OjohmbonX

創作のブログです。

コミュニケートしたいけど

・それでも<わるい馬鹿>を自覚へ導くほどの親切は持ち合わせていない

 仮に、ある何事かを分からないこと/人を馬鹿と呼ぶとすれば、世の中にはいい馬鹿とわるい馬鹿がある/いる、などと言ってみたいのだ。
 <いい馬鹿>が分からないことへの理解を、留保することはあっても、指向し続ける一方で、<わるい馬鹿>は理解を放棄する。私たちがその姿を見ることもないところで放棄された理解については、どの道知らない以上、何を感じることもなく済ませられるのに、<その姿>はしばしば私たちの眼前にあらわれて苛々させることになる。書物やテレビの中で人が<わるい馬鹿>っぷりを存分に発揮している姿を目にするのも疲れさせられるものだけれど、まして、私たちがある何事かを伝えようとした人が<わるい馬鹿>になれば、それまで彼/彼女に投げかけられた私たちの言葉はたちまち犬死にに終わるしかなくなるのだから、たとえば金井美恵子があるエッセイで書いたように、<どうも「私は頭が悪いから」という言葉は、聞かされた方としてはあまりいい気分のものではなく、鼻先でピシャリと戸を閉ざされたような、一種の屈辱感とでも言った気持が残る>ものだし、「私は頭が悪いから」はまだしも、「お前は理屈っぽい」などと理解を放棄するだけでは飽き足らず、伝えようと力を尽くした私たちがまるで悪いように言われては、やる方のない憤懣を圧し殺す作業も手伝って、徒労感と脱力感に苛まれるほかない。
 ちなみに、誰もが<いい馬鹿>や<わるい馬鹿>や馬鹿でない側を行ったり来たりする中で、ある程度(どの程度?)<わるい馬鹿>でいる頻度の高い人たちを、ちかごろは特にDQNドキュン)と呼ぶことになっているらしく、その語源語義等について詳しくはおググりください。


 そんな<わるい馬鹿>(別してDQN)とは対極にいる、あらゆる場面で自分を馬鹿ならしめる人と付き合うことは誰にとっても刺激的で幸福なことに違いない。そうはいっても、なかなかそんな人と出会いはしないのだから、せいぜい<いい馬鹿>でいてくれる、つまり「私は頭が悪いから」とか「お前は理屈っぽい」とか言わない人と――なんならある何かを理解できず終いでも・一生留保しても構わないと考えつつ――付き合うことになるのだろうし、それは刺激的ではないかもしれないが、幸福には違いない。そうして相手に<いい馬鹿>でいてほしいと願うとき、ただちに自分が<いい馬鹿>であろうとするのが道理というものだけれど、案外(案の定?)そうはならないのだ。
 自分は果たさないまま相手に要求して憚らない人たち……彼らのお好みに合致するのは、要するに、彼らの話をよく理解して異論を持っても伝えようとしない人たちで、そんな人たちと付き合うのは確かに心地よいだろうし、私も<そんな人たち>にこの上なく惹かれもするのだが、そこにコミュニケーションは、ない。
 互いに<いい馬鹿>であろうとし、あることを要求し合うという、コミュニケーションそのものを――心地よさを唾棄しつつ――持続することが望まれるにしても、まずはそれに自覚的でなければ話にならない。自覚すること! なんにせよ、それがとりわけ困難なのだった。




 という文章を、私の通う学校の図書館が年1回、読書感想文と同時に学生へ募集する<自由投稿文>に――あわよくば、図書館の発行する『図書館だより』(年刊)に採用されて、その副賞の図書カード3千円分をせしめようと――応募するべく規定の<1200字程度>におさめて書いたのだったが、紙幅に許されず書ききれなかったことを、というより誤読や曲解を避けるための解説とか自註とかを書きたくなっちゃった。*1

・<いい馬鹿>であることへの要求=理解への欲求

 <馬鹿>というのは相対的なものでしかない以上、<馬鹿>があれば、そこには<馬鹿でない側>がある。
 <いい馬鹿>であることへの要求は、理解への欲求そのものであって、自分自身に<いい馬鹿>であることを要求することは、相手を理解したいと欲することであり、相手に<いい馬鹿>であることを要求することは、自分を理解して欲しいと考えることに等しい。

・<馬鹿>の用語選択に伴う誤解への予防線

 <ある何事かを分からないこと/人を馬鹿と呼ぶとすれば>とだけ書いたとおりに、そこで<ある何事か>の優劣は全く埒外のことであって、<馬鹿>は馬鹿でないかもしれず、<馬鹿でない側>が馬鹿かもしれないのだ。*2
 たとえば、3歳の子供が玄関先の亀の入った水槽にホースで水を注ぎ込みつづけ、ついに溢れた水とともに亀を外に(意図的でなしに)逃がしたとする。それを知って、たとえどれだけ子供の行動を間違っているとその親が考えたとして、そしてその<考え>がどれだけ正しかったとしても、その子の論理なり理由なりを知らなければ、親は<馬鹿>であり、子は<馬鹿でない側>にいることになる。<誰もが<いい馬鹿>や<わるい馬鹿>や馬鹿でない側を行ったり来たりする>のだ。
 なお、かつて私はこの方法によって飼っていた亀を逃がしました。そのとき私の親が<いい馬鹿>であったかどうかは、知りません。

・コミュニケーションの成立した状態

 矢印が<いい馬鹿>であることへの要求(の向き)を意味する。
 コミュニケーションの成立した状態、すなわち<互いに<いい馬鹿>であろうとし、あることを要求し合う>状態。この状態を意識的に維持できる<相手>を持てればいいなあ。

・<自分は果たさないまま相手に要求して憚らない人たち>

 さて、<自分は果たさないまま相手に要求して憚らない人たち>――自分の言うことは理解して欲しがるくせに、人の話に耳を貸さない(自分の理解できないこと=間違っていると断じたりする)人たちに出会った<相手>・私たちには何ができるのか。当然、3通りしかない。


1. コミュニケーションを成立させる

 理想的な解決方法。
 しかし、<相手>・私たちによる<いい馬鹿>であることへの要求が、<自分>・彼らに受け入れられ、そして彼らが自分自身に<いい馬鹿>であることを要求するようになる、という幸福なことは滅多になく、要求は彼らにあっさり拒絶されるのがオチというものだ。
 これが職業に関する場合には、コミュニケーションが<職業の要請する能力>にかかわるのだから、正しい職場であればそんな彼ら・コミュニケーションを拒絶する彼らは正しく疎外や排除されてゆくのだけれど、意外とこういう彼らがのさばったりして歯がゆい。


2. 彼らの要求をのむ

 <彼らの話をよく理解して異論を持っても伝えようとしない人たち>の一員となる。
 これを徹底して実践できれば、誰からも好かれるに違いないし、「人格者」なんて呼ばれるかもしれない。しかし、<そこにコミュニケーションは、ない>が、どうやらこれを世間では「コミュニケーション」と呼んだりするらしい。


3. 去る

 他に目的のある付き合い(たとえば職場での「人間関係」を円滑にするための職場外の付き合い、といったもの)でなければ、無理に2を実践する必要などまったく無く、彼らから去ったって構わない。そうして2を実践する努力を正当に放棄して去る私たちを指して、あるいは彼らは不当に「冷たい」などと言うのかもしれないが、コミュニケーションを拒絶する彼らのほうがよほど「冷たい」。

・コミュニケートしたいから

 私たちは、たとえば自分が誰をも殴らずにいて初めて「私を殴るな」と誰にも言い得るように、<相手に<いい馬鹿>でいてほしいと願うとき、ただちに自分が<いい馬鹿>であろうと>しなければならないという道理を自覚せず、あるいは知りつつ蹂躙し、<自分は果たさないまま相手に要求して憚らない>という俗情を振りかざす者たちを心底から軽蔑し、そして俗情に結託する2の実践者(<相手>)たちの霧散を心底から希求しなければならない。

*1:ちなみに、<未発表の作品に限る>といった規定は特にないから『図書館だより』の発行前にここに応募作を載せたって構わないし、そもそもなぜここに載せるのかと言えばもちろん、採用されなければ書き損だし採用されてもほとんど誰も読まない『図書館だより』に比べれば――タダだけど――多少は読んではくれそうに思えて張合いがあるってものだからだ。もっとも、どちらにせよはかばかしい反応があるのかという疑問は大いにあるけれど。

*2:ところで、すると、<あらゆる場面で自分を馬鹿ならしめる人と付き合うことは誰にとっても刺激的で幸福なことに違いない>と言ったところで、<自分を馬鹿ならしめる人>が馬鹿かもしれないではないか、といった疑問が、読み手に湧いてこなくとも書き手に湧いてきたため注釈しておくが、伝えられたことに不服があるならば、たちまち自分が<馬鹿でない側>に回らなければならないのだった。