OjohmbonX

創作のブログです。

幸福はもっぱら主観的なものでしかない

 彼は遅刻しない分野において空前絶後のカリスマ男であったが、残念ながら彼のカリスマ性を認めて心酔していたのは彼自身のみであった。
「ああ、マジでカリスマ。俺、今日もカリスマ無遅刻男だわ」
 定時に出社した彼は、独り言を装って近くの席のミキちゃんに聞かすように言った。周りの社員たちは眉をひそめた。ミキちゃんは聞こえないふりをして仕事を続けた。彼は、カリスマを無視することは考え難いのであるからミキちゃんは聞こえなかったものと推断して、再びやや大きな声で言った。
「今日も、遅刻しなかったゼ!」
「仕事をしてください」
 彼は思わずほほえんだ。仕事をしろだなんて、ミキちゃんもしらじらしい。昔の俺ならともかく、今の俺は遅刻しないことが仕事の全てなのだ! ミキちゃんが知らないはずはないのに。


 もちろん彼にも危機的な朝はこれまで幾度もあった。彼は、学生としても社会人としても、発熱を伴う風邪や怪我などの一般に登校・出社の困難な事態をことごとく超克し、無遅刻を達成し続けてきた。しかるに彼にとって回避不能の困難が出来した。その夜も日課のインターネット・サーフィンをこなしていた彼は、思いがけず空前絶後のカリスマ・オカズに出会ったのであった。彼はただちに性的衝迫を感じ、彼の陰茎内の海綿体には必要にして十分な血液が流入した。彼は彼の陰茎によろしく刺激を与えることでオルガスムスを得、射精に至った。一般に人間男性は射精後すみやかに性的衝迫を減退/消失する。しかし彼にそれは許されなかった。オカズがカリスマだからである。彼は性的衝迫を感じ続けた。
 ついに彼は、就床までに7度射精した。精根尽き果て眠り入った彼が覚醒したのは、始業と同時刻の午前9時であった。彼は愕然とした。俺のカリスマ性が、オカズのカリスマ性に敗北した……もはや俺は、カリスマ無遅刻男ではあり得ない……
 ところがそのとき彼に天啓がひらめいた。俺はカリスマ無遅刻男であって、カリスマ無欠勤男ではない。したがって、このまま今日の終業まで出社しなければ無遅刻を守り通せる上、カリスマ・オカズとの共生を実現できる。やったあ! これで今夜もカリスマ・オカズを見られるぞ。彼は幸福そうに再び就眠した。
 これまで無遅刻・無欠勤の彼が一切の断りなく出社しないことをあやしんだ彼の同僚が昼休みに、社屋に隣接する寮の彼の部屋をたずねた。
「オナニーしてて寝過ごしちゃったから、今日は休むって言っといて」


 その日を境に、彼に充てられる業務は目に見えて減っていった。彼はそれを、スポーツ選手――日本でプロとして活動することの難しい――が企業に所属するようなものだと理解した。彼らは大会や練習の合間に会社の業務をこなす。俺もこれまでそうだったのだけれど、「会社に行かない」という新たな無遅刻の方法を導いたことを評価してか、あるいは競技に専念させるためにか、俺に割り当てる業務を減らしてくれているらしい。俺は、会社の期待に応えるためにも、「会社に行かない」方法を多用するなどしていっそう無遅刻に力を尽くさねばならない。


 そして彼は、懲戒解雇された。
 彼が懲戒解雇された日は、はからずもミキちゃんの定年退職の日であった。
「三木部長、お疲れ様でした」
 部下たちから花束や記念品を贈られるなどして華やかなミキちゃんの一方、彼は私物を詰めた紙袋を手に、誰からも声をかけられることなく退社した。
 彼を――彼が自分の息子と同い年であることもいくらか作用して――ひとしお気にかけていた心優しいミキちゃんは、部下たちの誘いを断って彼を食事に誘った。
「遅刻も欠勤もなく、仕事もまじめにこなしていた君に何があったのか、私は知らない――何か、疲れたのかもしれないね。とにかく、しばらくゆっくり休んで、また頑張りなさい」
 浦沢直樹作漫画『MONSTER』の作中人物・天才脳外科医の天馬賢三は「私はいつも手術のたび…ミスはないだろうか……うまくやりとげられるだろうか………突発的なトラブルは起きやしないか……本当はビクビクしていた……」と語る。まさしくその通りなのだ! 天才無遅刻男の俺もまた毎日、ミスはないだろうか……うまくやりとげられるだろうか………突発的なトラブルは起きやしないか……本当はビクビクしていたのだ。それでも天馬はまだ、いい。天才脳外科医と言われてちやほやされる天馬と違い、俺はマイナーな方のカリスマなのだ。誰もわかってくれない!
 彼は正直なところそれらから解放され遅刻の心配のない日々にホッとしていた。そうだ、ミキちゃんの言うように、俺に必要なのは休息だ。


 休息の日々の中で彼は、どうやらカリスマには無遅刻の部門がないらしいと気づいた。そこで彼は、カリスマ相撲ファンに転向した。だって俺、高2くらいから大相撲はわりと好きだったし。