OjohmbonX

創作のブログです。

小説についてのあれこれ――感動? 短編? 宣言!

 ここ最近「OjohmbonX」で被ブックマーク数が比較的多かった(5以上だった)2エントリ「赤い糸で、つながる小指」 (id:OjohmbonX:20100907)、「どこの惣菜屋でも起こってる、ありふれた出来事」 (id:OjohmbonX:20101009)についてその物語を要約してみると、前者は「占い師になったヤクザが組長に諭されて組に戻る話」、後者は「男子大学生に恋をした中年女性が大学生に諭されて夫の許に戻る話」となり、両者とも「元の鞘に納まる」という物語の構造に易々と納まっていることがわかります。
 ここではどうしてそんな事態に至ったのか、加えてその周辺のあれこれ――掌編、短編、長編の違いについて、作者の特権性について、人称について、批評について等々――を冗長さを厭わず考えてみたいと思います。

細かく見てみよう

 「元の鞘に納まる」までにはいくつかの手続きが必要になります。その手続き群は次のようなものです。
 「鯉口を切る」→「鞘から抜く」→「刀が振られる」→「鞘をつかむ」→「鞘に納まる」→「唾が鳴る」
 「元の鞘に納まる」ためにはまず「鞘から抜ける」ことになりますが、それに先んじて「鯉口を切る」儀式が要請されます。「赤い糸」においてはヤクザが組長に啖呵を切り、「総菜屋」においては女が大学生を名付けることがそれにあたります。そしてようやく鞘から抜けることを許されます。ヤクザはカタギになり、中年女は恋をする。そうして抜かれた刀はまるで何の必然も見えないように、人をなるべく驚かせるように、しかしその実必要と思われる斬撃をしばらく幾閃か演じていればよいのです。ヤクザは客を脅したり小指を落としたり女子アナを殺したりするし、ババアはおしゃれしたり大学生の股間を弄んだり店長を殺したり自転車で疾走したりしています。
 散々遊ばせていた刀にはそれから、自分が納まるべきところが鞘にあると自覚させなければなりませんし、太刀筋を眺めていた私達にも鞘の存在を突然視界に浮上させる必要があります。ヤクザの組長はヤクザの占いがインチキだと暴いて占い業を無効化させた上で「戻ってこい、組に」と語りかけますし、大学生はババアに性器の特権性の嘘と非浮気の優位を説くわけです。
 これでようやく準備が整ってヤクザは組に復帰し、ババアは夫と愛し合ってめでたく鞘に戻ります。
 最後に鍔が鳴れば一連の遊びは収束します。ヤクザは週イチペースで人を殺して大学生の彼女はラブプラスだと明らかにされる、といった次第です。

その他例証

 とりあえず被ブックマーク数5以上として「総菜屋」の次に新しい「家族って、いい。すごく。」 (id:OjohmbonX:20100702)を考えてみます。これは先の2例に比較するとやや分かりにくいかもしれません。
 仮に要約すると「娘は男(彼氏)に鼻の穴から脳みそを引きずり出されて死に、息子は男に脳みそを鼻の穴から出し入れされて酩酊状態に陥って自室に引きこもり、大量の母親どもはメス豚なので怒って家を出て行ってしまい、男も怒って帰ってしまったので、父親だけが残される話」ということで何を言っているのかよくわかりませんが、しかしここでも「元の鞘に納まる」運動は生じています。その主体は「家族」です。「あたしの実家で、あたしの家族の目の前で」とその冒頭で措定されていた家族は、途中で瓦解しながら、最後の最後で「でもさ、家族って、離れ離れになってもやっぱ家族じゃん」と「あたし」によって唐突に回復されます。先ほど見た「鯉口を切る」→「鞘から抜く」→「刀が振られる」→「鞘をつかむ」→「鞘に納まる」→「唾が鳴る」という一連の流れに当てはめようと思えばそれぞれの要素を取り出すことは容易ですが、その容易さのためあまりに退屈なのでその作業をここでは省きます。

構造が共通する理由

 どうしてこうもことごとく上に挙げたエントリたちはあの物語に納まってしまうのでしょうか。それは、一方で(1)構造が帰結する感動を利用するため、他方で(2)短編であることを選択したためです。
 (1)はいくらでも分類可能な物語の構造の中から「元の鞘に納まる」物語が採用されている理由、(2)は「元の鞘」に限らずそもそも物語を組織してしまう理由について、それぞれ以下で確認していきます。
 なお蛇足ですが、ここで採用/選択という語を用いていますがそれは書き手が主体的に、意識的に採用/選択していることを必ずしも意味しません。書き手が意識的でなく当人としては避け得ずにそうしているという認識があったとしても、この先見ていくようにそこには選択肢がいくつもあり得、そのうちの一つを(意識的であろうとなかろうと)採用/選択する姿になっているのです。要するに、ここでは書かれたもの=現象が問われているのであって、書き手の意識が問われているわけではありません。

二つの仮定

 (1)の「構造が帰結する感動を利用する」について話をする前に、まず二つの仮定を導入しようと思います。それは以下の二つです。

  • 面白さが目指されている
  • 面白さがズレによって引き起こされる

 注意が必要なのは、ここでいう「面白さ」というものが可笑しさのみならず、興味深さや場合によっては驚きなども含んだ概念だということです。例えばある優れた学術論文がその読み手に大笑いを誘ったりはしなくても「面白い」と言い得る場合、そこには今までその読み手が考えていたこととは別の事態が語られている、これまでの知見からズレた事態が起こっている、それに接して軽い驚きとともに「面白い」と感じるといった具合です。
 ところでそう定義するとただちに「面白さ」の相対性が浮かび上がることとなります。何からズレているかを知覚するにはズレている元を知っていなければならないためです。例えば四則演算しか知らなかった人が微積分の概念に初めて出会ったら驚きと興奮を感じるかもしれません。一方でとっくに微積分をバリバリ使いこなしている人が微積分の説明を懇切丁寧にされたなら今更それは退屈なことでしょう。一方で四則演算すら知らない子供が微積分の概念を示されても大変な苦痛を味わうかもしれません。(四則演算→微積分と直線的に進む訳じゃないだろうというツッコミはあり得るかと思いますが、例え話と思って許して下さい。)
 どうも「面白い」というのは、意味がわかりすぎて面白くない、と、全く意味がわからなくて面白くない、との間にかろうじて成立する危うい状態と言えそうです。これが面白さの相対性と呼んだことです。すると絶対的な面白さというのは可能なのでしょうか、と疑問は際限なく続いていきますがそれを問うことが今回の目的ではありませんのでこのあたりで切り上げることとします。


 さて、この二つの仮定が導入されてただちに導かれるのは、いかにズレを生じさせるかが問題になる、ということです。いかに読み手の認識――常識なり固定観念なり知識なりを裏切るかが目指されるという訳です。

ズレない、というズレ方

 少し脱線しますが、ちなみにズレ方の一つに「みんながズレを目指す中でズレを目指さないというズレ」があります。例えば私は知人に「何食べたい?」と聞かれた際に「美味しいものが食べたいな。やっぱり美味しいものは、不味いものを食べたときより、幸せになるからね」などと答えたりします。あるいは肌寒い日に外を歩いて「秋は、夏に比べると寒いことが多い」と言うようにしています。その際そのズレを楽しんでくれる相手なら「何なんだよ」と笑ってくれますが、人によっては「はあ?」と嫌そうな顔をされます。わからないものに出会うと怒る人、もしくはズレを感知できるがズレがそもそも嫌いな人のどちらかです。悲しいですね。ただ、お腹が空いている、体調が悪い、眠い等コンディションによってはズレへの対応=ツッコミが鬱陶しく思われる場合があるので、いつもは笑ってくれる人でも邪険に扱われることがあります。とてもむずかしい。
 こういった、紋切り型をふいに呟く、といった種類のズレが「OjohmbonX」では割と頻繁に実践されています。
 ついでですので別の例を見ていただきたいと思います。武者小路実篤という小説家はこれをたびたび、極度に現出せしめています。例えば「ますます賢く」という題の文章がそれです。あまり長くありませんので以下に引用します。

 僕も八十九歳になり、少し老人になったらしい。
 人間もいくらか老人になったらしい。人間としては少し老人になりすぎたらしい。いくらか賢くもなったかも知れないが、老人になったのも事実らしい。しかし本当の人間としてはいくらか賢くなったのも事実かも知れない。本当の事はわからない。
 しかし人間はいつ一番利口になるか、わからないが、少しは賢くなった気でもあるようだが、事実と一緒に利口になったと同時に少し頭もにぶくなったかも知れない。まだ少しは頭も利口になったかも知れない。然し少しは進歩したつもりかも知れない。
 ともかく僕達は少し利口になるつもりだが、もう少し利口になりたいとも思っている。
 皆が少しずつ進歩したいと思っている。人間は段々利口になり、進歩したいと思う。皆少しずつ、いゝ人間になりたい。
 いつまでも進歩したいと思っているが、あてにはならないが、進歩したいと思っている。
 僕達は益々利口になり、いろいろの点でこの上なく利口になり役にたつ人間になりたいと思っている。
 人間は益々利口になり、今後はあらゆる意味でますます賢くなり、生き方についても、万事賢くなりたいと思っている。
 ますます利口になり、万事賢くなりたいと思っている。我々はますます利口になりたく思っている。
 益々かしこく。

  な ん な ん だ よ! と思わず吹き出してしまいます。論理性が崩壊しているというズレはありますが、主張(?)としてはいささかのズレもありません。「利口になりたい」。そうですね、としか返しようがありません。ただし実篤は「みんながズレを目指す中でズレを目指さないというズレ」を戦略的に演じていたわけではなく本当にただボケてしまっていただけのようです。本人の認識はどうあれ結果的にそうなっていればよい、ということです。


感動?

 脱線しましたが「総菜屋」、「赤い糸」、「家族」の話に戻ります。
 物語の構造は「元の鞘に納まる」以外にもちろんいくらでも考えられます。その類型の列挙はここでの本意ではありませんからしませんが、必要であれば神話学や民俗学などをあたってみればそこには様々な型が詳らかにされているでしょう。
 その無数にある物語の型の中から「元の鞘に納まる」が選択されたのは、それが「感動」を駆動させるのに有効な構造だからです。実際、「総菜屋」、「赤い糸」、「家族」それぞれのブックマークコメント/タグにおいて「謎の感動」といった記述が見られますが、その淵源するところの一つはこの「元の鞘に納まる」構造にあります。
 自覚して帰還する、その反転のメカニズムが「感動」につながる理由についてはここで問いません。というより特にその知見を今の私は持ち合わせておりません。それは文化的な刷り込みかもしれませんし、あるいは生物としての仮定に由来するものかもしれませんし、はたまた他の生物と人間との差異に由来するものかもしれません。この構造は古いところではメーテルリンクの「青い鳥」や「パウロの回心」などが該当しそうですが、さらに事例を挙げて帰納的な手続きをとることはしません。ここではその源を正すことより、実践的な効果の利用法について考えたいと思います。


 「総菜屋」、「赤い糸」、「家族」では、「元の鞘に納まる」構造が採用されている他にも感動っぽい語り口、人物たちの感動している様、等々、一般的に「感動」という事態を駆動させるための仕掛けがこぞって作動しています。ただし先述の通りズレが目指されなければなりませんから、そのまま素直に「感動」にしてしまうわけにはいきません。どこかで感動を裏切って感動からズレてしまわなければいけません。
 ここでとられたズレは、感動の必然性とでもいったものを奪うことです。「感動」の場面では通常、絶頂に至るまでに「これは感動に向かっていますよ」という印を到る所に示して、本当には存在しないはずの感動の必然性を形成していくのですが、ここではその手続きを踏まないことでそれを奪うのです。途中の刀が遊んでいる期間が必要とされたのはこのためです。しばらく刀が遊んで一切「鞘」のことが忘れられていたところへ、全くふいに「鞘」が視界に浮上し、突然「感動」が駆動し始める驚き。感動させる必然がないまま感動が駆動すること。これがズレとして機能したのでした。ブックマークコメント/タグにあった「謎の感動」の「謎」という留保はこのズレに由来するものです。一般的な感動の事態においては、その以前から感動に向けて着々と進んでいく様子が目に見えているわけですが、ここでは寸前まで全く視界の外に置いておくことで感動の必然性が消えます。
 この「感動させる必然がないまま感動が駆動する」というズレについて思い出すのはスティーヴン・スピルバーグの「A.I.」のことです。この映画ではラストに、宇宙人(?)が作った人間の母親のクローンと、母親を捜し求めるロボットの少年が最後の1日を過ごす、という場面が存在し、そして映画が終わります。よく考えたらよく分からない設定で感動させようとしている、143分も使って、最後の最後に、なんかよく分からないけどこいつは俺を、感動させようとしている! という理解を超えた事態に接して私は感動した覚えがあります。「A.I.」では母探しの物語として最初から「感動に向かっていますよ」と宣言されていたにもかかわらず、最後に出てきたのが宇宙人作の母親クローン、ニセモノの母親だった、という感動からのズレが生じているわけです。「総菜屋」、「赤い糸」、「家族」とはズレポイントが異なるものの、感動からズレるという点で生じている事態はやや近いものがあると言えそうです。しかし143分も使ってやるという常軌を逸した所行に比べればあの3作はかわいいものです。


 ズレがズレとして機能するためには、ズレている要素以外はズレていてはなりません。仮にあらゆる要素がズレていた場合、それは結局何かからのズレとしては存在し得ず、全く独立に、捕捉されることもなく存在することとなります。そういうわけで「元の鞘に納まる」物語が採用されたのは、感動からのズレを生ぜしめるために、構造としては感動していなければならなかったから、ということでした。

掌編、短編、長編

 次に、2つ目の「元の鞘」に限らずそもそも物語を組織してしまう理由についてです。先述した通りこれは短編であることを選択したことに由来します。
 「短編」とは一体何でしょうか。ここではまず小説の長さについて考えてみたいと思います。その際、仮に「掌編」、「短編」、「長編」の区分を用います。
 小説は言葉の連なりで生じているということは小説の公理の一つとして間違いないかと思いますが、この小説を成り立たせる言葉の多さによって要請される構造が変わってきます。ごく分量が少ない時(掌編)はただズレを演じていれば自然にまとまってくれていたものが、やや多くなると(短編)そのままではまとまってくれなくなるのです。表面張力によって球形を保っていた水滴が大きさを増すと、球形を保てなくなって崩れるようなイメージでしょうか。表面張力は分子間力に由来しますが、ここでは各言葉、あるいはそれらが演じる各ズレが全体に対して及ぼす力が、全体が大きくなればなるほど相対的に弱まっていくようです。
 では表面張力がもはやまとめる力として働かないところでどう崩壊を防ぐかというと、物語の力を利用しているのです。ズレなどの要素を物語の要素として構造に従属させることで崩壊を防ぐのです。さらに大きくなっていく(長編)とどうなるでしょうか。全体としては物語が覆っていたとしても、もはや物語の要素としては収まりがつかなくなる部分が出てきてしまいます。囲っていたのにところどころで水が漏れてしまう、滲んできてしまうといった感じでしょうか。
 まとめてみると、いくつかのズレだけで成り立つものを掌編、物語が要素を組織して機能しているものを短編、物語に組織化され得ない要素が露呈するものを長編とここでは呼ぶことができます。
 なおここで「物語」と呼んでいるものについて、一般的に考えられる物語よりも広い概念として「組織化するもの」程度に捉える方が上で述べた事柄にはよりよく当てはまるかと思います。

ながいながい物語

 ところでそんなことを言うと、でもズレだけで2、30枚(400字=1枚として)書くこともできるし、要素をきっちり従わせた物語を構築して2、300枚書くこともできる、と言われそうですが、それは確かにその通りです。どのように書くことも可能です。それが小説の懐の深さと言ったものの一つでしょうか。ただし考えなくてはならないのは、果たしてそれで面白さを実現できるのかどうかということです。
 実作の長短にかかわらず還元した末の物語の構造が大して変わらないとすると、全体が長くなればなるほど物語の要素として振舞う部分が冗長になって緊張感を失います。その退屈さをものともせずにひたすらながくながく語られていく、その過剰さをズレとして機能させる、という戦略もあり得るのかもしれませんが、それのみで勝負するのはあまりに安直です。その冗長さにあたる部分で何とか面白くするという操作が物語とは別に必要となってきます。
 先述した小説の長さと取られる構造の関係=掌編、短編、長編の話は、小説というシステムに対して「言葉が連なって生じている」と「面白さが目指されている」という公理が採用された際に導かれる客観的な帰結の一つなのではないかと考えています。(もちろん厳密さを求めればもっと多くの公理が必要とされるはずですが。)私は公理の採用がひたすら主観的でしかあり得ないという認識において相対主義者ですので、物語に完全に屈服した大長編を書こうとする人をあえて止めたりはしませんが、そう書かれた小説に対してはあれらの公理を措定した上で「面白くない」と言うよりほかありません。漏れをひたすら隠蔽しようとする身振りよりは、組織化を引き受けた上でそのギリギリを行ってふいに限界を露呈させてしまう姿勢の方がより困難で刺激的なことだと、長編ではそう考えています。

長い短編、短い長編

 そのとられた形式から掌編・短編・長編と呼ぶ場合、同じ長さの掌編と短編、同じ長さの短編と長編ということがあり得ます。
 短編作家として私が真っ先に思い浮かべるプロスペル・メリメと樋口一葉について少しお話しようかと思いますが、この二人を選んだのは客観的な理由があるわけではなく、私の貧しい読書体験の中で短編として最も緊密な小説と考えているのがメリメの「マテオ・ファルコネ」と一葉の「わかれみち」だからです。いずれもラストでの、緊張感の高まりの末にマテオの「神様に許してもらえ!」、吉の「お京さん後生だから此肩(ここ)の手を放してお呉んなさい」の台詞が吐かれる瞬間にはあまりの素晴らしさに溜息が出ます。
 メリメはその後「マテオ・ファルコネ」よりずっと長い「コロンバ」、「カルメン」を書きますが物語に対する揺らぎなさ、安定感は健在です。一方、一葉に関して言えば、蓮實重彦が「恩寵の時間と歴史の時間」という批評(『魅せられて』所収)で指摘していますが、「わかれみち」の4ヶ月前に発表されている「にごりえ」において安定感を失っています。菊の井を離れたり、舞台、形式、文体が安定を失って緊密な短編ではあり得なくなっていますが、その不安定さにおいてこれを「短い長編」と呼ぶことが可能かもしれませんし、まさにその点で興味深いことです。「にごりえ」より「コロンバ」や「カルメン」の方がずっと長いのですが前者は「長編」、後者は「短編」と呼べそうです。ただし、実は「コロンバ」や「カルメン」にも長編たり得る契機、「漏れ」が存在しているのに私が読み落としたという可能性は十分にあり得ますので今の話を鵜呑みにするのは少し危険かもしれません。
 それからもはや全く関係ない話ですが、「わかれみち」には巨大なババアが出てくるのがすごくうれしいです。巨大なババア……この意味不明な存在が私は大好きでたまらないのです。私は以前「イチローだけじゃない、世界で活躍する日本人」 (id:OjohmbonX:20090927)で巨大なババアを登場させたのですが、これは「わかれみち」を読んで以来ずっと巨大なババアをどこかにどこかにと思い続けた末に実現できたものでした。巨大なアメリカのババアと、小さな日本のおばあさんの戦闘シーンも書けてとても満足しています。すみません、手前勝手な話でした。

短編が選択される理由

 なぜ「総菜屋」、「赤い糸」、「家族」では短編の形式が選択されたのでしょうか。
 まず長編でない理由は、単純にブログで長いものを読むのはしんどいという認識があるためです。書籍に比べるとまだまだ読み辛く、面白いかどうかもわからない文章が長々と続いているものを読もうという気にはなかなかならないだろうという実感が長編を避けさせています。せいぜい4000字程度に収めたいと考えていますが、どうも物語をやろうとすると実際にはそれをやや超えてしまうようです。それでもせいぜい4800〜5200字程度としています。じゃあこのエントリは何だという話になりますが、いいんです。細かく節に割れば大丈夫とされています。とっても都合がいいですね。
 それから掌編ではなく短編であるのはなぜでしょうか。「OjohmbonX」では掌編が書かれていないわけではなく、もっと短く数個のズレで成り立っているようなものもあります。手前味噌で恥ずかしいのですが読み手として私が気に入っているものとして例えば「満を持しての登場!」 (id:OjohmbonX:20071025)があります。これは100字足らずの短いものですが、本能と理性の対決。そして、せつなくて……夏。これは掌編です。
 今回「総菜屋」、「赤い糸」、「家族」の3つを対象として選んだルールは「被ブックマーク数5以上の新しい順に3つ」というものでした。それを考えると物語できっちり組織させるということが喜んでもらい易いのかも知れません。



書き手の特権性なんて無い

 上の節までで一通り本論を終えました。これまでも散々脱線してきましたが、ここから先はさらに補足や周辺についてです。。


 今回、主に当はてなダイアリー「OjohmbonX」内のいくつかのエントリが論じられました。しかしここでは論じる対象(取り上げたエントリ)の書き手(id:OjohmbonX)と、論じている当人(id:OjohmbonX)とが一致していることを利用して書かれてはいないということに注意していただきたいのです。つまり上で書いてきたことは何も私に限らず誰でもが書き得ることなのです。ここの私は書き手として語っている訳ではなく、ただの一人の読み手として語っています。
 たとえ私が「私は書き手として語る」と言ったところで事態は何も変わりません。書かれてしまったものは既に書き手の手を離れており、もはや書き手が何を言おうとそれは読み手も語り得ることでしかありません。そこに書き手の特権性といったものは存在しません。

書き手にはほんと全然特権性なんて無い

 さらに付言すれば、ある誰かが何かを創り出したとしても、その「誰か」は誰でも構わなかった「誰か」に過ぎません。そこでオリジナリティを声高に叫ぶ身振りは滑稽以外の何物でもないでしょう。例えば岡田斗司夫が食事の記録を利用した減量法についてオリジナリティを主張して嘲笑されたのは記憶に新しいことです。あの事例はアイディアがあまりに陳腐だったために特に分かり易い話でしたが、仮にどれほど独創的な、誰も思いつきもしなかった何かを創造したとしても同様です。それは陳腐さと独創性の間というのがとどのつまりは、客観的な線引きなどあり得ず、実のところどこまで行っても陳腐さであって、かつ独創的であり得るからです。
 作品に署名があるのはオリジナリティを保証するものではいささかもなく、誰でもよかった誰かにたまたま自分がなってしまったことへ責任を取るために過ぎません。そこを履き違えて「俺の作品」などとオリジナリティを叫べば嘲笑にさらされるでしょう。
 なお、全く自分にとって責任のない不可避の偶然に対して責任を取る、ということはまるで矛盾しているようですがその実矛盾してはいません。(ちなみにこの矛盾の解決については柄谷行人の『倫理21』で気持ち悪いクリアーさで詳述されていますので、興味のある方はご覧ください。)

読み手にも特権性なんてない

 このエントリで「OjohmbonX」のエントリを対象に選んだのは、単に読み手として他の諸作品に比べてよく把握しているからということと、たまたま「元の鞘に納まる」という形に「総菜屋」と「赤い糸」が納まっていることに気づいたから、というだけのことです。
 ここではある一つの読み方――「元の鞘に納まる」形に納まる意味を考えてみましたが、もちろんこれは絶対的な読みとして君臨している訳ではありません。特に書き手が語ってしまうと誤解を生み易いものですが、先に見たように書き手の特権性などまぼろしに過ぎません。
 また、たった一つでも現象を語り得る体系を知れば、その体系だけで現象の全てを捕らえ切れたと誤信してしまうことはよくあることです。例えばかつてユークリッド幾何学ニュートン力学が唯一絶対のものとして信じられた時期もあったように。けれども、その後放物線幾何学ユークリッド幾何学と平行に、量子論/相対論がニュートン力学を包含して登場したように、あるいはゲーデル不完全性定理が語るように、体系の絶対性はもはや信じられる時代にはありません。
(なおこのあたりの公理主義的な話については「楽をしたいだけ」 (id:OjohmbonX:20070209)、「引かなくていいかもしれないボーダーラインを引くことしか頭にない人たちを減らしたい」 (id:OjohmbonX:20070617)でかつて書いていますので興味のある方は参照して下さい。私は今でもモデルの一つとしてこれらに特に修正の要を認めませんが、これらのみで事足りるほど事態はもちろん甘くないとは思っています。)
 要するに何が言いたいのかというと、これで「わかった」という気になるのは尚早だということです。何せここで示したのは、後述するようにどちらかというと貧しい読みなのですから。

作品と読み手の共同作業

 新たな体系が生まれるには作品の側にももちろん既存の体系では読み切らせないズレが要求されます。そこを読み手が素通りせずに掬って/救ってやることで新たな体系が誕生する契機となるのですが、実のところ「OjohmbonX」の書き手である私は読み手にそれを特に要求しませんし、契機となる作品を生み出そうといった挑戦的な気持ちで書いてはいなかったりします。それは一つに今の私の手に余る大問題だからです。私が「OjohmbonX」の中でとり得る戦略はひたすら面白さを有効にしようとするくらいです。
 意味も無く演じられたズレたちを目にしてほんの一瞬唖然とした後で、かすかな軽蔑を含んで馬鹿馬鹿しいと笑ってもらえれば十分だと思っています。万が一ある読み手が、誰も掬ってくれなかった何かを「OjohmbonX」で書かれたものから掬ってくれたらそれは望外の喜び、というものです。

明るいニヒリズム

 相対主義者であると表明するにつけ謂れの無い謗りを受けることがままありますので少し補足します。
 絶対的なものはないんだ、書き手の特権性もないし、自分が何かをする必然性もないし、真理なんてないんだ、とは考えますが、だからどうでもいいんだ、別に何をしたって何もしなくたっていいんだ、といった諦念をそれは意味しません。絶対性も特権性も必然性も何もない平面に立った上で、しかし私はこれを主観的に選択してやります、ということです。主観的に選択されたものをはっきり見つめてようやく、して良いことと悪いこと、可能なことと不可能なこと、あるいは本当の意味でどちらでも構わないことが客観的に弁別し得る。これが私の言う「相対主義」です。

どの批評?

 ことのついでですので、このエントリで示した読みの貧しさについて触れておきます。以下、厳密性に欠ける(途中が飛んでしまう)部分もありますが、おおよそこうじゃないかと考えるところを書いてみようと思います。
 ある小説に対してはあらゆる読み方が可能で、例えば法律に合っているかどうか、物理学に背いていないかどうか、道徳的かどうか、歴史通りかどうか、物語の筋が面白いかどうか等々といった視点から語ることが可能です。そのように様々ある批評の中で最も刺激的なのは、小説というジャンル固有のものが問われている時ではないでしょうか。先に挙げた法律、物理学、道徳、歴史、物語といった読み方は小説に限らず映画でも漫画でも可能で、もちろんそういった読み方においても既存からのズレを発揮して面白さは見いだされる場合があるものの、小説の限界が露呈された瞬間を捉えるような読み方の方がはるかに困難でずっと刺激的ではないかと考えています。
 ちなみに「小説の限界が露呈された瞬間を捉える」を「小説というジャンル固有のものが問われている」と同じ意味で書いていますが、例えばチューリングマシンというジャンル、体系の中で、停止性問題=限界が取り扱われる時、それは取りも直さずチューリングマシン固有のもの=最初に導入された主観的な仮定/公理が問われていることとのアナロジーで考えれば分かりやすいかもしれませんし、なんかあんまり分かりやすくないようなきもします。


 さて、このエントリで語られた「元の鞘に納まる」物語に関して言えば、特に小説に限った話ではありません。また「刀が適当に振られている」の一言でそれまでのズレたちを一掃してしまい全く掬ってあげられてはいません。そういう意味で「貧しい」と言ったのでした。

人称のこと

 さらに脱線しておまけの話をしたいと思います。
 「小説の限界が露呈された瞬間」についてもちろん私は完全に把握しているわけではありません。完全に知り尽くしているという認識が気のせいに過ぎないことは先程見た通りです。ただ、いろいろ読むにつけどうもコレが関係しているものの一つではないかなと常々考えてきたことについてお話しようと思います。
 それは人称/視点のことです。人称/視点というのはかなり不自然なもので、一人称でも三人称でも誰に定めてもフィクション性を括弧にくるんでまるで無かったことのように語られるわけですが、その行為に耐えられなくなる、そんな瞬間が露呈する作品が多々あります。
 ここ数年で発表された小説から目につくものを選べば岡田利規「三月の5日間」、青木淳悟「このあいだ東京でね」、磯崎憲一郎「終の住処」などが挙げられます。
 「三月の5日間」では人称/視点が、三人称→東(作中人物)→女→作中人物6人のうちの誰か→女→三人称、と変遷してゆきます。叙述トリックメタフィクションであればこの変わり目を強調するという措置がとられるところですが、ここでは途中でどちらともとれるブロックをある程度の長さで挿入する技術的配慮が見られます。それは人称/視点を手段として何かに利用することはないが、ここにフィクション性を露呈させる、ということではないでしょうか。
 「このあいだ東京でね」ではまるでGoogleマップのような視線も見せつつ、あえて言うなら「街」あるいは「土地」の視点となって視点は彷徨います。その彷徨う中で「客」、「通勤者」、「男」、「女」といった言葉がひたすら使われ、「私」、「彼」、「彼女」あるいは固有名による同定はあからさまに避け続けられてゆきます。ところが途中で一瞬、「私」が出てくるのです。出てきて、そしてすぐに消えます。
 「終の住処」については蓮實重彦の「つつしみをわきまえたあつかましさ、あるいは言葉はいかにして言葉によって表象されるか」というエッセイ(『随想』所収)での指摘によれば、本来なら「二人は」と三人称的な叙法に収めるべきところに「私たちは」と異例の挿入が行われている箇所があるとのこと。ううーん。私は「終の住処」を通読はしていましたが全くスルーしていました。さすがによく見つけます。
 とまれかくまれ、こんな具合で至る所に噴出しています。ここ数年の小説を選びましたが特に今に始まったことではもちろんありません。1857年のギュスターヴ・フローベール「ボヴァリー夫人」は一貫して三人称の多元視点が採用されていますが、冒頭では「私たち」という謎の人称が登場します。どうも「新入生」シャルル・ボヴァリーの同級生らしい「私たち」はけれどもその後は二度と現れません。ちなみにフローベールは「ボヴァリー夫人」の第一稿には存在しなかった「私たち」を後からあえて加えたそうです。どうやら何かしらこちらの方が面白いと判断したようです。それがフィクションへの自覚かどうかはわかりません。
 また1813年のジェイン・オースティン高慢と偏見」でも三人称多元視点がとられていますが、最後の最後にたった一度だけ「わたくし」と書かれている箇所があります。「わたくし」が出てくる節は登場人物たちのその後を語るエピローグとなっており、空気の読めないヒステリックな主人公の母親に関して「わたくしとしては、彼女(=母親)が、(略)ものわかりのいいやさしい見聞の博い婦人として暮らすようになったと、一言、彼女の一家のために言えるようなら、どんなにいいだろうと思うのですが。」と語るところに登場します。文脈上「わたくし」=作者です。これは語りの透明性を確保するスタイルがまだオースティンに(あるいは小説一般に?)なかったからなのかもしれませんが、むしろそこにフィクションの露呈を見た方がよほど刺激的です。
 なお映画でも似たようなことは起こっています。アッバス・キアロスタミの「そして人生はつづく」では、作中人物のおじいさんが水を飲むためのカップがない、と言うとスタッフの女性が画面の中に入り込んでカップを渡すシーンがあります。ただしこの瞬間を強調するようには作られておらず、あくまで当たり前のこととして自然に人々は振舞っていますし、衣装などでの差異化も図られてはいません。


 人称/視点の問題を主題に据えてしまうのは退屈な倒錯です。面白さを目指した結果どうしてもそうなってしまったというならともかく、これに捉われてしまうのはあまりに安易です。「わかりすぎて面白くない」の一種でしょうか。そういう意味で「三月の5日間」や「このあいだ東京でね」にはやや不満を覚えます。あからさまにではなく、もっと何でもないことのように「ボヴァリー夫人」や「高慢と偏見」程度にささやかにやれば良いのにと思うところはあります。そうは言っても、岡田利規青木淳悟も日本の若い小説家の中ではかなり自覚的で聡明な人たちであることに変わりはありません。ただ、その聡明さに恃むという戦略は取りづらい……


 また話が逸れてしまうのですが、「ボヴァリー夫人」を出した以上どうしても紹介したくなってしまうのは「なんという驚き!」のことです。序盤である作中人物が物語にとって非常に都合のよいタイミングで死ぬのですが、その場面での地の文に次の記述があります。「庭で洗濯物を干しているとき急に喀血した。(略)見るともう死んでいる! なんという驚き!」この小説は三人称なので語り手は神/作者です。その語り手の手によって彼女は殺されているというのに「なんという驚き!」などと白々しく言うその厚かましさには唖然としてしまいます。こっちのせりふだよ! とついツッコミたくなっちゃう。(もちろんフローベールはわざと書いている訳ですが。)「いいえ、ケフィアです」や「大事なことなので2回言いました」といったネットスラング化した決まり文句と同じくらい私にとって事あるごとに思い出されるのがこの「なんという驚き!」です。


 ちなみに「ズレない、というズレ方」(←クリックすると飛びます)で引いた実篤の「ますます賢く」では、「僕」=「僕達」=「人間」=「皆」となっていて人称の問題もへったくれもありません。いつの間にか私たちまで無断で実篤に取り込まれているという。ジジイやめてくれ。



 世界には確かに、汲んでも汲み尽くせぬというような作品が存在しています。パラダイムが変わってもその都度新しい面を見せて豊かさ示す、読まれる/観られる/聴かれることで常に生成し続ける作品。けれどもこのエントリに書いたことは書かれてある体系以上でも以下でもあり得ず、一つの体系にしか読み取らせないような貧しさをしか持っていないように思えます。その上、すでに遥かに精緻に誰かが書いているはずのことが粗く書かれているに過ぎないだろうとも思います。
 それでも、もしもこのエントリがある読み手に読まれてそこに面白さが生起されたとしたら、その面白さは先述の通り「さっぱりわからなくて面白くない」と「すっかりわかりすぎて面白くない」に取り囲まれた危うさの上にあることを免れないでしょう。そしてその読み手がこのエントリを踏み台にして、このエントリを「すっかりわかりすぎて面白くない」に追いやってもらえれば、このエントリの存在意義がかろうじてあったこととして私は幸せに思います。


 前の節で書き手の意識とは無関係と書きましたが、最後に当はてなダイアリー「OjohmbonX」の書き手である私から、このエントリが書かれてしまった、これ以降の「OjohmbonX」についてお話したいと思います。


 タイトルに「宣言!」などと書きましたが実のところ私は短編にも「元の鞘に納まる」物語にもこだわるつもりはありません。仮にこだわったとして、既に上で詳らかにされている以上そのこだわりは理に落ちざるを得ないでしょう。了解可能なこだわりなど退屈の始まりでしかあり得ますまい。
 私は岐阜に育ちましたが、岐阜では「男がこだわって良いのはチンポジのみ」と幼いみぎりより厳しく叩き込まれます。だから私は短編だの「元の鞘」だのにこだわってる暇はないんですよ!
 Googleストリートビューで岐阜をご覧なさい。道行く男たちが全員チンポジを気にしているのが分かるでしょう。「してもよい」という許可が、いつの間にか「しなくてはならない」の義務にすり替わってしまうのはよくある話です。これはまだ「秘密のケンミンSHOW」でも取り上げられていない、とっておきの岐阜ケンミンSHOWですよ。
 あなたたちはいかがですか。これまでの人生でチンポジを気にしたことが一度ならずおありでしょう。だったらあなたも岐阜県民ですよ。必要条件と十分条件がすり替わる事態もよくある話です。あたしは女だから関係無いわ、なんて甘い。何もチンポジは「自分の」と制限されていないのですから。あなたが一瞬でも他人のチンポジに思いが及んだ瞬間、あなたは岐阜県民になっています。結局、人類みな岐阜県民です。逃げられると思うなよ。


 私がこのエントリで皆さんに伝えたかったのは、そういうことです。今までも私はチンポジのことだけ考えて「OjohmbonX」を6年間書き続けてきました。そしてこれからも絶対に、私は皆さんのチンポジにこだわって書き続けていきます。これが私の、私とあなたの、宣言です。