OjohmbonX

創作のブログです。

名人伝

ファミチキをひとつ」
 コンビニの店員が顔を上げるといっこく堂がレジの前に立っていた。ちょうど彼が、世界中の腹話術師を相手にバトルを挑み続けては連戦連勝、残すは日本の五月みどりだけかと思われていた季節のことであった。彼は口も動かさず
ファミチキを、ひとつ」
と言い放って、ちょうどイヤフォンで聞くように頭の中全体で響いた声に驚いて店員が止まっていると、
「私です。あなたの脳に直接語りかけているのです」
いっこく堂の声が脳に響いた。口の動きと無関係に声を自在に出すという、腹話術を究めたかに見えたいっこく堂であったが、その境地すら突き抜けて、ついに声を出すことすら止めてしまった。そして直接人々の脳内に語りかけるようになったのだ。なおも停止したままの店員に対して突然、
「フ ァ ミ チ キ」
と頭が割れるほどの大音声で、教会の鐘を打ち鳴らすようにファミチキの言葉がたたき込まれてようやく、店員は頭を手で押さえて呻きながら何とかファミチキをケースから取り出しいっこく堂に売ると、彼は満足げな表情を浮かべて去っていった。
 それからいっこく堂は毎日ファミマを訪れては、店員の脳に直接語りかけてはファミチキを買っていった。いったい彼は腹話術を忘れてしまったのだろうか。人形すら手に取らず、世界中の名のある術師たちが彼とのバトルを、恐怖を根底に寝かしつつ心待ちにしているというのに。そして、日本の腹話術界は五月みどりの一人勝ちの様相を帯び始めたというのに、彼はまるで焦りも見せずに毎日ファミチキを買っている。
「フ ァ ミ チ キ」
 ある日いつものように声が響いて店員が顔を上げるがそこにいっこく堂の姿はなかった。そして今までは一人の店員だけが声を聞いていたのに、そのときは店内の全ての店員が頭を上げた。そして顔を見合わせた。困惑した顔をお互いに振り向けるばかりだったが、しばらく後ついに店長が決意して、ケースから取り出したファミチキを店の外の台に安置した。これが正しい応対かどうかは誰にも分からなかったが、いっこく堂がいないので仕方がない。
 数時間後に店員が様子を見に行くとファミチキは消え、代わりに代金が置かれていた。正解だったようだ。
 それから日に一度、姿も見せずに声が響いて、店員の応対は繰り返された。それはまるで供物の有り様だった。そのころ五月みどりは、人形の口を動かし、同時に自分の口も動かして喋るという、かろうじて声音を変えてはいるものの、腹話術の根源を廃棄する腹話術を披露して世の中を困惑させていた。それを腹話術と呼ぶべきか人々には分からなかったが、本人は腹話術という。それで腹話術なのだ。
 それからしだいしだいに、店員だけでなく客もいっこく堂の声を聞くようになった。客のみならず店の前の往来の人々にも響くようになった。近くにつながれた犬さえふと虚空を見上げた。神経を持たぬ草花さえ震えているようだった。しだいしだいに、言葉は言語の意味を失って、響きになった。店員はいつしか店外に置くのをやめた。やめた、と意思のあるやめ方ではなく、ただ自然なこととして、もはや必要がないこととして、外に商品を置くのをやめた。それでも無関係に日に一度、響いた。
 そのころ五月みどりは、腹話術で歌が歌えるようになったと誇らかにテレビに現れた。そして歌い始めたが、自身の口が動くのはもちろん、歌に気をとられて人形を動かすのを忘れてしまった。もはや五月みどりが普通に歌っているだけなのだ。それを見せられて人々は呆然としたが、本人は誇らしげなのでこれは腹話術なのだ。
 そして日に一度のいっこく堂の響きはいつの間にか止まっていた。しかし誰もそれに気づかなかった。いつの日に止まったのか判然としなかったけれど、正確にそれから八日目、再び響きはもたらされた。
「フ  ァ  ミ  チ  キ  ー 」
 世界中の生きとし生ける全ての者に響きはもたらされた。その瞬間、世界の全ての紛争が止まり、音という音が一切消え、完全な静粛の中にあって、世界の全てが、響きに浸された。それは声でさえなかった。言語ですらなかった。ただ、ふるえだった。世界を、静止させつつふるわせるという、矛盾しているような、相容れないこのふるえは、生命そのものであった。
 そして世界が一瞬後に再び動き始めた。何事もなかったかのように、けれど決定的な生まれ変わりを経て。


 この奇跡を無粋にもアメリカは軍事利用しようと日本のいっこく堂に接触をはかった。しかし当のいっこく堂はかつての仲間たちの人形を見せられてもまるで初めて見たような不思議そうな顔をするばかりであったし、ファミチキを渡されても
「ああ、これは、とても好きだよ」
と全然声が遅れもせず普通にしゃべって、とてもおいしそうににこにこしながらほお張るばかりだった。
 いっこく堂ではない、もはやただの玉城一石として彼はあるだけだった。いっこく堂は世界の死と再生に費やされて消滅し、一方腹話術の未来は五月みどりに託された。それでアメリカは手ぶらで帰るわけにもいかないので五月みどりを持って帰った。オバマはヒラリーからすごいどや顔で五月みどりを渡されて、ちょっと困った顔をして
「うん。」
と言った。それで、ヒラリーも我に返って、よく考えたら何で五月みどりをアメリカに連れてきちゃったのかよく分からなくなったので、みどりには日本に帰ってもらった。
 五月みどり、71歳。ちょっとしたアメリカ旅行である。