OjohmbonX

創作のブログです。

ちかごろクジラがはやってるって聞いたよ!(主に南半球で)

 クジラは知的だからという理由で殺すことに反対する人たちは知的じゃないので殺されてもしょうがないですね。


 科学の基本的なルール(というか方針)として、体系へみだりに主観性を取り入れない=仮定を導入しない=ボーダーラインを引かない、ということ――「オッカムの剃刀」と呼ばれます――があります。なぜこのような方針があるのかといえば、体系の客観性=誰にとってもそうであると認められる度合いを高く保つためです。(そういうわけで、例えば「神」といった存在は科学に導入されません。全員が「神」を信じられるとは限らないためです。)「誰にとってもそうであると認められる」ことは、みんなで体系を共有する場合には大切なことと思えますから、数学や物理学の諸体系に限らず、法や倫理や哲学や道徳にもあたう限り徹底して「オッカムの剃刀」の方針を採用すべきと私は考えます。
 この方針に従えば、例えば「知的な生物を殺してはならない」という論理が導かれるか採用されるかした場合、それはクジラに対してだけでなく、人を含んだあらゆる生物に適用されなければなりませんから、上に書いたような事態になるわけです。(とは言え、「知的かどうか」はどの道、主観的な事柄=ボーダーラインを引く作業でしかありませんから、あの論理が導かれるということはありません。もちろん、勝手に(主観的に)採用されるという事態はあり得ますが、それでは体系の客観性を保てませんから厳しく排斥されるべきです。)


 ところで私は、(とりあえず人間以外の)生物を人の利益に従って好きにしてよい(殺してもよい)と考えています、と言うと「そういう考えのヤツがいるから環境破壊が進むんだ!」などと非難をする人がいるかもしれませんけれど、それは浅はかってものです。裏を返せば「人の利益に供さない場合、生物を殺してはならない」わけで、徹底して人の利益に供するかどうかを考えた末には、生物の多様性が人にとって重要らしいと知られているわけですから、むやみに木を切ったりクジラをぶっ殺すことにはならないはずです。(徹底された利己主義は利他主義の様相を帯びる、ということです。)ちなみに私が「生物を人の利益に従って好きにしてよい」と考えるのは、例えば人と病原菌との関係を含んだ上で、人と他の生物との関係をすっきり記述するにはああ考えるのがよいだろうと思われるからです。それからそれ以前に私は、人が生きることの客観的な理由・目的はない(人が生きる理由・目的があるとすれば、それは主観的なものである)と考えた上で、人は幸福を追求するために生きる、という仮定を採用しています。もちろんこれは、こう考えることが最も一般的、汎用的と思われるからです。(このあたりについてはid:OjohmbonX:20070209に書きました。)ここから、先の「生物を人の利益に従って好きにしてよい」が導かれました。
 クジラを殺してはいけないと主張する人たちは、知的かどうかではなく、クジラを殺すことが人間にとっていかに不利益なことかを可能な限り客観性へと向かって語らなければならないはずですし、それが十分客観的と認められれば(アホの人を除いて)捕鯨をやめるはずです。


 だから、クジラがニッポンに上陸して人々を虐殺し始めたら、たぶんミサイルで攻撃してもいいと思う。ぼくも「コノヤロ、クジラコノヤロ!」とゆって戦いたいですけど、やっぱりクジラは怖いので、山に逃げると思う。でかいし。
ドゴーンドゴーン
クジラ「ギャー!」
ぼく「コノヤロ、クジラコノヤロ!」
ドゴーン
クジラ「ギャー!」
ぼく「コノヤロ、クジラコノヤロ!」


 ちょっと長い文章をかくとよくわからないですけど、結論はこんな感じだったと思います。