OjohmbonX

創作のブログです。

171×59×19

[ 1 ]

 高画質になるのも考えもんだなと思いながら、酒井は右手を思いきり伸ばしてスマホで自撮りを繰り返す。ベストショットを小さくリサイズし、トイカメラ風に軽く加工して一度は納得したものの、思い止まって加工した画像を削除する。ちょうどその瞬間にメールを受信する。
「カズっていいます。掲示板見てメールしました。よかったら返事ください168.55.19」
 酒井は返信ボタンを押し、本文に「がぞ」と入力する。変換候補の一番目に「画像交換できますか?」と辞書登録された文章が表示される。それを選んで送信する。ベッドに寝転んで落ち着かない気分で待っていると、ほどなくしてまたメールを受信する。
「こんな感じです」
 添付された写真を見て酒井は、勝ったと思った。「俺はこんなです」と先ほど撮影した未加工のベストショットを添付して送信する。
 自分の顔写真を酒井は見返す。朝から3時間も費やした中でのベストだとしても、納得はいっていない。以前のガラケーは解像度が低く、圧縮もきつくて画質の悪い写真しか撮れなかった。それに樽型のディストーションがかかるせいで腕をめいっぱい伸ばした程度の距離では顔がふくらんで映った。当時はそうしたカメラの劣悪さに悩まされたものだったが、今美しく正確に撮れるスマホのカメラを使うようになってあれが正しかったのだと酒井は思う。出会い系で使うにはあれくらいがちょうど良かったのだ。スマホに買い換えてまだ1ヶ月だった。


 写真を眺めているだけで18分が経ちようやく返信が入る。
「かっこいいですね!えーと、OKですか?」
 よっしゃと小さく呟いて酒井は、スマホを見ながらニヤついている。10分は待とう。すぐに返事をしたら効果がうすい。
 相手の顔写真をもう一度表示させる。手入れされていない伸び放題のまつ毛、整髪料で整えられていない短髪。レンズを覗き込むように大写しの顔。「よく真面目そうって言われるんですよ。そうでもないんですけどね(汗)」といった文面が似合いそうな雰囲気だ。こいつは自分を魅せる努力も意識も足りていないと酒井は思う。こいつが今、俺とのセックスを期待しながら待っている。なかなかこない俺からの返事に焦りながら待っているのかと想像すると酒井の気は昂ぶってくる。そして10分が経つ。酒井は返信する。
「ちょっとタイプではないみたいです。ごめんなさい(><)」
 心拍数が上がる。緊張感に似た高揚にたまらず酒井は笑い出す。

[ 2 ]

 ゲイ向けの出会い系掲示板でセックス相手を募集しながら、わざとフる作業を酒井は繰り返している。酒井自身はゲイではないし誰とも会うつもりもない。今日は大学に行く気もなくして、もう3、4人でこの遊びをするつもりでいる。メールが入ったまま放置していた人がちょうど3人いる。
 1人は宛先に見覚えがある気がした。念のため過去のメールをアドレスで検索すると、以前にやり取りをしたことのある人だった。
「165*50*19のウケです。まだ募集中ですか」
と書かれている。以前のメールには「164*55*22」と書かれている。3か月足らずで身長が1センチ伸び、体重が5kg減り、歳が3つも若くなるんだ、と酒井は嘲う。同じ相手をもう一度いたぶっても良いかなと思うものの、ひやかしとバレて復讐のつもりで拡散されるのも面倒なのでこの相手はパスすることに決め、酒井は次のメールを確認する。
「どこ住みですかあO(≧∇≦)O」
 頭の足りないやつだと酒井は不快そうに顔を歪める。掲示板には地域を書いておいたのに読んでいない。それにプロフィールも書いてこないなんて、本気でセックスの相手を探す気があるのだろうかと酒井は苛立ったが、別にどうせフるんだし関係ないと気を取り直し、
「返事おそくなってごめんなさい(><)まだ大丈夫ですか??」
と返す。もう1人は
「はじめまして!1716624のリバです。返事もらえるとうれしいな」
という真っ当な文面だったが、少し太っているような気がして電卓のアプリを立ち上げ、66÷1.71÷1.71=22.57104……とBMIを算出してみる。別にこれで太っているわけではないのかと意外に思う。しかしこの世界ではこの程度でややポチャと言われるのだと酒井は少し同情するが、どのみち自分には関係ない。そして
「返事おそくなってごめんなさい(><)まだ大丈夫ですか??」
と全く同じ文面で返信する。
 ベッドに仰向けに寝てぼんやり天井を見ていると、隣の弟の部屋から音楽がかすかに流れてくる。高校が創立記念日で休みだと言っていたのを思い出す。それから開けた窓から遠くで車が走る音や人の声が細かいざらつきになって部屋に流れ込んでいる。ベッドから手を伸ばして、床に置いたままのペットボトルを手に取って、炭酸が抜けきったぬるいジンジャーエールを一口飲む。学校も休んでこんなことをして、馬鹿みたいだと酒井は思う。

[ 3 ]

 今朝のベストショットを酒井はまた見直す。冷静に、努めて客観的にあらためて見ても、自分の顔は悪くないように思える。唖然とするほどのイケメンというわけでは全くないが、顔のつくりもそれなりに整っているし、肌も荒れていない。髪型も服装も過度におしゃれでもなく清潔感を出している。高校生の時に女の子と数ヶ月付き合ったこともある。性格も頭も極端に悪いわけでもない。
 それだから大学生になれば、自然に誰かと付き合ったりするんだろうと酒井は考えていた。同じ講義に出ている人、同じサークルの人、友達に紹介された人、バイト先の人、そんな風に出会った何人かの女の子の中でお互い気が合って、自然に付き合いが発展していくのだろうと考えていたが現実にはそうならなかった。酒井にはその原因がよくわからなかったが、とにかく知り合う人数を増やすべきだと考えた。
 大学1年の秋口、酒井は男女の出会い系サイトを利用し始めた。ネットで評判がよさそうなところに入会した。プロフィールを丁寧に書いた途端、サイト上のメールシステムに数人の女性からメッセージが入った。メッセージを交換するのに入金が必要だった。ネットで攻略法を勉強したりして「サクラ」が多いことも知っていたから、上手く「本物」を探してメッセージのやり取りをした。面倒なやり取りのあと、ようやく会えそうになったところで、いつもはぐらかされた。嫌になってやめた後で、酒井は自分が相手にしていたのは全てサクラだったのだと気づいた。結局、性欲に目がくらんで利用され、金を払わされただけだという当たり前のことに、1ヶ月も費やしてようやく理解した。


 スマホがメールの着信を知らせる。
「どこ住みですかあO(≧∇≦)O」
 さっきの相手からの返事だ。全く同じ文面を送りつけてきた相手に、頭がおかしいのではないかと酒井は薄気味悪くなる。しかし例えば酒井の祖母は文意が全くわからない、日本語の崩壊したメールをときどき送りつけてくるが、実際に話してみれば普通だ。メールがめちゃくちゃだからといって異常者とも限らないと思い直して返事を書く。
「河亦市内からです!足なしです(><) えーと、画像の交換できますか??」
 俺に足がないかどうか、車を持っていないかどうかなんて、どうせ断るんだから関係ないけどねと酒井はまた思いながらも、その方がリアルだからと書き加える。

[ 4 ]

 出会い系サイトで上手くいかなかった後、酒井はふと、ひょっとして自分は見た目がよくないのではないかと思い始めた。仮説が立ってしまえば実証せずにはいられず、あれこれ悩んだ末に結局、男性の同性愛者向けの出会い系掲示板にたどり着いた。そこは一切の面倒なやり取り抜きで、美醜を日常的に審査する世界だった。具体的なプレイの希望で溢れかえっていて最初は気分を悪くした酒井だったがすぐに慣れた。
 はじめに顔写真を貼るタイプの掲示板に載せた。誰でも見られるところに自分の写真を貼るのはかなりためらわれたが、確認したい欲求が様々な言い訳を用意して酒井の背中を押し続けた。もし誰か知り合いに見つかっても、勝手にFacebookの写真を使われたとでも言えばいい。せめて北海道地域用の掲示板に載せれば知り合いに見つかることもないだろう。等々。
「すごくタイプです!よかったらメールください」
「かっこいいね。会いたいな」
 5時間かけて撮った写真を載せると2件のレスがついた。誰からもレスをもらえない人がほとんどだから、なかなかいけているのは事実だろうと酒井は自信を持った。
 ところがよく見ると、他の人は投稿する際に匿名のメールアドレスを入力していることに気付いた。だから気に入った相手にはメールを送るだけで、掲示板にレスなどしないのだ。しかも自分のひとつ前の投稿が1週間前と過疎化している上、3、40代の中年がごろごろしている掲示板だから、単に希少価値で選ばれているだけだとわかった。
 東京の掲示板に移ってみたが今度は流れが早すぎて、載せてもあっと言う間に人目のつかない過去へと追いやられてしまう。結局、今住んでいるくらいの地方都市がちょうどいいという結論に至った。繰り返し顔写真を投稿するのはリスキーだと思って、文字だけで募集をかけて個別に画像交換をするようになった。同じ土地で繰り返せば同じ人に当たる可能性が高いから、酒井は自室にいながら日本全国を転々とした。
 ようやくスマホに返事が届く。
「先送ってくれたら返します!O(≧∇≦)O」
 写真の交換を要求したくせに自分は受け取って返さない者がいる。それでこんな言い方が常套句になっていることを酒井は知っている。
「こんな感じです!」
 酒井は今朝のベストショットを添付して送信する。

[ 5 ]

 東京は選り好みが厳しい。少しでもタイプでなければ容赦なく切り捨ててくる。人が多い分、もっと格好いい奴がつかまるだろうと平気で断る。写真を送ってそのまま音沙汰がなくなる奴や「ごめんなさい」が多くて酒井は嫌気がさした。はじめたばかりの頃は嘘をつき相手をその気にさせて断ることに心を痛めていたが、自分が断られて腹を立てるに及んで、その復讐とばかりに平気で自分も断るようになっていった。
 東京は偏りすぎていると都合よく解釈して地方に移った。都会は駅で地域を指定するが、地方は市内のどの辺といった指定が多くて土地勘がないと難しかった。地方は車社会なのだと、自分の住む河亦市を振り返ってもつくづく思った。適当に別の土地に移ったりもしたが結局、土地勘のある自分の地域の掲示板を選ぶことが多くなっていった。最初は自分の外見の評価を知りたかっただけなのに、いつの間にか酒井は相手を期待させた上で落胆させる悦びに囚われていた。


 写真を返してこない相手に酒井は苛立ちを覚え始める。酒井が送ってから18分経っていた。
「交換なんで、そっちのも送ってもらっていいですか」
 やはりイケてないんだろうかと不安になって酒井はまた自分の写真を見返す。スマホが主流になってから、腕を伸ばし自分にカメラを向けて撮る人が少なくなったような気もする。かわりに洗面台の鏡越しに撮る人が増えたようだ。レンズとの距離が取れてより自然に映るから、高画質なカメラと相性がいいのだろうか。それとも余白を十分に取れるからだろうか。とにかくナチュラルに写ることが大切だ。いかにも顔を作っているという風は避けていく。上目使いで唇を尖らせて、画面いっぱいに顔を大写しにするのはいかにもあざとい。
「おくりますO(≧∇≦)O」
 ようやく届いた写真は、上目使いで唇を尖らせて、画面いっぱいに顔を写したものだ。細い眉で髪は少し茶色に染めているようだ。特別顔の造作が整っているわけでもないが、この世界ではまあまあというレベルだろうか。自動的に始めてしまう品定めを中止して酒井は、そんなことはどうでもいいと苛立つ。結局、俺がOKなのかNGなのかを判定してくれなくちゃ意味がないのに、何も書かれていないと腹を立てる。しかし返信はしない。何も返ってこなければNG、話を進めようとすればOKなのだからと、酒井はただ待つことにする。

[ 6 ]

 何も手につかないまま部屋をうろついたり掲示板を眺めたり、パズルゲームのアプリを立ち上げてはすぐ落としたりしながら30分が経つ。返事がないのは、俺が返事を返さないからだ、俺の方が断ったと相手が思っているからだと酒井は気付いて、
「かわいい感じですね!えーと、OKですか?」
と返すと即座に
「ちょっとタイプではないみたいです。ごめんなさいO(≧∇≦)O」
と着信が入る。
 酒井は顔を真赤にして握りしめたスマホを床に叩きつけようとするが、分別が力を込めたままゆっくりと体ごと向きを変えさせ、ベッドに軽く落とすだけで済ませる。素早くチェストの最上段を開けて中を漁る。奥から白いガラケーをつかみ出す。今のスマホに買い替えた時に、もう一回線つければ安くできると量販店の店員に騙されて無駄に契約した携帯だ。久しぶりに起動して慣れない操作に苛つきながらiモードで掲示板を開く。自身が今朝募集をかけた掲示板だ。酒井はログを必死でさかのぼる。
 部屋のドアが控えめにノックされる。苛立ちを隠しもせずに乱暴にドアを開けると高2の弟が部屋の前に立っている。部屋には入ってこない。
「あのさ、今日カノジョが遊びにくるんだけどね……」
 弟は、だから、家を明けてほしいという意味で言っているのだ。弟がカノジョを部屋に招くときは、共働きの両親が帰宅する夜7時まで酒井も外出するという習慣ができている。弟がはじめて連れてきたときに酒井が家を明けて以来の習慣だった。気を遣ったというより、恋人を連れた自分の弟を見るのが忍びなかっただけだった。そのうち負け惜しみで「気の利く兄」の顔をしてへらへらしながら出ていくようになった。そうやって自ら習慣化させたくせに、弟がそれを当然のように期待することに今の酒井は苛立ちを感じた。酒井はサルみたいに歯をむき出しにして怒りを露にする。
「なんでユーヤがセックスするために俺が出なきゃいけないんだよ」
とはっきり言うと弟は顔を真っ赤にして泣きだしそうになる。性的な単語が恥ずかしいのだ。
「俺だってここの住人なんだよな。お前らが部屋でヤってようが、そんなこと、俺が自分の部屋にいるかどうかと関係ないもん」
 強気で発言するとき不安感から相手の目を見ない癖が酒井にはあったが、今は弟の方が視線を外してうつむいているのでその顔をにらむことができる。酒井はつくづく、この弟の顔は問答無用でイケメンだと思う。背も酒井より高く、誠実そうな顔つきだ。犬のようだと思う。ちょうど使える顔がここにある。
「出掛けてもいいけどさあ、そのかわり、ユーヤの写真撮らせてよ」
 不審感をたたえた目で見返されて酒井はたじろぎ、手の中でケータイをくるくる回す。しばらく黙って何事か考えていた様子の弟が結局
「なんで」
とあいまいな質問をする。
「……スマホの電話帳に写真登録しておけば、着信があったときに表示されて、便利だし」
 答えるそばから酒井は、何の答えにもなっていないと思う。弟がますます怪訝そうに顔を曇らせる。
「変なの」
 変か。確かにおかしなことをしていると酒井は思う。急に馬鹿馬鹿しくなって自嘲気味に笑う。その笑いを、兄の態度の軟化と解して弟もやや安心して表情を緩める。いずれにせよ外出していてほしい弟は、兄の奇妙な要求をのむことに決める。
 廊下は暗いので部屋に弟を招き入れてベッドの端に座らせる。ガラケーからスマホに持ち換えて内蔵のカメラを向けると、弟はへへへと照れて笑いながらピースサインを控えめにつくる。シャッターを切って笑顔を保存する。
 ああ、と酒井は思わずため息を漏らす。これが本当に撮りたかった写真なのだと今わかる。弟もスマホの画面を覗き込む。
「あ、なんか変な顔してる」
 本人は鏡に映った自分の顔しか見ていないから普段の笑顔を変だと思う。しかしこの方がよっぽど自然だと酒井は思う。親しみが湧いて安心できる。かっこよく作った顔より、笑顔で崩れてる方が安心できるのだ。こんな顔を撮ればよかったと思う。しかし自分一人では撮れない。
「変じゃないよ。いい顔してるよ」

[ 7 ]

 母親が朝用意して台所のテーブルに置かれたままの弁当をカバンに入れ、酒井は外に出る。昼2時を過ぎている。自販機でお茶を買い、駅近くの公園に向かう。どこか食べる場所を探すつもりだったが、子供連れの母親や老人が多くて一人食べるのを躊躇する。見慣れた場所のつもりでもどこにベンチがあるのかわからない。天気もいいしのんびり外でと考えていた酒井だったが、理想的な居場所などそうないことに気付く。しばらくうろついて結局、並木道の脇のやや奥まったところに設置されたベンチで済ませることに決める。
 弁当に手をつける前にガラケーを取り出す。掲示板の続きを読んでいくがO(≧∇≦)Oの投稿は見つからない。O(≧∇≦)Oは応募専門の奴かもしれないと諦めて酒井は自ら募集の投稿をする。アドレス欄にはガラケーのメールアドレスを打ち込む。小さな弁当箱をカバンから出した直後、早速ガラケーの着信音が鳴り酒井は驚く。スマホは常にマナーモードにしているが、ガラケーは久しぶりに起動したので設定を忘れていたのだ。
「カズっていいます。掲示板見てメールしました。写メ交換できますか」
 お前じゃないと酒井は思ったがせっかくなのでスマホからガラケーへ今朝の自撮り写真を転送して、「こんな感じです」と返す。


 弁当箱を開ける。半分がご飯で、残りのおかずは全体的に茶色い。きんぴらごぼうと春巻き2本、小さいハンバーグが2個だ。高校生のころカバンの中で弁当箱が傾き、煮汁がこぼれて教科書を汚したとき、母親にそんなおかずを入れるなと詰ったことをふと思い出して酒井は心を痛める。
 またガラケーの着信音が鳴る。軽く舌打ちしながらガラケーをマナーモードに切り替えてメールを開く。さっきの奴からの返信だと思っていたが違った。
「どこ住みですかあO(≧∇≦)O」
 O(≧∇≦)Oからのメールだ。メールアドレスも同じ。よし、引っかかったと酒井は空いた手で拳を握る。
「河亦市内です。おれは171×59×19の大学生です。これから会えませんか」
 手早く返信するとすぐにO(≧∇≦)Oからメールが入る。
「写メ交換できますかO(≧∇≦)O」
 酒井はスマホを取り出し、出かける前に撮った弟の写真をリサイズしてガラケーのアドレスに送る。
「こんな感じです」
 弟の写真を添付して返信する。まあ、遺伝子はたいして変わらないしと妙な言い訳を思い浮かべているうちにメールが届く。
「かっこいいですね!送りますO(≧∇≦)O」
 以前にもらったのと同じ写真だ。上目使いで唇を尖らせた、大写しの顔。茶色に染めた短髪。
「今から会うってできますか。足ないんで駅とかだとうれしいです」
 多少展開を急ぎ過ぎているかという気もしたが、これまでの経験で、顔写真の交換もしないうちに、ただタチかウケかだけを聞いて会おうとする人もざらにいたことを思い出し、そんな世界だから大丈夫だと自分を納得させて送信する。
「おっけーです!河亦駅でいいですかO(≧∇≦)O」
「はい。改札前で待ち合わせましょう」
「40分くらいで行けますO(≧∇≦)O」
「じゃあおれもそれくらいに行きますね」

[ 8 ]

 目的の相手を捉えることができたので掲示板の投稿を消去する。O(≧∇≦)Oの前にメールを返した相手からそういえば返事がないことをふと思い出す。こちらから写真を送っているのに返されていないと腹を立てて見返したら、その相手は昼前にフッた「カズ」という奴だとアドレスを見て気づく。相手は自分の朝と同じ写真を見て黙って返さなかったのだ。ひょっとして今朝と俺のアドレスが違うことに気付かれただろうかと一瞬酒井は不安になるが、別に関係ないなと考えるのをやめる。それよりもO(≧∇≦)Oを上手く騙せたことに安堵する。
 脇に置いていた弁当を手に取ってようやく酒井は食べ始める。もう3時をまわっている。ちょうど低学年の小学生が下校する時間らしく、幼く喧しい声が耳に届く。視線を注ぐと不審者に仕立て上げられかねない恐怖から酒井は目をふせ、食べることに集中する。几帳面におかずとご飯を交互に口に運びながら小学生たちの何かきゃっきゃ言う声を聞いている。
「やめなよー、先生にわかったら、ど叱られるよ」
 かわいい声の「ど叱られる」という言い草が楽しくて、ふと酒井が顔をあげると子供たちがこちらを見ている。驚いて酒井の箸が止まる。一人の男児が近づいてくる。「やめなよお」「危ないよ」と言いながら他の子供もついてくる。ついに目の前で止まって酒井を見上げている。ベンチに座った酒井よりも、立っている子供たちの方が低い。酒井は唖然として食事を忘れている。先頭の肉づきのいいふっくらした男の子が口を開く。
「あのー、高校生の人ですか?」
「あ、いや、大学生ですよ」
「いつもここでお弁当を食べてますか?」
「いや、今日だけですよ」
 緊張して敬語で応じてしまうが途中からは変えられなくてそのまま酒井は敬語で話し続ける。子供たちがまた黙って酒井を見上げる。いたたまれなくて、しかしその場を急に去ることもできずに、酒井はスマホを取り出して視線を移す。いつも人目のある場で所在ないときは「スマホを見てる人」になってごまかす癖がある。
「あ、スマホ」「さわらせてもらってもいいですか?」
 もちろんかなり嫌だったが、どう断っていいのかもわからずに、緊張から愛想笑いさえ浮かべて酒井は子供たちにスマホを手渡した。
「あーっ、おれそれ使い方わかるし」
 「ぼく」のイントネーションで言う子供独特の「おれ」で横から別の男児が画面を覗き込む。
「うちお母さん持ってるよ」「ぼくんちもあるし」「ねえわたしにもさわらせて」「これおれがこの人からもらったんだしダメでしょ」「ええーっ!? なんでそんなふうに決まってるの」「だってこの人がおれにくれたんだから、あたりまえだし」「おかしいよそんなの」「ちょっとやめてっ。勝手にさわらないで! へんなふうになるじゃんかーっ」
 興奮して子供たちの声が大きくなる。音が高すぎて耳が痛くなる。通りすがりの大人たちがこちらに視線を向ける。不審者になりたくない酒井は、知り合いの大人のふりをして、にこやかな顔を必死で作って子供たちを眺めている。子供に不慣れでどうしていいかもわからない。
「えっと、あんまり、乱暴に触らないで下さい」
 誰も酒井の言うことを聞いていない。酒井はもうスマホなど捨ててこの場から去りたいとさえ思う。
「あっ、ふるえてる!」「ほんとだ!」「ねえこれバイブっていうんだよ。これバイブっていうんだよ!!」「わたしメールがきたと思う。そしたらふるえるから」
 酒井はあわてて子供の手からスマホを取り返そうとする。驚いた子供が反射的に手を引き込める。子供の手首をぐっと握って、スマホを奪い返す。子供たち全員がびっくりして顔をひきつらせる。子供の手首の意外な熱さとやわらかさの感触をまだ手に残して酒井は罪悪感にかられる。
「あ。失礼しました」
 子供たちの顔はまだこわばって黙っている。子供たちの顔を見られず、酒井はスマホに視線を落とす。LINEだった。母親が「こんやのご飯は、なにがいいですか」と聞いている。その下に寿司のスタンプがある。もう決まってるなら聞かないでほしいなと苦笑しながら酒井はハンバーグのスタンプを送信する。弟は彼女と過ごしているからかまだ返事がない。
「あのう。僕ですね、もう行かないといけないのででしてね……」
 子供たちの顔を見ず、言い訳みたいに口の中でもぐもぐ言いながらスマホをポケットにしまい、食べかけの弁当箱もカバンにしまう。酒井があわただしく荷物を片付けて立ち去ろうとすると
「お兄さん」
と声をかけられて振り返る。いちばんスマホをいじっていた子が
「ありがとうございました」
とふにゃふにゃ動きながらお辞儀する。他の子供たちもばらばらに「ありがとうございました」とちょっとお辞儀した。
「あ、いえ、こちらこそどうも……」

[ 9 ]

 駅の改札から少し離れた位置で待っているとガラケーにメールが入る。
「いま駅についた~O(≧∇≦)O」
 酒井は返事を送らない。
 改札の奥から乗客は流れてこない。電車が到着した気配はない。酒井は視線を改札からバスターミナルに続くエスカレーターに移す。登ってくる人たちのうちにO(≧∇≦)Oらしい背丈、雰囲気の男を見つけ、あわてて視線を外す。携帯をいじるふりをして視界の端で捉える。O(≧∇≦)Oは人を探す様子でうろついた後、酒井の斜向いの柱に背をもたせかけてメールを打ち始める。酒井はさりげなく距離を離して観察を続ける。
「改札の前にいます。もういますか?O(≧∇≦)O」
「黒いジーンズにオレンジ色のパーカー着てますO(≧∇≦)O」
「れんらくください。待ってますO(≧∇≦)O」
 何通ものメールが入るが酒井は返さない。こいつはセックスの期待に胸膨らませて馬鹿みたいに駅までのこのこ出てきて、ここにいるはずもない俺の弟の顔を探して、会えないし連絡も取れない苛立ちと焦りを感じて待ち続けたあげく、最後に騙されたことに気付き、コケにされた屈辱にまみれてむなしく帰途につくことになる。酒井は泣き出しそうな顔で眉をしかめて液晶を睨む。断られた腹いせに勢いで始めてみたものの結局罪悪感に耐えられない。胸から腹にかけて丸太を押し付けられ駅の柱との間に挟まれて、その上ゆっくりねじりあげられるような、ほとんど実体のある痛みを感じてかろうじて立っている。ごめんなさい。実は急用が入って行けなくなりました。会えません。本当にごめんなさい。せめてそう返事だけでも書くべきだと考えても携帯を握る手に力が入りすぎてまるで指も動かない。本当に馬鹿なことをした。一生、この日、自分は卑劣なやり方で、全く無益に純粋な悪意で赤の他人を陥れたと、この汚れを拭えずに思い出すたびに耳を塞ぎたくなるような苦痛に侵されないといけないのかと思って、酒井はいっそ直接謝ろうかと思い始める。
 謝ればめちゃくちゃに罵られるかもしれない。駅にいる人全員が注目するかもしれない。ひょっとすると報復にネットで個人情報をさらされたりするのかもしれない。それでも一生この苦痛を思い出して恥ずかしさにまみれている以上にひどいことなんてない。
 そこまで酒井は思いつめても柱に張り付いたままで動かない。この人に罵られるのは構わなくとも、他人に奇異の目で見られるのが今更怖くて一歩も踏み出さない。一人で勝手に疲れ果てて真っ白な顔を力なく上げると、そのO(≧∇≦)Oと視線がぶつかる。O(≧∇≦)Oは視線を外さず、にっこりさわやかに笑って軽い足取りで近づいてくる。
「こんにちは~O(≧∇≦)O」
 酒井はぼんやりした顔でO(≧∇≦)Oを見つめている。
「メールくれた人ですよねO(≧∇≦)O」
「いえ、ちがいます」
 俺は、違います。送ったのは、弟の写真なので、俺よりもっと、イケメンのやつで、俺じゃないです。
「またまたあ(ワラ 写メくれたじゃんO(≧∇≦)O」
「……そういえば、今日、あなたと写真交換しましたけどこっちがフラれて、別に会う約束とかしてないですよね……別の人と約束されてたとかじゃ、ないですか……」
「もらった写真はなんか別の人のだったけど、メールくれたのはあなただよww そだ。駅前のマックでちょっと休みませんか??O(≧∇≦)O」

[ 10 ]

「なんか食べますかあ?O(≧∇≦)O」
「あ、俺、さっき食ったばっかなんで……」
「そかww おれも~。じゃあ飲み物だけ買うねO(≧∇≦)O」
 O(≧∇≦)Oがマクドナルドで酒井の分もまとめて注文する間も、酒井を連れて階段を上がる間も、酒井は混乱し続けている。メールアドレスも変えて、自分の顔ではない写真を送っている。それで送り主が自分だと断言される理由が酒井には思いつかない。確かにフッた相手がちょうど待ち合わせ場所にいるのは不自然かもしれないが、市内でたった一つの大きな駅なのだから偶然いることだってあり得ない話ではない。それでマクドナルドに移動するまでの間に何度かO(≧∇≦)Oに、メールを送ったのは自分ではないと主張してみたが、あっさり笑って否定されるのだ。
「てか前もらってた写真よりぜんぜんかっこいいよ~O(≧∇≦)O」
 酒井はついさっきまで真剣に謝ろうと悩んでいたことなどすっかり忘れ去っている。
 2階に上がりO(≧∇≦)Oは席を探す素振りも見せずに、6、7歳くらいの少年が一人で座っているボックス席を迷わず選ぶ。O(≧∇≦)Oが少年の隣に座り、酒井は困惑しながらその向かいに座る。この子は誰だ。この子も性交に参加するのだろうかと思い恐怖する。
「ぼく、今日だけであなたからおんなじ写メ3枚ももらっちゃったよ~O(≧∇≦)O そんなに写メ出してたらマザーコンピューターに取り込まれちゃうようO(≧∇≦)O」
 O(≧∇≦)Oはゆっくりした口調で、しかし質問を挟む余地を与えず話し続けている。幼児がとっておきの秘密をうちあけるような顔で、恥ずかしそうに、でも嬉しそうに話し続ける。


 O(≧∇≦)Oが言うには、出会い系掲示板に載せたりメールで交換された自撮り写真を、マザーコンピューターが収集しているという。「Hello World!」という名のマザーコンピューターが、人類の滅亡した後に仮想現実上のアバターとして利用するため人々の顔を収集しているのだという。酒井はこの場を今すぐ去りたいと思っているが、つい気を使って真剣に聞いている態度でうんうん頷いている。
「ぼくね、あなたとは東北や東京や関西や、いろいろなところでもう会っているんだよO(≧∇≦)O」
 隣の男児は聞いているようないないような曖昧な顔をしておとなしく座っている。O(≧∇≦)Oが言うには写真をネット上に流した数が多いほどHello World!に捕捉される率が高まる。角度を変えたり撮り直したりしているとアバターにされ易いという。
 なるほど。うんうん。と酒井は相手を怒らせたくない一心で無意識に相手に合わせて相づちをうっているうちに、半ば本気でそうかと思い始めていく。とにかく早く家に帰りたいという気分で焦っている。
「そうか。だからHello World!に取り込まれないために、写真をやり取りすべきではないということだね」
 もはや酒井は相手に合わせるような発言さえ口にする。
「あなたは早くやめた方がいい。間に合う気がする。でもぼくはもうダメだよO(≧∇≦)O 完全にHello World!に取り込まれちゃってる。だからどんどん顔を変えてるんだ。髪型とか眉とか変えたりして、ちがう顔のぼくO(≧∇≦)Oの写真をどんどん取り込ませて、逆にパンクさせる。ひとつのアバターにまとまらせないってことO(≧∇≦)O」
 O(≧∇≦)Oは酒井に携帯を出させ、これまでの出会い系でやり取りしたメールを全て消させる。いつかHello World!が端末にまで入り込んでくる恐れがあるからだという。
「もうひとつ持ってるよね??O(≧∇≦)O」
 スマホに残っていたメールも目の前で消させられる。
「ね。そんなふうに『記号』にされて、永遠に生きるだなんて、ひどすぎるもんね!O(≧∇≦)O」
「いやあ、ほんと、俺、そういうこと全然知らなかったし、本当に、怖いな」
 酒井のその合いの手をまるで無視して、O(≧∇≦)Oは急に隣の子供の肩を抱き、頬を寄せる。
「でも子供はさ、子供はぜんぜんちがうよ!O(≧∇≦)O だって子供はどんどん変わっていくからね。Hello World!が追い付けないくらいにすばしっこく、すり抜けちゃうんだよ! 希望。この世界の希望だよ~O(≧∇≦)O」
 男児も酒井もぼんやりした顔をしている。
「じゃあぼくはもういくねO(≧∇≦)O ぼくは出会いの底なし沼に沈んでしまった人たちを、救い続けたいんだO(≧∇≦)OO(≧∇≦)O」
 O(≧∇≦)Oは軽やかな足取りで去っていく。飲み終えたファンタグレープ(S)の紙コップをきちんとゴミ箱に捨てて帰る。酒井と男児が取り残される。

[ 11 ]

 子供の前にはハンバーガーもポテトもジュースもない。子供は3DSを手に持って、フタを開いたり閉じたりしている。手元にじっと視線を落としている。
「あの、ゲーム、やりたいの?」
と酒井が、さっきの反省で今度は敬語を使わずにおずおずと問いかけると
「あ、」
と一瞬間があいて「はい」と返事がくる。酒井が「やっていいよ」と答えるとほっとした顔をして子供は3DSを起動する。小さな子供の手にはやや余る大きさの3DSをしっかり握っているのを見て懐かしい気分を少し感じながら、酒井もようやく息をつく。
 さしあたって今この瞬間、自分たちが他人からは「親戚の子供といるお兄さん」くらいにしか見えないはずだと思って酒井は安心する。しかしすぐさま、いったい今自分がどんな状況に置かれているのか、これからどうすればいいのか、どうなっていくのかを、どう考えればいいのか手がかりもなくて途方に暮れる。
 O(≧∇≦)Oに連絡を取りたかったが、O(≧∇≦)Oだけでなく出会い系でやり取りした人全てのメールを消されてなすすべがない。一通でも残ってないかとむなしく探す途中で、酒井は思わず「うおっ」と声を上げる。子供が顔をあげる。3DSを操作したい気持ちとのはざまで奇妙な動きをして酒井の反応を待っている。酒井は
「ごめん、だいじょうぶ、続きしてていいよ」
と答えて子供はゲームに戻る。
 酒井は、O(≧∇≦)Oが今日最初にメールのやり取りをした「カズ」と同じ男だと今ようやく気づいた。自分と同じように2台、ひょっとするとそれ以上のSIMカードを所持して、雰囲気の違う顔写真を使い分けていたのだと気づいたが、それがわかったところで連絡が取れるわけではないので意味がないことにも気づいて、落胆する。


 このまま待っていればO(≧∇≦)Oが戻ってくるかもしれないし、また連絡があるかもしれないと、酒井は安易な考えを選択して自分を落ち着かせようとする。けれど、もし帰ってこなかったら、もしずっと連絡もないままだったらと不安は増して胸が苦しくなってくる。
 酒井はとにかく目の前の子に話を聞きたいとずっと思っているが、熱心にゲームをしている中へどう声をかけていいのかわからずにタイミングを失し、そうなるとますます声をかけづらくなる。もう20分は経っている。ちらちら伺っていると、子供がゲームをポーズにして顔をかく瞬間が訪れる。酒井は意を決する。
「あの、ちょっといい、かな」
 子供が久しぶりに顔を上げる。
「さっきまで隣にいたお兄さん、ってさ、君の家族、かな?」
 子供は黙って首を振る。さっきのお兄さんがどこへ行ったか知ってる? お兄さんの電話番号とか知ってる? あのお兄さんとは、知り合いなの? 全ての質問に子供は黙って首を振る。ようやく酒井はとんでもないことになったと理解する。誘拐という言葉を、その次に「未成年者略取」という言葉を思い出す。それから最近ニュースで見たベビーシッターの事件を思い出す。ネットの掲示板で知り合った見ず知らずの相手に子供を託したところ、その相手と連絡がとれなくなった挙げ句、子供は殺されてしまったという。
 落ち着かない気分でぐるぐる考えてふと子供がこちらを不安そうに眺める視線を意識する。
「あっ……ごめんね……ゲーム続きしてて大丈夫、だよ」
 警察に知らせるべきだと考える。しかしすぐに無理だと思う。ゲイの出会い系掲示板で知り合った見ず知らずの人と、会う気もないのに待ち合わせて、結局会ったら子供を渡されました、とでも言うのだろうか。しかも、その人とはもう連絡も取れません。
 間違いなくこちらの親も呼ばれるだろう。ひょっとして退学なんてこともあり得るのだろうか。また不安が増して息苦しくなってくる。なんとか警察を通さずに解決したい。直接この子の家に送り届ければいいかもしれない。でもすでに警察に届け出ているかもしれない。とは言え少しでも穏便に事が済む可能性があるならそれを選ぶしかない。
「お母さんはいるけど、お父さんはいないです。お母さんは今仕事に行ってて家にはいないです」
 子供に話を聞けば、駅から自宅への位置関係は理解していないようだが、学校の名前と、学校からの帰り道はわかるという。この子の母親が帰るまでに家の前まで連れていって置いていけば大事にもならないだろうと酒井は安堵する。気持ちに余裕が生まれて、子供への配慮がようやくできるようになる。
「喉とか、乾いてない?」
「あっ。ちょっとだけ……」
 渡した百円玉を握って子供は席を離れる。小さな体がふわふわ動いて階段を降りていく。酒井は目を固く瞑って体がひどく疲れているのを感じる。

[ 12 ]

 子供がジュースを買いにいったままなかなか帰ってこない。夕方の店内は高校生やサラリーマンで混み始めている。一人でボックス席を専有していると思われている気がして耐えられずに酒井は席を立つ。このままあの子を家まで送っていけばいいと思う。もっと話を聞こう。学校の授業のことや、友達のこと、今はまってる遊び、さっきまでずっと3DSで遊ぶか必要なことしか聞いていなかったし、もっとちゃんと、いろんな話を聞こうと思いながら階段を一段一段下りていく。
 1階は客席がなくレジカウンターだけで半分外のようになっている。カウンターから少し離れた位置で、ジュースのコップを持った子供が警察官に話を聞かれている。階段の入口に突っ立ったまま酒井が眺めているとサラリーマンが通り過ぎざまにわざとカバンをぶつけて邪魔だと罰してくる。
 二人と目があう。警察官が子供を連れて酒井の方に向かってくる。人の流れの妨げにならない位置に移動させられる。通行人や店の客、店員が好奇心むき出しで視線を投げつけてくるのがいたたまれない。警察官の手元にこの子の顔写真がプリントされた紙がある。携帯で撮ったらしい画質の低い写真が引き伸ばされて、A4の紙に印刷されている。写真の中で子供がぴかぴか笑っている。こんな顔して笑うんだなと思う。この写真だ。本当に撮るべき写真はこんな写真だと思う。
 警察官が何か話しかけ続けていることは酒井にもわかっている。しかし耳に流される言葉が焦点を結ばない。ただ表面を滑り落ちていく。話を聞いていないと思われて、気を悪くさせたくなくて酒井はずっと、はい。はい。と答えている。警察官が次第に険しい表情になっていくのを酒井は見ている。ただもう帰りたくて仕方がない。
 スマホがポケットの中で震えていつものように酒井は取り出す。LINEの通知だ。弟が天ぷらのスタンプを送信している。急に警察官に腕をつかまれて酒井はスマホを取り落とす。
 今日の晩飯、なんだろうな。