OjohmbonX

創作のブログです。

それは隣人愛

 母さんの四十九日もまだ明けていないから大きなお祝いはできないけれどせめて、と息子が私の米寿の祝いにダッチワイフを贈って寄越した。恥ずかしながら齢八十八までダッチワイフなるものを私は知らずにいた。
 息子はずっと以前にもそして妻が死んだ際にも同居を申し入れたが私は謝絶した。それを後悔している訳ではないが一人になると思いの外不便だった。体力の衰えは甚だしい。届いた段ボール箱を部屋に引き入れるのさえ難儀した。送り状に書かれた「内容物:ダッチワイフ」の字を見ても何だか分からずともかく箱を開けた。しぼんだ浮輪に似たビニールの人形だった。ぽっかり口を開け目も虚ろで生気や活力を微塵も感じさせない表情の人形だ。見つめていると虚無に引きずり込まれそうになる。
 空気穴を見つけた。とまれかくまれ息を吹き込むが一向に膨らんでいる様子はない。あまりの疲労に堪り兼ねてその日はそれまでにした。翌日もさらにその翌日も少しずつ息を吹き込む。日を重ねて見れば確かに少しずつ膨らんでいるようだ。締め切りがある訳でもなし気長に取り組む。もっとも寿命が尽きるのが早いかも知れぬがそれもそれだ。
 もはや私のライフワークと言える。
「ふふふ。わしね、最近『ダッチワイフ』しとるの」
 皆ぎょっとして黙り込む。近所の主婦や老人に自慢して回っていたが遂に空気を入れ終えたところでようやく取り扱い説明書に目を通した。生涯で初めて死にたいと思った。太平洋戦争も戦後も死に物狂いで生き抜いたが今死にたい。恥ずか死ぬ。しかし同時に強く生きたいと思わせる喜びが沸き出でる。妻は四半世紀前に涸れたが私の身内からは未だに肉欲が溢れる。これまで私は妻以外の女と交接するなど考えたこともない。私の股間の眠れる獅子は従って四半世紀の沈黙を破ろうとしている。私は喜びのあまり110番した。
「どうされましたか」
「わしの股間の眠れる獅子が今、目覚めようとしているのさ!」
 電話は切られた。ふふ。わしって最低のじじいだろう?
 しかしこれは妻への裏切りではない。何故ならばこのヨシエデラックス――妻の名を取ってダッチワイフに名付けた――はほとんど空気で成り立っている。私の肺から輩出された空気なのだから浮気ではない。私が私の空気をいかに活用しようと勝手だ。
 私はその日、昼から夜中まで掛けて正規の使用法で愉しんだ。



 アパートのドアチャイムが鳴る。注文していた商品が届いたとうきうきしてドアを開けると田舎の母だった。連絡もなく突然来た。
「部屋が散らかっているから無理だ」
 ドアを閉めようとしたけれど閉まらない。母が足先をドアにねじ込んでいる。フット・イン・ザ・ドア・テクニック
「お母さんが掃除してあげる」
 有無を言わさずに母は部屋に上がる。押しとどめようとする俺を弾き飛ばす。足の踏み場もなく部屋に散乱する俺のダッチワイフたちを目撃して棒立ちになる母の背を見る。母はにやついた表情を固め無生物のように首だけで振り向いて
「お母さんが掃除してあげる」
と再び言った。
 大学デビューにもバイトデビューにも失敗、友達の代わりにダッチワイフをひたすら導入し続けた事態に気づかれたかと思って恥ずかしさだか悔しさだかに顔が燃えるみたいだけれど、母は少し異なって把握したようだった。
「東京みたいな都会に出れば、あんたみたいな田舎者はこういうちょっと奇麗な女の人にすぐ騙される」
 別に俺はダッチワイフに騙されてる訳じゃねえ、と反駁する暇も与えず母は
「こんなこともあろうかと持ってきておいて良かった」
鞄から自転車用の空気入れを取り出し、すでにムチムチのダッチワイフへ更に空気を入れ始めた。
「ちょっとやめてよ、何するの、やめてよ、破裂する!」
 制止しようと腕に縋った俺を、母は腕の一振りで払い飛ばして部屋の壁に叩きつけた。背中をしたたかに打ち付け息ができない。
「お母さんだって人間の彼女ならこんなことしないよ。人間の6割は水でできているから。なのにこいつらときたらほとんど空気じゃないの。許せない、絶対に」
 シュコシュコシュコ パァンッ!
 シュコシュコシュコ パァンッ!
 床に転がっていたワイフたちを漏らさず始末した母は、空中に浮遊していたワイフどもに取り掛かった。(ワイフの数が増えすぎたため、空気の代わりにヘリウムを入れてあるのだ。部屋の空間を有効に活用することは整理法の基本中の基本。)針で刺してはパァンッ! 刺してはパァンッ!
「はーっははははっ!」
 ドアチャイムが鳴る。必死に玄関へ向かう俺の襟首をつかんで母はいとも簡単に後方に投げ飛ばす。再び壁に背中を打ちつけ息ができない。母が玄関を開ける。
「ぐふ。荷物ですね。ご苦労様。ぐふふ」
「ここにサインか印鑑をお願いします」
「ぐふ、サイン。……ぐふ。ほらサインしたわよ帰れーッ!」
 配達員を追い返し、荷物を検める素振りも見せずダンボール箱の両端を持って引きちぎった。中から転がり落ちた最先端のダッチワイフ、俺の最後の希望、生きる愉しみ。生命なき生命、世界そのもの、をすぐさまシュコシュコシュコシュコシュコシュコ パァンッ!
「はーっははははっ!」
 母は満足した顔で空気入れを放り捨て哄笑しながら出て行った。黙って見ていた父がこっそり俺に400円を手渡し、これで新しいのを、お母さんには内緒だ、と囁いた。父の役割を果たしたと言わんばかりの自身に陶酔し切った顔のまま母の後を追って消えた。俺は100円硬貨4枚を思い切り床に叩きつけ嗚咽した。頭を抱えたり体の脇で拳を強く震わせて天を仰いだりしながら部屋を歩き回った。吼え叫んだりした。友達はいないしダッチワイフもない。それでこのコンクリートジャングルTOKYOでどう生きろっていうんだ!


 ゴミ捨て場に見知らぬ壊れたダッチワイフが大量に捨てられている。それを青年が呆然と見つめている。それを私がにやにや見つめている。青年の顔に見覚えがある。隣のアパートに住む大学生の男だと気づいた。誰かがやって来た。近所の主婦だ。私が物欲しそうな顔をしていると思われては迷惑だ。
「げぇーっ、この大学生ダッチワイフ見てる、変態だーっ!」
 私は彼を指さして必死にアピールした。まるで小学生の如き所業だが人は老いれば子供に還る。これで私の尊厳が保たれるのだから安いものだ。主婦は目を逸らしたまま足早に通り過ぎた。私の声に反応して大学生は全く無感動に振り向いた。視線は私に向いているが焦点が定まっておらぬ。顔色は青白く頬はこけ憔悴し切っている。死相を漂わせている。
 家に請じ入れた彼は目を見張りみるみる活力を取り戻した。全ての部屋に溢れかえるヨシエコレクションの中から好きなものを持って行くよう申し出ると彼は驚いて謝絶した。
「しかし君にはダッチワイフが必要なのだろう。とんだ親だが子は親を選べぬ。せいぜい孝行に励むことだ」
 彼は何度も頭を下げ下げヨシエを3体提げて辞去した。
 隣のアパートには近所の大学に通う学生が多く住む。ゴミは散らかす夜中に騒ぐ、そのたびに憤怒を覚え、たかだか挨拶をされたくらいでたちまち一方的に宥恕を与える。この無益な心労を伴う繰り返しだった。しかるに実際に話しをすれば相手を知る。彼らは嫌な奴等ではない。


 まったくWin-Winだ。おじいさんを媒介にアパートの学生たちと友達になった。一方で俺はおじいさんの生活上の厄介ごと――家事や所用に手を貸している。貰ったヨシエさん達の代金を稼ごうと――おじいさんは金なんていらないと言うけれど――バイトにも精を出した。バイト先の女の子と付き合い始めた。それでもダッチワイフはやめられない。今日もレッスンだ。
「人間の女との性交の代替だとか練習だなどと不純な考えは捨てなさい。純粋に腰を振る。このように」
 おじいさんは俺の隣で手本を見せてくれる。全裸の二人は並んでダッチワイフに腰を振っている。とても緩慢に見えるおじいさんの動き。まるで太極拳だ。それに比べて俺は犬だ。俺が7度、そのたび激しく果ててようやくおじいさんは静かに何事もないように達した。俺は狂おしくなった。おじいさんを抱え上げる。驚くほど軽い。そのままエキベン・スタイルで俺の優先席におじいさんをパイルダー・オンした。俺の縦揺れが、電車たる俺と乗客たるおじいさん双方に愉悦を与えると信じて揺らし続ける。俺の肌が湿り気を帯び、その汗はおじいさんの涸れた皮膚に染み渡る。しわしわのしわに俺の汗が捕らわれる。毛細管現象。この皮膚感覚はビニールではありえない。
「おおお、孫! あんたは孫だよ! 血は繋がってない、でも下半身が繋がってる、そう、孫!」
「うるさい!」
 彼はあたしの入れ歯を外した。あたしはふがふが言う。孫という名の電車に揺られてふがふが言うあたしはおじいさん? いいえ、にせババアよ! あたしは真実の孫というものを知った。そしたら突然あたしの中のおかまが花開いたの。八十八年あたしは蕾だった。人生、一寸先は闇。でもそこはバラ色の闇だった。彼の舌が、あたしの一切歯のない歯茎を、最初はこわごわと、そして次第に若者らしい傲岸さで這い回った挙句、あたしの唇をまるで無視して彼の唇はあたしの歯茎を強く挟んだ。あたしの手は意思と無関係にふわふわと空中をさまよう。ゆったり踊りを踊るみたいにひらひら舞うあたしの手を無残に電車の振動が飲み込む。孫の揺れは次第に激しさを増してゆく。終点は近い。あたし=孫の筋肉すべてがこわばり固まったと一瞬思ったら
 絶頂の瞬間、彼はとっさにおかまじじいを真上に放り投げた。おかまじじいは天井に突き刺さった。彼は咆哮し、精液を撒き散らした。肩で息をし目を固く瞑り倦怠感に立ち尽くす彼の周囲は精液の臭いが立ち籠め、天井からはおかまじじいの首から下の身体が力なく垂れ下がっていた。


 あたしは彼と話し合ってヨシエたちとお別れすることにした。だって愛し合うあたしたち二人にはもう必要ないものだから……。冬のさわやかな朝にヘリウムでふくらんだヨシエたちを空へ放った。あたしは彼に肩を抱かれながら空いっぱいのヨシエたちを見送った。さあ、天国にいるヨシエのもとへお行きなさい!


 山梨県内各地において雪と共にダッチワイフが降り注ぐ珍事が発生し、世間をしばらく賑わせた。