OjohmbonX

創作のブログです。

明子と久美

スヌーピーの頭は、ちょうどピーナッツのような形をしていますね。さあ、思い切り大きく口をあけて、お手元のスヌーピーの頭を、鼻の方からくわえてください。そして、思い切り吸ってください」
 インストラクターの若い女性がそう指示を出すと、私の周りの人たちはいっせいにスヌーピーを吸い始めた。吸われたスヌーピーはたちまち細くなり、しわしわになった。皮だけになった。
 私はヨガを習いにきたのに、どうしてスヌーピーを吸わなくちゃいけないの。
「これが本当のヨガだからです」
「でも先生、テレビで見たヨガはもっと、片足で立ったり、蛇のポーズをしたりしていて全然違っていました」
「呆れて返す言葉もありませんね情弱! それはマスコミの大衆操作です。さあ、吸ってください。レッツ、リアル・ヨガ」
 けれど口元に持って行こうにもスヌーピーが暴れるのだ。どうにか両手で赤ん坊ほどの大きさのスヌーピーの胴体を押さえているものの、ギェーッ、ギェーッと死にかけの鳥のような声を出して暴れる上に、うなぎ風情でぬるぬるするので口元まで運んでくわえられるなんてとても無理だった。
 見かねたインストラクターが私からスヌーピーを取り上げると、その腹を二、三度殴りつけた。スヌーピーはぐったりしておとなしくなった。インストラクターはにこにこしながら私にそれを手渡した。
 それでも駄目だった。結構、くさいのだ。大口を開けてスヌーピーをくわえようとしても、あまりの臭いに吐きそうになるのだ。
「犬だから、くさいのは当たり前です。本場のヨガならもっと腐りかけのスヌーピーを使うところを、日本人向けに新鮮なものでやってるのに文句を言わないでください」
 インストラクターは苛立ちを隠そうともしなかった。最初は初心者の私に好意的だった周りの受講生たちもうんざりし始めているのが鏡張りの壁越しに分かって私は焦った。焦ったけれども、このにおいはどうしようもないのだ。吸えっこない。涙がぽろぽろ落ちた。泣けばいいと思ってるのかしら、と誰かが言うのが聞こえた。悔しさが加わってますます涙が止まらなかった。
 私より一回りほどは若そうなインストラクターが、母親みたいな優しい顔をして私の髪を撫でた。撫でて、私の手から再びスヌーピーを取り上げて一気に、私の口の中に鼻先を押し込んだ。えずく間もなくインストラクターが合掌するようにスヌーピーの腹を押し潰すと口中に、苦くて甘い、どろりとした液体が大量に流れ込んで思わず飲み込んでしまった。飲み込み切れずに口からあふれて、そのくささに吐いてしまったけれど、この汁は私に染み込んだ。
 私は歓待の拍手に包まれた。


 そんな思いをしてまで通い続けているのは、幼稚園のママ友の誘いだから仕方がないのだった。六人一組で一割引になるというので抜けられない。抜ければ息子がのけ者にされるだけだ。祐一が独りぼっちの寂しさを味わうくらいなら、私はスヌーピーだろうが何ーピーだろうが吸う。
 それに実のところ、通い続けるうちに気に入り始めていたのだ。私の知ってるヨガとは全然違ったけれど、さすがにインド古来からの知恵だけあって、吸った後は意識が冴えざえとして全てが叶いそうな、全てが華やかで、全てが幸福そのもののような気にさせられるのだった。あの甘さと苦さがないまぜになった臭さそれ自体も、最初は耐え難く、次に遠くあこがれ、そして焦りに似た恋しさに変わってゆくのだ。
 それから、私は少し痩せたようだ。ダイエット効果もあるみたい。


 家事をしていても、ふとした拍子に手が止まっていることがある。止まってしばらくぼんやりしていること自体にも気づかずぼんやりして、我に返る。そんなことが続くようになって、けれどヨガのレッスンのあった日だけは、何もかもきれいにつかみ取って好きなようにできているあの感覚が訪れて平気なのだ。もう週に一度では足りないと思い始めていた。もっとヨガをしたいと思っている。
 そして気づいたら私は、息子のスヌーピーのぬいぐるみを吸っていた。
 それを息子は黙って見ていた。
 私はやめなきゃ、やめなきゃ、祐一が見ているそれに、ぬいぐるみなんて吸ったって意味がないと思うものの、どうしても止められなかった。唾液でべたべたに濡らしながら吸った。息子は黙って見ていた。


 健太君のママに相談するしかないと思った。私をヨガに誘ったのも健太君のママだし、あのグループのリーダー格なのだから。
 ヨガは体にいいので、週一じゃなくて、週七で通いませんか。
 声に出さず口の中で練習のつもりで言ってみて、いくら何でも週七はがっつき過ぎかしらと思うものの、もう遅かった。週七と口に浮かべてみるとその魅力は一瞬で全身を縛り付けて逃れられなくした。毎日あのスヌーピーの歓びが待っているという想像は、信じ難い傲岸さで頭の全てを占めて居座った。
 きっと私は、恥知らずにも週七と言うだろう。きっとみんなは唖然とするだろう。私を軽蔑するかもしれない。けれど、逃れられない、私はきっと言う。週七。ほんの少し先の目の前にあるうんざりするような事態に、自分で足を進んで塗れなければならない憂鬱さにため息を吐くと、いつの間にか目の前に健太君のママがいた。
「あの教室、急に閉まっちゃったんですよ」
 確かにここは私の家だ。私が毎日掃除をして、片付けをして、維持している家なのだ。それなのに健太君のママはいるべき人の顔をして私の目の前にいる。絶句している私を見て健太君のママはいたずらっぽく、くすくす笑った。
「あなたにとって、それはどうでもいいはずのことでしょう。大切なのは、ヨガの教室が、もうないってことでしょう」
 我に返って、健太君のママのことを棚上げにして、ようやく意味を飲み込んでみれば膝が笑うのだった。立っているのがやっとだった。この歳で絶望が腑に落ちた。
「でも、ちょうど次のお月謝を払う前だったし、それに、通っていたのは私たち二人だけだったから、まあ、いっか」
 健太君のママは明るく言うのだ。私たち二人だけ? そんなはずない。六人で通っていたのに。突然、自分の立っている場所が分からなくなった。何も私につながっているものはなく、空中につかまるものさえなく、踏ん張りもきかない所へいきなり投げ出されたみたいな気がした。どうにかして何かにつかまるために急いで記憶を手繰ってみる。けれど出てきたのは確かに、最初は六人だったのに、知らぬ間にゆっくり一人ずつ消えていって私たち二人だけが残っていた像だった。ゆっくり変化すれば見落とすものかもしれない。でも、本当に、気づかないなんてことがあるのだろうか。
 けれど今は、そうじゃない、そうじゃなくて、何て言うか、
「分かっているわ! お月謝のことも、ママたちのことも、あなたにとってどうでもいいことでしょうね!」
 私は何も言っていない。何も言っていないのに、声はかすれて出ないのに、健太君のママは全てを無にするような高らかな笑い声を上げて分かっていると言う。
 膝に力が入らずに床にぺたりと尻をつける私を見下ろして、笑いながら健太君のママはバッグの中からタッパーを取り出した。取り出したタッパーを私に押し付けるように渡した。有無を言わさず受け取らされて蓋を開けてみれば小さなスヌーピーがみっちり詰まって蠢いていた。
「すぐに育つし、すぐに増えるのよ」
 一匹をつまみあげて口に入れる。奥歯に挟んで一息に潰すと軽く弾けて、あの狂おしい苦さと甘さのないまぜになった汁がどろりと舌に落ちた。
「さあ、週七でヨガりなさい!」
 地獄の底から響くような声で笑って健太君のママは去っていった。私は何も言っていない。


 確かにすぐに育ってすぐに増えて、半月も経たずにリビングは立派に育ったスヌーピーの海になった。膝丈ほどの深さでスヌーピーたちが波立っていた。座り込めばちょうど胸の高さだ。
 海はひどい犬臭さを放っていたけれど私には豊饒さにしか思えなかった。手近な一匹をつかみ上げる。大口をあけて、その顔をくわえる。あぁ、くさいわ。とってもくさい。たまらない。そして腹を潰しながら吸う。汁! 喉に絡み付く汁を飲み干せば、全身の毛穴が一気に開いて、神経という神経がざわつく。皮膚の上の産毛が輝き始める。干からびたスヌーピーを海に捨てればすぐに飲まれて見えなくなる。元通りになる。なんというキャパシティ!
 けだるさと覚醒を交互に繰り返しながら、ひたすら海に、いったい何時間たっているのかも分からないほどに、たゆたっていると、ひときわ大きなスヌーピーがいた。頭ひとつ飛び抜けて、座り込んだ私と目線が同じ高さのスヌーピーだった。あれを吸えば、あれを吸えば、今までなんかとは、比べ物にならないほどのと期待が沸いた。身体がうずくものの、ほとんど力が入らずその場から動けない。けれど大きなスヌーピーはゆっくり波に運ばれて私の前へきた。私に吸われるために私の前へきた。
 その両肩を両手で掴んで引き寄せると、それは、祐一だった。
 けれど、確かに祐一の形をしているけれど、どうしてもスヌーピーに思えるのだ。この髪、この目、この鼻、この口、この輪郭は祐一だと分かるのに、どうしてだか全体の認識が、祐一を拒否して、これはスヌーピーだと叫ぶのだ。目に映っているのは確かに祐一なのに、私の息子なのに、この手の中にあるのはスヌーピーだと言って分厚い布のようなものを被せてくる者がいる。そして、吸え、と叫び声が頭に響くのだ。私の内側で私を突き崩そうとする何かが言うのだ。
「吸えばいいのよ」
 私の内側の何かを煽り立てるのは健太君のママだった。私達を見下ろして立っていた。
「いいえ。私は健太君のママではないし、園田さんの奥さんでもなく、ただの、一人の明子よ」
 もともと私はヨガなんてしたくなかった。祐一のために始めただけなのに、こうして、祐一を吸いそうになっているなんて、どうして、
「吸えばいいの。あなたは祐一君のママでも高岡さんの奥さんでもなくて、ただの久美でしょう」
「私は母親だし、妻よ!」
 明子は燃えるような目で私を見た。そして嗤った。
「家をスヌーピーで満たしたお前が何を言う」
「やめて明子」
「久美、久美」
「明子!」
「ヨガれ、すえー」
 長く尾を引くような明子の声が伸びる中で私は口を開いていた。祐一を吸おうとした。その瞬間に耳が裂けるような甲高い声が突き刺さった。
「ママ!」
 痛みに思わず身を引きはがすと祐一が涙を溜めた目で精一杯私を睨んでいた。おびえながら、子供の勇気を振り絞っているのだと思った。
 私は祐一の母親だった。
 ごめんね、ごめんと謝りながら抱き寄せた。子供は体が熱かった。そんなことさえ忘れていたようだった。
 明子が私達を見下ろしていた。
「やっぱりね。あなたも脱落した。がっかりなんてしない、私だけなのよ。誰もついてこられない。私は一人で行くわ」
 そうして明子は失踪した。


 そうして明子は一カ月後に帰ってきた。
「インドに全然スヌーピーいない! だまされた、あれ、ヨガじゃないわよ!」
 スヌーピーたちは夫が庭で燃やした。明子は園田さんの奥さん、健太君のママに戻った。子供たちは小学校に上がった。季節の変わり目のことだった。