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創作のブログです。

右筆 朝倉久次郎

 書き物があると呼び出された御殿の一室で右筆・朝倉久次郎は藩主の正室・達子と相対して座していた。
「朝倉殿は如何に心得られるか」
「すごく……巨乳です」
 達子は襟を握ってそのまま召し物を引き千切り、諸肌を露にした。おもむろに立ち上がり巨乳を下から両手で支え、揺さぶった。
「ボインボイン」
「御廉中お止め下さい。殿中で御座います」
「おほほほほ、殿中でボイン」
 朝倉は眉をひそめた。この財政逼迫の折、今引き破いた打掛ひとつでどれほどの領民の暮らしを支え得ることか。
 意にも介さず達子は反復横とびを始めた。
「ほほ、左にボイン、右にボイン。おほほほほ、ボインボイン」
 そもそも女が奥を出て家臣らが執務する表に顔を出すなど道理に沿わぬ。
 達子は手をひらひらさせ、乳をゆさゆさ揺すりながら部屋をスキップして廻った。
「どうか乳をお仕舞い下さい」
「いやんいやんボインボイン」
 二十七の若い朝倉の双眸に光が走った。(LEDみたいな感じでビカビカッと光った。)朝倉は立ち上がりざまに脇差を抜き払った。
「御免」
 そのまま深く踏み込みつつ達子の首筋を斬った。
「いたい! 斬られるとすごくいたい!」
「左様」
「思ったより痛い。これはやばい。達子、死ぬかもしれない……」
 死んだ。日本で初めて巨乳を「ボイン」と表現した先駆者は歴史に名を残すことなくここに息絶えた。朝倉は城から平常の様子で歩み去った。


 正室を殺されたことが漏れてはならない。すみやかに追っ手は手配され、そのうちの一組が朝倉を国境に近い河原で追い詰めた。五人いたうちの一人は連絡のため引き返し、四人が刀を抜いて朝倉を取り囲んだ。しかし斬ろうとも捕らまえようともせずに一定の距離を保って構えを固めるばかりだった。朝倉は、応援を待っているなと思った。朝倉は藩内で最も勢力を誇る幡多流で高弟に数えられる腕だった。二年前に開かれた御前試合で勝ち上がり、家中随一を認められた。不用意に怪我人死人を出さぬよう追っ手が組織された際に上から足止めして応援を待つよう言い含められていたのだった。
「横一列に並べ」
 突然朝倉は四人に命じた。彼らは朝倉の意図が見えずひどく狼狽した。
「並ばんかッ!」
 叱責されて弾かれるように彼らは従った。彼ら全員が幡多流門下であって、常日頃朝倉に厳しく稽古をつけられている癖でつい従ってしまうのだった。その上、元の朝倉の人望の厚さが朝倉への信頼を捨てきらせずにいたのだった。朝倉殿が御廉中を斬ったのには何かもっともな道理があるはずと彼らは信じていた。
「ばらばらに、一人ずつ俺へ打ち込んでこい。遠慮はいらん」
 一人が踏み込んで前へ出た瞬間、朝倉が上段から真っすぐ打ち落とした幹竹割りはすみやかに相手の額を裂いた。
「イテッ」
 他の三人も同様に、前へ出ると朝倉はすばやく横に動き正面からそれぞれ打ち下ろした。
「イテッ、イテイテッ」
 これが、ワニワニパニックの先駆けであった。


 全速力で城下を目指して駆けていると林を開いた道の向こうから来る三人組がいた。召し物から家中の者だとすぐに知れ、さらに近づきうち一人が新見一郎太とわかると彼は思わず知らず、よし、と小さく言った。二年前の御前試合で朝倉とともに最後まで勝ち上がったのがこの新見だと彼は覚えていたのだった。最後の一戦で敗れはしたがほぼ互角であったし、何せ今回は多勢に無勢、この男がいれば討ち漏らしはあり得まい。
「この先の河原だ。俺の組が足止めしているはずだ、すぐ行け。俺はこのまま知らせに走る」
 新見は少し考える様子を見せた後、その男に意志を持って眼を合わせ、鯉口を切ったかと思うとそのまま抜きざまに斜め上へ剣を走らせた。森閑とした道に絶叫が渡った。そのまま新見は振り向き、唖然として口をぽかんと開くばかりの二人を流れるような動きで斬った。血を軽く払って刀を収め、新見は河原へ向かって走りだした。


 新見が河原へ着くと血塗れの並んで倒れる四人を前に朝倉が刀の血を懐紙で拭っているところだった。朝倉は振り向いて新見を見た。新見は十分な距離を残したところで立ち止まり、ごく平生の声音で話しかけた。
「一人、伝えに走った者がいただろう」
「ああ」
「斬って捨てた」
「そうか……」
「俺と組んでいた二人も斬った。お前の仕業ということになるだろうが」
「それは構わん」
「応援など呼ばれて邪魔をされてはかなわんからな」
 二人は十二の歳に数月前後して幡多流へ入門し、以来腕を競ってきた間柄だった。三間離れてぴたりと正眼に構え合い、二人は静止した。それから気合声を発し互いに間合いを詰め、あるいは広げ、またあえて小手に隙を見せて誘ったりしたが結局誘いには乗れず打ち合うこともなしに四半刻もが過ぎ、再び静止した。しばらく構え合っていたところへ新見がふいに口を開いた。
「御廉中を斬った訳は、乳だろう。お前は巨きい乳を恐ろしく思っている」
「抜かせ」
「わかるさ」
「お前に何がわかるか」
 俺は正室の乱心振りに一家臣として恐れを感じて斬ったまでだ。と、にやついた笑みを浮かべてこちらを伺う新見に顔を真っ赤にして怒りを感じるものの、実際に一瞬目にした像は十四の新見の滑らかな褐色の肌であり、その柔らかな薄い肉の感触であり、汗の匂いと首筋に押し付けた顔に当たる蒸し暑さだった。後ろから抱きすくめて、しばらく抵抗する新見をなおも抑えて脇の下から腕をくぐらせて麻の稽古着の上から胸と脇腹をまさぐった。しばらくすると抗いもせず体をぐったり預けられた。板張りの道場に座り込み壁にもたれながらほとんど混乱した頭で襟のあわせから手を突き込み体を引き寄せた。この記憶を新見も思い出して全て分かったつもりで、片がついたつもりでいることに朝倉は我慢がならなかった。少年の惑乱を今更持ち出すのは卑怯ではないか。その一方的な優越を不当にむさぼる新見に耐え難い怒りを感じるものの、本人のほとんど気づかぬ奥底で、しかし分からない、実のところどうかは知れないと焦燥が募るのだった。頭があまりに熱をもつ。知らぬ間に気合声を発して一気に刀を引き上げていた。
 冷静さを欠いた朝倉の上段からの強い一撃を、新見は自らの剣もろとも下から跳ね飛ばして後すみやかに脇差を抜き逆袈裟に切り上げた。朝倉は一瞬すがるような目を投げてから伏せ、呻きながら崩れ落ちた。
「今一瞬、きら、きらと二筋の光を見た。今の技、幡多流には」
「ない。俺が工夫した」
「そうか……では今の技、秘剣きらきら、と名付けよう」
「え? あ、うん……」
「俺の置き土産といったところか。ふ、悪くない」
「……ああ、いや、実はもう二閃という名がある。すまん」
「あ、そうなの」
「うむ」
「あ、そうなんだ。いや、別に気にしてないけどね」
「うん」
 二人はしばらく沈黙した。しかし朝倉が話を蒸し返した。
「いや、でもさー俺もうすぐ死ぬじゃん? だったら別に、実はもう名前があるってこと言わなくても良かったんじゃないの。そしたらお互いこんな気まずくならずに済んだと思うんだけど。たんに、わかった、その名を頂こう、とか言えばいいだろう」
「そうしようかと思ったが、秘剣きらきらは、ちょっと。名を頂くなどと嘘をつくわけにはいかん」
「えー。お前、昔からそういうとこあるよね。頭固いっていうか」
 新見は小刀を収め、捨てた大刀を拾った。大刀の切っ先を朝倉の脇腹に当て、軽くつんつんし始めた。
「ちょっと何するの」
 つんつん。
「ふ、ふ。やめろ。こそばゆい」
 体を捩らせ朝倉はくねくねしているが、新見はにやにや笑いを笑いながらやめようとしない。つんつん。
「やめろよー」
「えへへ」
 つんつん。
「やめろってば、もうー」
「えへへへ」
 それは、入門してすぐに仲良しになった無邪気な幼いみぎりの二人がふいに蘇った瞬間だった。半刻ほどキャッキャうふふしたところで突然新見は作法に則って止めを刺した。灼けるような痛みの中で薄れゆく意識の向こうから、大勢の藩士たちの足音が近づくのを朝倉は聞いた。