ノクターン

　家電量販店の中をうろうろしていたらショパンのノクターン2番が聞こえてきて，電子ピアノにデモ演奏曲として内蔵されているのを流しているのかな，と電子ピアノのコーナーをひょいと覗いてみると，30代前半くらいの地味な感じの女が本気で電子ピアノを演奏していた．一人で．
　電子ピアノは当然座って演奏するのを前提に設計されているのだけれど，店は演奏させるために電子ピアノを置いているわけではないし，場所をとるので椅子を置いていない．腰をかなり落として，ペダルを踏むために右足を半歩前に出した，ちょっとつらそうな姿勢で女はミスタッチもなくノクターンを情熱的に演奏していた．一人で．
　脇に誰かが，例えば女友達とか夫とか娘とかがいれば，弾いてみせてよ，なんてせがまれたのだと勝手に納得もできるのだけれど，そうであっても，普通，本気で演奏したりはしないだろう．まして，一人で．

　購入するつもりで電子ピアノの良し悪しを測っているとか，ピアノを見るとなりふり構わず弾いてしまう奇病とかではきっとなくて，「ほらほらほらほら見て見て見て見て私すごいでしょショパンショパンノクターン弾く私私私すごいでしょ」という自慢したい気持ちなんだろうと思う．「自慢したい気持ち」はわからなくはないけれど，普通人は，そんなとき，あからさまに自慢するのを恥ずかしく思ってワンフレーズ軽く片手で弾くくらいにとどめておくものだけれど，わからないのは，女が全力を以って全部弾こうとしていること．そのあたりの感覚が，女にはすっぽり抜け落ちているのかもしれない．
　女の弾いている隣の電子ピアノで僕が幻想即興曲を本気で弾き始めたら，女は僕のことを「何こいつ」と思うはずだけれど，きっと女はわざわざ自分の隣で弾きだした僕の動機を，女に対する僕の対抗心としか解さずに，「人のふり見て我がふり直す」というようなことにはならないだろうし，そもそも僕は遺憾ながら幻想即興曲を弾けないのだった．
　あるいは女の連れ合いのふりをしてそばに立っていれば，傍から見る人には「弾いてみせてよ，なんてせがまれ」て弾いていると思われて女の痛々しさが削がれるような気もするけれど，本気で弾いていることの痛々しさはそのままだし，女はやっぱり僕のことを「何こいつ」と思うはずで，そこで僕が「お上手ですね」とでも言ってやって，女が「我が意を得たり」というような顔をすればますます痛々しいし，さらに「何こいつ私に気でもあるの」なんて警戒した顔をされれば憤懣やるかたなく，さすがに「お上手ですね．そんなに熱心に（家電量販店で）演奏する人を僕は初めて見ました」とまで言えば女は恥ずかしく思うのかもしれないが，そんな嫌味を言うのは疲れるし，そこまでいっても万一「何なの，やっぱり気があるのかしら」みたいに思われてはやる瀬ないし……

　というわけで，つまり，僕は女に対して何もせずに，ただ見てただけ．ノクターンを情熱的に弾いている女をいろんな位置から見てただけ．