな顔で俺を見て安心してるつもりだったんだろうけど、お前だって随分嬉しそうな顔してたんだぞ。そんなでかい図体をして阿呆みたいにへらへらしやがって」
 その間に蛙は私達を無視してのそのそ去っていこうとしていた。
「跳ねろ! 蛙だったら跳ねてみせろよ、跳ねろ!」
 その背中に向かって万丈一久は急に叫びだした。無駄だ。人間の言葉が蛙に分かる訳がない。それを知っていて一方的に命じるなど無責任な傲慢さだ。
「言っておくけど俺は勝手に見て勝手に声を掛けてるつもりじゃない。お前、昨日アルデンテって言ってた時どうせ分からねえと思って安心してたろ。違う。見てろよ、あいつ跳ねるんだ。あいつが俺を見てると信じて俺は叫んでるんだ、跳べ!」


(つづく)