OjohmbonX

創作のブログです。

リメイク 樋口一葉「わかれ道」

【上】
 ピンポーン。ピポピポピポピポーンと夜の10時にアパートのチャイムを連打されて立ち上がり、いそいそと玄関に向かう女は麻衣、今年22歳のボリュームのある髪を上にまとめてメイクも落とした素顔の美貌もスウェット姿が台無しで、もう今日は寝ちゃったよ。また明日にしてくださーいとドア越しに言えば、健太だけど。麻衣さん寝てたっていいからあけてよと声が返ってくる。こんな時間に常識ないんじゃないですかと皮肉っぽく言う麻衣の声音はあくまでやさしく、笑いながらドアの鍵を開ければ健太はするりと麻衣の脇をすりぬけて勝手に部屋に上がってしまう。
 16歳ながら肩幅狭く顔小さく、目鼻立ちはきりりとして整えずとも生まれながらに眉は細く黒髪短髪、ただ背の低さが11、2歳に見せてバイト先のやつらにちび太などと呼ばれる始末、ダッフルコートを脱げば学生服でこたつに入り、ポテチの袋を開けてもう食べている。
 健太の向かいに麻衣も座って、レポートの締め切りが明日なの。今夜中に仕上げなきゃとノートパソコンをかたかた打ち続ければ、おれがかわりに書いてあげようかとおどけて言う。バカ言わないでよ。こんなバカな大学のバカなレポートなんて書いたら呪われて、健ちゃんもバカな大学にしか行けないよ。健太は麻衣の背中にあるテレビにリモコンを向けながら、おれ大学なんて行かないよ。
 あのさ。前言ってたよね。麻衣さんいつかおれにスーツ買ってくれるって。そりゃああんたが大学の入学式か会社の入社式になればいるでしょ、だからお祝いに買ってあげたいけど私がやばいよ。4年の冬なのに就職きまってないんだよ、いつ買ってあげられるかわかんないよとキーボードの手を止め健太の顔をながめて麻衣が言えば、何も今すぐじゃないよ、余裕があるときでいいんだ。今はそう思わしといて喜ばせといてくれれば。おれなんかがスーツ着たって似合いもしないけどねと寂しげに笑う。
 じゃあ健ちゃんが出世したときの約束もしてほしいな、不公平だもんとパソコンからはもう両手を離してこたつの中に入れ、微笑しながら麻衣が言えば、そんな約束はできないよ。だって出世とか成功とかしないし。どうして? どうしても。こうやってバイトしていつの間にかおっさんになってレジの金こっそり盗んでバックれてパチンコで数万儲けるくらいでしょ、おれの成功とか。
 でも麻衣さんはさ。ちゃんとした人だもん、そのうちすっごいいいことが自然にあるよ。最高の運が馬にのって迎えにくるんだよ。えっへへ? なにそれ? そんな気がする。いい会社に入るとか仕事で成功するとか宝くじが当たるとか、いいダンナさんと結婚するとか……見てもいないテレビを見つめて健太はくるくるとチャンネルを意味もなく変え続ける。そうだね。カレーに毒を入れるとか布団を叩きながら大声で隣人に引っ越しを迫るとか? 茶化す言葉をあたたかい部屋の空気に溶かして麻衣は健太の顔を見守るばかり。


 麻衣さんは食べないのと袋の口を向けても、ううんもう歯も磨いちゃったしと断られれば健太はまたポリポリポテチを食べはじめる。もとより健太のために買いためた菓子、麻衣は構わず健太も有り難がるそぶりも見せず当たり前みたいに食べている。マジでさ。まともなやつがいないよあのバイト。施設で紹介されてあそこ以外許してくんないから我慢してるけど、そうじゃなかったらとっくに別んとこに変えてるし。とりあえずケータイ買うまで金貯めないと高校で俺だけだもん持ってないのとか。でチーフの半田が最悪。自分でやらないくせに細かいことばっかりグチグチ嫌みな言い方でさ、バイト歴いちばん長くて所長に気に入られてるだけだもんあんなの上司とか思わないし。ムカつくから言い負かしてやるんだけどざまあみろと思うと、指についたポテチの粉をぺろりと舐める。
 麻衣さんってなんか他人って感じしないんだよね。麻衣さんは弟とかいないの。いないよ一人っ子だもん弟も妹もいないよ。そうだよなあーでも麻衣さんみたいな人がほんとのおれの姉さんだったらとか思ったりするんだよね。だったらいいのに誰もいないんだもん親戚とか家族とか。やっぱいろいろ考えたりするわけ。どうせ一生誰にも会えないんだったら今のうちに死んじゃった方がいんじゃねーとか思うけど、でも、急に変な夢とか見るんだよね。優しくしてくれる人がほんとは自分の親とか姉さんとか兄さんとかだったりしてって。もう少し生きてれば誰かほんとのこと話してくれるのかもとか変な欲が出てくるからおかしいね。母親も父親もなんにもわかんないんだよ? 親無しで生まれてきたなんて不思議だよと食い終えたポテチの袋を口にあてて仰向けばさらさらとカスを食べる。
 だけどお守りの袋とかないの。そういう証拠みたいのよくあるじゃないと麻衣が言うのをさえぎって、何にもないよ。バイト先とか高校のやつとかでさ、お前コインロッカーに捨てられてたんじゃないとかトイレで捨てられてたんじゃないとか言うやついるわけ。ムカつくけどやっぱそうなのかなあって思ったりするときある。そしたら俺はなんだろ。女のホームレスの子供? 処分に困って捨てちゃった女子高生の子供とか? 誰も教えてくんないんだよ。そんなにひどかったってこと? 駅にいるじゃん。あのおばさんのホームレス。どんだけ人通り多くてもいっつもいてさ、よく警察や市役所の人にどくように言われて。ひどいよ。いいじゃないか、屋根があるところにいさせてあげようよ、だって、あの人が、おれのお母さんかもしれないんだよ? でももしそうだったら、もしおれがあんな汚いおばさんの子供だったら麻衣さん、もうおれのこと今までみたいに家にあげてくれないよね。
 なんでそんなバカなこと言うの。あんたがどんな人の子とかどんな生まれかとか知らないけどそんなこと関係ない、どうしてそんなダサいこと言うの親とか兄弟とか関係なく自分の力で成功したらいいじゃんと励ませば、おれなんてダメだよ。何にもしようと思わないとうつむいて顔も見せない。



【中】
 女子プロレスラー並みの体躯を備えた老婆、今は亡きデブ松先生と呼ばれた施設長がいた。新生児で捨てられて乳児院に入れられたはいいが里親委託も養子縁組もなく3歳をむかえ、児童養護施設への措置変更の時期をちょうど空きがなく逃してずるずる4歳、5歳と小学校入学の期限が近づくに及んでますますどの施設もいわくつきと嫌って手をあげずにいたのを6歳の冬にさっぱり無視して引き取って、そのおい立ちを自分のせいと思い込んで怯えきった幼い健太に岩ほどの顔を寄せてガハハハハ大笑い。
 お前が悪いわけじゃないぞ、誰が悪いわけでもないぞ、心配することなんてない、遠慮する必要なんてない。このデブ松先生がついてるぞハハハ。ふつうの家と違うといって、同級生になに言われたところで関係ないぞ、お父さんお母さんいなくて何だ。ほんとのお母さんいたって悪いやつだっているんだ、心がけだからな、しっかりやっていくんだぞと言い含め、周りの大人にはこの子はかしこい子だぞと吹いてまわっていたものが、さしたる勉強もせず地域で3番の高校に入り、施設の紹介で始めたガソリンスタンドのバイトは洗車オイル交換鼻歌交じりに大人三人分を売って客から預かった車はどんな車種もたちまち乗りこなす腕を見るにつけ、さすがに人を見る目が違うと大人たち亡き老婆を褒める。


 その恩人も2年目に亡くなり男の施設長に変わって徹底した平等主義をしけば子供たち一人一人の違いを無視して現実に引き起こしたのは不平等、そんな歪みを心に取り込んで子供のあいだにヒエラルキーが立ち上がり、序列の上位は両親がはっきりしている子、中でも最上位がそのうち親の迎えが来る子ども、親が分からない子らは下位で、中でも捨て子が最下位だから健太の肩身は狭くなる。折りにつけ口で勝てぬ腹いせに親の知らなさを他の子になじられれば健太返す口もなく相手を叩くより仕方なく、すぐに手を上げる乱暴者の注意者と烙印を押されて施設長はじめ職員たち学校の先生たち大人たち、施設の子供や同級生にも疎まれれば寄るべなく、心細さに二段ベッドの上へ隠れて仰向けに、天井をじっと見つめる大きな目から涙あふれ、仮にも優しげな言葉をかける人があればしがみついても離れがたい。
 麻衣は今年の春に大学の実習で施設を訪れた人だが、実習が終わったあともたびたび遊びにきては、うちにも遊びにきてよ、家が近いんだよね、一人暮らしで寂しいし私もこんな雑な性格だから健ちゃんみたいな乱暴者だって好きだよ、施設の子のお話を聞ければちょうど卒研の材料にもなって私にとっても得なんだからと言われていつのまにか気安く麻衣さん麻衣さんと入り浸るのを年長のやつらにからかわれ、小さいからどこへでも入り込む、ゴキブリみたいだと笑われれば、悔しかったら真似てみろ、他人のお姉さんの家に行って今日は何の菓子がいくつあるかまで知ってるのはおれくらい、うちのハゲ、職員のくせに実習生に色目使って今でも麻衣さんに大学の勉強はどうだの卒研が進んでるだの聞くくせにいい顔なんてしてもらえないじゃんか、なのに夜中でも部屋着のままでドア開けて、今日は遅かったねどうかしたのかなと心配してたよって入れてもらえるのはおれだけ、悪いけどでかくたって恐竜みたいに滅ぶわけ、人間が滅んでも生き残るのはゴキブリだからなどと生意気な口をきかれて年長者たち、目立つ顔は避けて背中をめった打ちにしても、どうもありがとうございますとすまし顔で行ってしまう健太にどうせちび太だしどーでもいいわと嘲って終わり。



【下】
 大晦日の夜、バイトをあがって寒い水にすりきれた手をダッフルコートのポケットにつっこんで急ぎ足、爪先にあたる小石はふざけて蹴返し、ころころ転がれば右に左に追いかけて側溝に蹴落としては一人からから高笑い、暗くまばらな街灯の、青白い光を浴びても寒さも知らずただ心地よくさわやかで、帰りは例のアパートに寄ってと一人心づもりで角を曲がると、いきなり後ろから近づいてくる人にひんやりした手で目をおおわれて、誰だ誰だと指をなぞってなんだ麻衣さんか脅かしたってだめだよと振り返れば、なんだ当てられちゃったムカつくーと笑い出す。
 麻衣は腕の絞ったベージュの滑らかなコートの膝丈の裾から黒いタイツの脚が伸びブラウンの革のブーツを履いていつもとは違う優美ないでたち、健太は見上げ見下ろしてどこへ行ってたの、今年中に仕上げたいレポートがあるとかで年内は缶詰だとか言ってたのにと不審がるものの、麻衣はどこか浮き足だったように、新春限定の福袋を先回りして買いにねなんて冗談で返す。嘘ばっかり。年末に売る福袋なんてない。誰かに会いにいってきたの? あのね、私明日あのアパート引っ越すよ。いきなりでびっくりしたでしょ、私も突然だからまだ信じらんない。でもま、悪い話じゃないから喜んでよと言う麻衣に、本当? と問い返す声はかすれて届かない。青白い蛍光灯の光を顔面いっぱいに浴びてそれ以上に石のように無機質な白さを帯びながらかすかに頭を振って、そういう嘘なら言ってくれなくていいし。
 嘘じゃないよ、前言ってたじゃん、最高の運が馬にのって迎えにくるとかなんとか。あれがきたんだよ。健ちゃんそのうちスーツもプレゼントしてあげられるよと言えば、いい、そんなの貰いたくない。おととい原が、高3の、うちの施設の、あいつがなんか、これ麻衣さんじゃねーのとか無理矢理見せてきて、スマホでソープのサイトのやつ。女の人の一覧みたいなページで、口元までしか写真が載ってないし、ぜんぜん似てないし違うわって突き返すのに、ぜってーそうとか言ってまた無理矢理見せてくる。
 こういうのって、店のオーナーがAV業界ともつながっててスカウトとかもされるらしいし。麻衣さんってかなり美人だしマジでそうなったらAV借りてきてやるから。そしたら顔もはっきりわかるだろとかにやにや原が言ってきてマジで頭にきたからガチ喧嘩して。そんなわけないよね? と次第に顔に血色を取り戻して真っ赤になって問い詰められて、そりゃあ私だって行きたくて行くわけじゃないし。でも明日からもう会社の寮に移って、新年のネットの生中継に出演するとか言われてしょうがない。健ちゃんにももう会えなくなるとしょんぼりして聞こえるから、だったら! だったらやめたらいいじゃん、そんなとこ行くの! 大学出たらちゃんとした就職先だって見つかるんでしょ、なんでそんなんでお金もらおうとすんの、と、やめなよやめなよ今から断ればいいじゃんと言いつのるから困ったねと麻衣は立ち止まり、それでも健ちゃん、私もう飽きちゃったよ。もうAVでも何でもいい、どうせこんなつまんないことだらけならいっそ真っ裸で生きてこうと思ってなんて自分でもびっくりするくらい思いきったことを言うから思わずアハハなどと声をあげて笑う。
 ともかく寒いし家に行こうよ健ちゃんも少し急ぎなよと言われてなんか俺マジでなんか、まあ先行きなよとあとについて、濡れたように黒く光るアスファルトに長く伸びる影を心細げに踏んでいく。いつのまにかアパートにつけば階段を上りながら、毎晩きてくれてたのに明日の夜はもう健ちゃんの声も聞けないんだなって思うとおかしな感じするね、やっぱさみしいな。世の中っていやなもんだねとため息をつく麻衣の後ろで、そんなのあんたの気持ち次第でしょと小さな声で一人言。


 家に入って部屋の明かりをつけてこたつのスイッチを入れ、健ちゃん入りなよと麻衣が声をかけても俺はいやだと部屋の入り口に立ったまま、でもそれじゃ寒いよ風邪ひくよと心配しても、ひいてもいいよ放っておいてよとうつむくばかりでポテチの山からひとふくろ、麻衣が開けても黙って首を振る。さっきからなんなの。なんか私のこと怒ってんの。それならそう言ってよ黙ってそんなとこ立ってられたら気になるじゃんと言えば、気になんてしてくれなくていいしと寄りかかった柱に背中をこすりながら、マジでおれ、なんていうんだろ、いろんな人がちょっとよくしてくれたりしてもすぐダメになっちゃう。デブ松先生もすげえいい人だったし、中学んときの絹沢先生、女の教生の先生もさ、可愛がってくれたりしたけどデブ松先生はガンで死んじゃうし絹沢先生は実習終わってそれっきりだしあんたはそうやって平気で人のこと見捨てて行っちゃうし。高校なんて行ったって大学行くわけじゃないし、施設長のお気に入りになんなきゃ進学する金出してもらえねえんだもん、じゃあガソリンスタンドで気合い入れて働いたって意味ないし時給上がるわけじゃないし。ずーっとちび太ちび太言われても今さらもう一生身長なんか伸びるかよ、止まない雨はないとか言うけど一日一日いやなことばっかり降ってくる、一昨日原のやつと大喧嘩して、でもやっぱ気になるじゃんか、ちゃんと自分で調べたいと思ってもおれスマホとか持ってねーしうちのパソコン制限かかっててそういうサイト見れないしどうしようもなくて原にスマホ貸してくれって頼んだわけ。は? って。いや、さっきの、麻衣さんじゃないに決まってると思うけど、もうちょっと確かめようと思ってつったら原がすげえにたにた笑いながらほら、お前だって疑ってんだろとか言うからガチでタコ殴りにしてやろうかと思ったけど頭下げて借りたわけ。部屋に戻って店のサイトのまことって人の写真もっぺん見てもやっぱ違う気がする、いやでも麻衣さんにもちょっと似てるかな、ううんとか悩んで店の名前でググったら2ちゃんの風俗板出てきて評判書いてあるわけ。たまにしか店に入ってないとか書いてあってなんかちょっとほっとしたり、なんか大学生らしいよ。就職決まってなくてしんどいとか言ってたってやっぱ麻衣さんなのかなと思ったり、けっこう美人だけど鼻にかけてるとこあるよねとかは、麻衣さんはそんな性格じゃないだろとか、なんかマジで……読むのしんどかったけどずっと最後まで読んで、うん、やっぱこのまこととかいう人、麻衣さんじゃないわと判断してさ、やっぱ違うわつって原にスマホ返したわけ。ふーんって別にどうでもいいわって原もつまんなそうに言うから勝ったって思ったんだけど。そしたらこれでしょ。一週間も経ってないのに原のやつにおれが間違ってましたって頭下げるわけ? おれがほんとの姉さん以上の姉さんだと思ってた人がソープ嬢のまことでした、今度AVデビューします、よろしくお願いしますって? もういいよ。もう絶対に会わない一生。長々とお世話になりました。ここからお礼を申し上げます。もう誰のこともあてにしない。さよなら。
 玄関の靴ぬぎの、ぼろぼろのスニーカーに足をつっかけるのを、ねえ健ちゃんそれは勘違いだよ。別に引っ越したってあんたを見捨てるってわけじゃないでしょ。本当の弟みたいに思ってるのは変わんないよ。私の仕事なんて関係ないじゃん。そんな冷たい言い方ひどくない? と後ろから羽交いじめに抱き止めて、気が早い子だねと麻衣がさとせば、だったら明日行くのもやめて今の仕事もやめなよと振り返られて、私だって好きで行くわけじゃないけど、もうあきらめて決めたんだもん、それは無理だよと言うのに健太は涙の目に見つめて、麻衣さん一生のお願いだからこの肩の手を離してよ。