OjohmbonX

創作のブログです。

ニプレス リプレイ

 ヒートテックのニプレスをつければ乳首が燃えるように熱い。連動して勃起しているが、ダウンジャケットの裾で隠れており問題はない。だが電車の中で大声であえぎ、胸を揉みしだいているのは問題だ。なのに俺の両隣が席を立っただけで、乗客の誰も気にしないフリをし続けているのはやっぱ、日本ってすげえ。ユニクロもすげえ。
 土曜日の朝は人が少ない。だから揉んでいる。平日に揉んだらただの変態だ。車内に同じ高校のやつは部活組が数人いるだけだ。携帯を俺に向けてムービーか何かを撮ろうとしたやつがいた。殺す気合で睨みつけて仕舞わせた。ついでに全員睨みつけておいたからもう俺に目を向ける奴はいない。俺は安心して目を閉じ、揉みに専念した。
 隣に誰か座る感触を感じて、俺は電車の走行音をかき消すくらい大きく吼え、ちぎれるほど激しく胸を揉みながら、目を見開いて隣に向き直った。
「主将。お早うございます。」
 脅えたような表情を見せながら絶叫するように挨拶したのは、1年の竹内だった。
「ふぬぅ〜。誰が座っていいと言った。」
「すいません。」
 竹内は素早く立ち上がり、ふらつきながら俺の前に立った。こいつの顔を見ると腹が立つ。こいつは柔道を舐めている。主将の許可なく勝手に座る。平気で練習をサボる。他の部員に示しがつかないから絞めるのだが、それで部活を止めるわけじゃない。わけがわからない。
 こいつが休日の稽古に出るなんて初めてじゃないだろうか。
 そんなことはどうでも良い。俺は竹内を睨みつけながら一層激しく胸を揉んだ。山を震わせるつもりであえいだ。
 高校の最寄り駅に着いた。ドアが開いた。他の部活の奴らが降りて行く。ちらちら俺の方を伺いながら捌けていく。俺はまだ揉んでいる。竹内が何か言いたげな顔をする。ドアが閉まる。電車が軋みながら発車する。
「竹内。なんで おふっ降りない。おふっ。」
「主将が降りなかったんで……」
「俺が崖から飛び降りたらぃひー、ぃひーっお前も飛ぶのか?」
「そしたら俺が主将を止めます。」
 一瞬俺は手を止めるが、気を取り直して揉み始めた。しかし何か集中できない。何かが気に掛かっている。俺は竹内に聞いた。
「俺はいま何をしている?」
「いえ、何もしてません。」
「馬鹿野郎。怒鳴りつけたりしないからあんっあんっ。気にせず言ってみろ。」
「揉んでますね……」
「何をだ。」
「胸です。」
「だろう? んふっそれをさっき学校の奴らに見られたな。」
「はい。」
「俺の進路に影響すると思うか?」
「……わかりません。」
「俺は大学に行くぞ。学力でな。」
「はい……」
「ひゅうぅぅんっ」
 だが俺が気掛かりなのはそんなことではなかったらしい。まだ何かがわだかまっている。振り払うように揉み方をさらに荒々しくする。
「わっしょい。わっっ しょーい。」
「あの。」
「何だ。」
「俺、携帯かえたんですよ。」
「だからなだわっしょーいっ。」
「いえ。何でもありません。」
「わっ わっしょーい。」
 乗客もあらかた消えたというのに集中できない。苛立って電車を降りた。竹内がついてきた。無人駅だった。ホームのベンチに腰を降ろす。車内と同じようにその前に竹内が立つ。竹内の向こうに、民家の裏庭だろうが林が広がって黒々した枝の一本一本が異様にくっきり形が見え、その上で空が青かった。風が冷たい。もう胸を揉むのはやめた。ユニクロのニプレスと揉んでいたことは元から関係無いんだ。
「俺スマホにしたんです。」
「見せてみろ。」
 竹内のスマホを手にしてみたが、パスワードがかかっていて操作はできなかった。
「そういえばお前の携帯の番号聞いてなかったな。」
「いや、それはちょっと。」
 スマホを竹内に返した。
「結構がんばってバイトして買ったんです。」
「バイトより部活に来いよ。」
「はい。……行きましょうよ部活。」
「そうだな。」
 俺はシャツの裾から手を突き込み、ニプレスをむしり取ってホームに捨てた。背後から怒声がして振り返ると老人がこちらへ歩み寄ってきていた。憎しみを露にして俺を睨んでいた。肉が無く皮が余って皺が深い。今にもばらけて崩れそうな老人だった。憎しみだけで骨を繋ぎ止めている。
「貴様、こんなところへゴミを捨てやがって。高校生か。」
 俺は捨てた二つのニプレスを拾った。
「ニプレスです。乳首につけて使います。よろしければどうぞ。」
 老人にニプレスを渡すと同時に高校へ向かう電車が到着した。俺と竹内は老人を置いて電車に乗り込んだ。
「ホォオォオオッ!」
 ドア枠をくぐるときに嬌声を聞いた。視界の端で見た老人は身もだえしていた。燃えるように熱いのだろう。死ぬかもしれんなと思った。戦争を生き抜き、戦後を生き抜いた男もこんな死に方をするのは哀れだなと思った。
 たった2両の電車に他の客はいなかった。竹内が断りもなしに俺の隣に座ったが、気にもならずに放っておいた。向かいの窓の中で、膝から崩れ、涎や涙で顔中を濡らして天を仰ぐ老人が、ゆっくりと流れていった。老人を殺しては主将どころか高校生も続けられまい。取り返しのつかないことだった。


 竹内裕樹はもう1本電車を見送った。今からバイトに行くか部活に行くかまだ決めきれずにいた。この時点で決めるようなことではないと本人も分かっている。バイトのシフトも部活の予定も数週間も前から決まっていた。バッティングしていると分かっていながら、今の今まで放っておいた。悩んで選べないわけではなく悩んですらいない。ただ何となく今になっているだけだった。もうあと1本見送ればどちらも完全に間に合わなくなるなと思うと、そうしようかという気になった。発信履歴をもう15分も表示させたまま、まだ慣れないスマホをいじっている。フリックしてただ意味もなく上へ下へ履歴を流していただけだったのに、フリックし損ねてふいに押してしまい、どこかへ発信してしまう。それがバイトの後輩だったから、
「実は今日シフト入ってたんだけどね、部活と被ってんの忘れてて。悪いんだけどかわって。」と一方的に言って切った。
 相手が何か言いかける息をスピーカーの向こう側に聞きながら構わず切って、こうやって一つずつ嫌われていくんだろうなと思っていた。悲哀のようなものが広がるのを感じて全く無責任だと嫌悪感に塗れながら、目の前に止まった電車のドアを竹内はくぐった。
 この電車は高校前へ8時45分に着く。それから部室に向かい、着替えて柔道場へ行けば集合時間の9時には間に合う。しかし実は間に合っていない。1年は30分以上前に着いて正座で先輩を待つ決まりなのだ。だから竹内は、顧問の叱責を回避できるだけで、先輩に対してはもう遅刻している。こうやってまた、一つずつ嫌われていく。
 そんなことは分かっていながら2本も電車を見送ったのは、電車で他の1年部員に遭うのが億劫だったからだ。遭えばきっと、竹内が休日の部活に出るのは珍しいと思うだろう。しかし気遣いから口には出さずに当たり障りのない世間話をするだけだろう。それが竹内には億劫だった。口に出してくれれば茶化して弁明もできるのに、そうした機会は訪れない。だが気軽に口に出せる関係を築く努力をしなかったのは自分なのだとも分かっていたから、竹内は相手を恨むなどということもなくただ諦めていた。
 ふいに背中を冷たいものに撫でられるような感触を覚えた。
 誰もいないと信じきって乗った電車に谷部信一の姿を見たからだった。柔道部の新主将だった。1年は30分前に着いて2年と3年を待つ。2年は15分前に着いて3年を待つ。しかしその3年は先日の大会で引退したから、この時間に向かう部員はいない。竹内ははっきり計算したというよりおおよそそう考えていたが、3年が引退して最上級生となった2年はもはや先輩を待つ必要がなくなっているということに思い至っていなかった。まして主将は時間ぎりぎりに来れば良いし、ぎりぎりに来なければかえって他の部員をせかすことになる。この電車に谷部が乗っていることは自然だった。
 けれど不自然だったのは、谷部が喚きながら胸を揉みしだいていることだった。竹内は困惑した。よく見れば谷部は目をつむっていた。それで竹内はふと、知らない振りして隣の車両に移ろうかと考えたが、どの道駅で降りればたった2両しかないのだからばれるに決まっていると思い直した。竹内は谷部にゆっくり近づいて行く。何の勝算もない。
 ああ、揉んでいる……
 電車の揺れに耐えながら、腰を落としてゆっくり、ゆっくり谷部の隣に腰を下ろす。クッションの沈み込みが伝わって、谷部が気付く。稽古で潰れた分厚い耳がかすかに震える。首の筋肉が漲ってゆく。顔が振り向けられる。機械のように連動してまぶたが開かれる。一重の重たげなまぶたの奥の視線が定まらぬうちに竹内は口を開く。
(しゅ)
 声にならずに息が止まる。谷部の黒目が下りてくる。もう一度竹内は決意する。
「主将。」
 ほとんど溜め息のようだが今度は何とか声になる。谷部の視線が竹内に定まる。何の表情もない。竹内は残った息に全てを込めて絶叫する。
「お早うございます。」
 突然の叫びに乗客がみな注視する。竹内はそれを気にする余裕を持たない。完璧に上手くいった、これで大丈夫だという確信が竹内にはあった。上級生に挨拶をして1年部員の振る舞いを正しく果たせたと思った。谷部の細い目の奥からは無表情のままの視線が注がれ続けている。まだ激しく胸を揉み続けている。経過時間が確信に疑いを加えて不安にさせてゆく。
「ふぬぅ〜。」
 竹内は蒼白になる。
「誰が座っていいと言った。」
 慌てて立ち上がりながら、自分でもどうして隣になんて座ったんだろうと困惑している。吊り革に掴まって谷部の前に立つ。谷部に凝視されて竹内はそれをまともに見返せない。視線を泳がせていると谷部の股間の膨らみに気付いた。ジャージの生地を不自然に押し上げている。足を広げて座っているせいで、ダウンジャケットの裾の間から丸見えになっている。
 竹内は自分の陰で誰からもそれが見えないようにさりげなく立ち位置を調整した。そうした努力と無関係に谷部は、竹内の全力の挨拶を上回る大声で喘ぎながら胸を揉み続けていた。相変わらず竹内を凝視していた。駅に着いて乗客の位置が変わるたびに竹内はわずかに立ち位置を調整する作業に集中した。
「竹内。なんで おふっ降りない。おふっ。」
 そう言われて初めて今過ぎた駅が学校前だったと気付いた。
「主将が降りなかったんで……」
 こんな勃起を露にさせたまま離れていいのか、という反発心が、相手の側に責任を押し付けるような発言をさせた。竹内はすぐに気付いて失策を表情に示すが、谷部の表情は変わらない。
「俺が崖から飛び降りたらぃひー」
 ふいに気が遠くなるような感覚を竹内は覚えた。
「ぃひーっお前も飛ぶのか?」
 ホームに並んで電車を待っている。列の先頭が主将だ。その後ろに俺が立っている。主将は後ろに俺が並んでいるとは気付いていない。ありもしない話題を虚しく必死に探しながら電車待ちの時間を耐えるのが気詰まりで、バレないように後ろに立っている。
 電車の姿がホームの先に見える。尋常の速さで主将が歩き始める。まだ前へ進むには早過ぎる。主将の左足の裏がホームの端を捉える。
「そしたら」
 主将の黒いダウンジャケットの袖を掴む。もう主将の体はホームの端を越えた。主将が振り返る。落下してゆく。重みに引きずられて俺も沈んでいく。電車の平らな先端が肩や二の腕にもう触れている。頭の中をいっぱいに満たして電車の警笛が鳴っている。主将は無表情のまま俺を見ている。支えもないのに空間に固定された俺や主将の身体が、電車の面に潰されていく。
「俺が主将を止めます。」
 自分の口をついて出た言葉に当惑しながら、実際自分が主将を止めるなんてできないだろうなと竹内は思った。一瞬谷部の手が止まるのを竹内は見た。再開された乳揉みは、元の責め立てるような厳しさがいくらか抜けているように竹内には見えた。
「俺はいま何をしている?」
「いえ、何もしてません。」
 本当の揉みではい、これはもう嘘の揉みだと思っていたから、急に問われて思わずそう答えていた。しかし竹内自身にそんな自覚はなく、気を遣わずに正直に言えと谷部に促されると、自分は気を遣って嘘をついたという気になっていた。
「揉んでますね……」
「何をだ。」
「胸です。」
「だろう?」
 他人を利用して自分を確かめている、外側から規定せずにはいられない他人の弱さを見てしまった居心地の悪さから、確信も持てないくらいならもうやめてしまえという苛立ちへ至る。谷部に答えるうちに急に増した竹内の、何か嫌だなという気分をあえて暴けばそうしたものだった。
「俺は大学に行くぞ。学力でな。」
 柔道で何の実績もない谷部に声がかかる可能性などない。学力でも柔道でもなければ、胸を揉んで大学に行くとでも言うのかと思って竹内は、途方もないような気になった。乳揉んで、大学へ……。あえてそうではないと否定せざるを得ないような、余裕のなさに追い立てられているのだろうか。
 もう忘我ではない。意地か義務感から揉んでいるように見える。それで股間を無理やり膨らませている。竹内はいたたまれないような気になった。
 何の気なしにポケットにいれた右手の指先に触れたスマホをぎゅっと握った。このいたたまれなさを何かで紛らせて少しでも薄めたいと感じていた。
「俺、携帯かえたんですよ。」
「だからなだわっしょーいっ。」
「いえ。何でもありません。」
 握ったスマホをポケットの中で手放して、ポケットから手だけを抜いた。
「わっ わっしょーい。」
 減速が始まって体が傾く。そんな程度のことにすら谷部は集中を乱されるようだった。駅に着くと谷部は手を止め当たり前のような足取りで電車を降りた。竹内も当たり前のようにそれに付き従った。ホームのベンチに谷部が腰掛け、その前に竹内が立った。もうジャージの布地が膨らんでいないことに竹内は気付いた。駅がちょっとした崖のへりにあり、谷部の背後は開けていた。遠くに海が広がっていた。海岸近くから沖へ青さが黒に向かい、空との境目で輪郭のように黒さが極まっている。空は底の無い青さで天頂に向かってやはり暗さを増していた。海面はきれぎれに金属のように光を白く反射させていた。
 風は弱い。しかしかすかに空気が流れるだけで寒さが突くような痛みになって露出した肌を苛んでいた。耐え兼ねて竹内はポケットに手を入れた。
 指先にスマホが触れた。
「俺スマホにしたんです。」
 迷わずスマホを握って引き出した。
「見せてみろ。」
 伸びてきた谷部の右手を見て、竹内は組み手争いの気に一瞬だけ陥った。この手が襟を掴む。もう逃れられずに引かれる。背丈はほんの少し自分の方が高いというのに、差し出したスマホを受け取った谷部のその手が、自分よりはるかに大きいことを、陋劣なことのように思った。
 谷部はサイドのボタンを押し、表面を少しなぞった。家電量販店の売り場で買う気も無く触れる手つきに似ていた。
「そういえばお前の携帯の番号聞いてなかったな。」
「いや、それはちょっと。」
 スマホを返す谷部の手と、受け取る自分の手を改めて比べ直して、竹内は驚いた。特別手が大きい訳では無かった。手のひらが厚く、指が太いだけで、手の広さは変わりない。手渡されたスマホをポケットに戻した。するりとポケットに落とした時の重みに竹内はまだ慣れていない。
「結構がんばってバイトして買ったんです。」
「バイトより部活に来いよ。」
「はい。」
 竹内は素直にそう言えた。自分が思っていたよりずっと、フェアなのかもしれない。練習であんな手を得られるかどうかは知らないけれど、あと2年かけて試してみてもいいかもしれないという気になっていた。
「行きましょうよ部活。」
「そうだな。」
 谷部はシャツの裾から手を突き込み、ニプレスをむしり取ってホームに捨てた。怒声を上げて歩み寄ってくる老人が見えた。谷部がそちらへ振り返る。老人は憎しみを露にして谷部を睨んでいた。肉が無く皮が余って皺が深い。今にもばらけて崩れそうな老人だった。憎しみだけで骨を繋ぎ止めている。
「貴様、こんなところへゴミを捨てやがって。高校生か。」
 谷部が相手の顔に視線を外さず、異様な緩慢さで腰をかがめ、捨てられた二つのニプレスを拾うのを竹内は後ろから眺めていた。背丈は老人も谷部もさして変わりない。しかし堅く肉厚な若い谷部がこの老人と差し向かうのを見ると、「変わりない」という言い草があまりに印象と遠く離れたもののように思われて仕方が無かった。殺すのではないだろうかと漠然と思った。谷部は音も立てずに手を老人に突き出した。
「ニプレスです。乳首につけて使います。よろしければどうぞ。」
 老人の黒い枝のような手が谷部の手に伸びる。竹内は右足を踏み出しつつ谷部の身体の前に回し込み、二人の間に割り込むように自身の体を滑り込ませた。老人の手を待ち受けて弛緩している厚い谷部の手の中に指をさし入れ、開くように中のニプレスをつかみ取った。
「すみません。ちゃんと捨てますんで。」
 高校へ向かう電車が到着した。竹内は谷部を促して電車に乗り込んだ。ドア枠をくぐるとき竹内は、さりげなく二つのニプレスを電車とホームの間に落とした。ニプレスは暗い隙間に飲まれた。体の陰で捨てて老人には気付かれていない。たった2両の電車に他の客はいなかった。ホームに背を向ける形で谷部はベンチシートの真ん中へ座った。竹内はその前に立ち、向かいの窓の中で、枯れ枝ほどにも生気なくただ黒く細くホームに立って、何も映さない濁った目をだらしなく剥いた老人が、ゆっくりと流れていくのを見ていた。
「ありがとな。」
 何か言われて視線を落とすと谷部が、自分の言ったことにまるで納得していないといった妙な顔で竹内を見上げていた。竹内も何を言われたのか分からずに照れ笑いにも満たない、ただ口の端を歪ませただけの妙な顔をしていた。そんな顔を見合わせて二人は同時に噴き出し、掛け値なしに笑った。電車は街中へと進んでゆき、乗客は次第に増えていった。