OjohmbonX

創作のブログです。

他愛なく無用である (2)

 熱い、と思ったが痛みだった。背中一面が筋肉痛を数段踏み越えたような痛みだったが、四肢は痛みというよりやはり熱かった。上手く息ができない。口を何かが満たしていて呼吸がままならなかったがすぐに外された。外されたのは猿轡状の布だった。視界と音が少しずつ戻って、ようやく意味を結び始めていた。口に液体が注がれた。喉に入ったがむせて吐き出した。息ができる。痛み止めをという言葉が届き、直後に口へ指が突き込まれた。それから液体をまた注がれた。今度は思わず飲み込んだ。誰かがいる。見ているのは天井だ。それ以上の認識は高まらず、ただ耐え難い熱に足掻いてひたすら息をしているうちにまた意識が遠のいた。


 昼だと思った。そこは見知らぬ部屋だった。あれから眠っていたらしい。部屋には誰もいないようだった。全身が重りを乗せられたようにだるかった。窓が開いているらしく外から子供の声が上ってきた。それで昼だと思ったのかと改めて思った。肌にまとわりつくような春の暖かさだった。あれこれ辿りながら、あれは自動車に跳ね飛ばされたのだと分かった。また口に猿轡がかまされていた。鼻が少し詰まっているらしいところで、呼吸しづらいし布が擦れて口の端が痛くて不快だった。小学生らしい群れの話し声が上ってきた。林先生の子供が生まれたんだって。男の子だよ。なんだか気味の悪い、化け物みたいな赤ちゃんらしいよ。競い合うように叫び合って、自分の方がよく知っていると意地を張り合っていた。きゃあきゃあ笑って行ってしまった小学生の声を聞いて夕方かもしれないと思った。しかし天井への光の入り方はせいぜい午後三時くらいに見えた。あまりの全身の重さに耐え兼ねて、目を閉じた。これは眠るだろうという確信があったが、だから何? という言葉が出てきて目を開ける気力を手放した。


 目を開くと脇に男がいてじっとこちらを見ていた。もう夜になっていた。何かをとりなすみたいな卑屈な笑いを浮かべて私を見ていた。一瞬で私は、この若い男が、人を起こしたくても気を遣い過ぎて声もかけられないタイプの奴だと了解した。自身がそうだから分かる気がして、そのまま放っておいても男からは何も起きないだろうと、自分から喉が乾いた旨を伝えた。男は妙にほっとしたような顔をして、うきうきコップに水を汲んできた。寝ている私の口にそのまま運んでコップを傾けたから当然の結果として水が私の顔にぶちまけられた。
「あ、あ、間違えました!」
 男は狼狽してコップの水に指をちょいとつけると、その指を私の口に突っ込んだ。それをすごい早さで繰り返す。こんな水の飲ませ方ってない。
「す、す、ストロー」
「ですね!」
 口元にストローをあてて水を飲ませながら、私の上半身を起こして肩を抱いている男の腕が思いのほかしっかりして、私にふいの安らぎをもたらした。痩せて背ばかり高い、蜘蛛みたいな奴だと思っていたが、肩を通り過ぎて私の二の腕をつかんでいる手は大きく、私に幼児的な落ち着きを思い出させた。


 遠くでテニスのラリーが長く長く続くような音がした。急に早まったり緩んだりして音は続いていた。テニスコートやラリー自体も目にしていたのだが、夢だった。徐々に音は掛け時計の秒針の音に変わっていって完全に定着した。しかしここから時計は見えなかった。手足はわずかに熱っぽさを残すばかりだったがまるで動かなかった。体を起こすのもままならないしその気もたいして湧かなかった。時間が分かったからどうということもないのだと思った。
 ずいぶん暖かい日だった。男は出掛けたようで静かだった。日の入り具合からちょうど昨日目覚めたのと同じくらいの時間だと思った。今日はもう猿轡はされていなかったが代りに窓は閉められていた。自分が寝かされているソファの脇にテーブルが引き寄せられ、その上にミネラルウォーターのペットボトルが置いてあった。蓋は取り去られてストローが差し込まれていた。喉は乾いていたが一人では体も起こせないので飲むのはあきらめた。
 ままならないもので喉は乾いているのに尿意をもよおしていた。あっさりそのまま漏らしておいた。ズボンが濡れて気持ちが悪いとはじめは思ったが、そういうものだと思えばすぐに気にならなくなった。
「あ、水」
「飲めなかった」
「あ」
 帰宅した男はペットボトルの首をつまんで持ち上げたりまた机に置いたり意味のない動きを繰り返した後、何かを思い出したように部屋の奥に引っ込んだ。それからウサギ用の給水器に水を満たして戻ってきた。そして案外器用に、ちょうど私の顔の横にくるようにそれを固定し、へへ、とちょっとにやついて退がった。自分のアイディアに満足したとでもいいたげな顔だったが、給水器はひどく汚れていて、別にそんなことで傷つくわけではないし屈辱も覚えないが、私にはただ少し、飲むのがためらわれただけだった。
 筒の先の冷たい金属球を舌で押し込むと水が漏れ出た。口の周りを濡らしながら不器用に水を飲んだ。私はそれから、おむつを装着された。着々と環境が整えられて快適さを増しながら、同時に窮屈に閉じ込めようとする社会が、全員の追い立てられた善意で日本中のすみずみまで逃げ場もなく構築されていると思った。


 雨が降っていた。ガラス窓を隔てて小さな豆粒たちが板の上にばらまかれる音が断続的に耳に届いていた。意識を外せばすぐに背景に落ち込んで忘れてしまいそうな音だった。手足の熱は引いていたが相変わらず動かなかった。そのせいで体をまともに動かせず背や腰が痛んだ。
 暑さに爪先をかけたような春の空気の中で、やわらかな芝生を裸足の指がつかみ、一度こちらを振り返ってうれしそうに笑いかけた後、ボールみたいにころころと駆け出して、一瞬跳ねたかと思った少年が、そのまま手をつき損ねて頭から地面に首を突っ込んだ。白目を剥いて痙攣し始めた吉岡から私は目を反らした。反らしたはずなのに吉岡の痙攣する体はまだ私に容赦なくその姿を映し続けている。それまで積み上げてきた彼の快活さや人懐っこさのイメージを全て裏切って痙攣は続いた。
 意識的な想起と夢の境目のような映像は、小学生のときハンドスプリングをしくじり首を折って死んだ友人の記憶だった。救急車すら待たずに死んでしまった。あのときはっきり、人間は簡単に死ぬものだと覚えた。吉岡は他の子供たちと同じ程度に無垢でも無邪気でもなかっただろうが、ただ確かに彼はまだ、そのあっけなく死ぬということを知らずに死んでしまった。彼がその死で私に示した認識を、当の彼自身は知らぬうちに終わるという事態を、取り扱い方がまるで分からず不思議に思えたことをふいに思い出した。
 ずっと忘れていた吉岡の顛末を今さら夢うつつに見たのは、今の自分と引き比べているのだろうか。車に轢かれてなお見知らぬ大学生に生かされている自分についてはしかし、まあそういうものだろうという気が盤石に存在してこれについては不思議とも何とも思わなかった。


(つづく)