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創作のブログです。

堀川くんと俺

 朝5時に2階の窓から隣家の庭を見下ろしたら、10歳くらいの少年がこっちをじっと見上げていた。はっきり俺の目を見ていた。磯野家の子供ではなかった。無表情なまま大きな頭がぐらぐらゆれていた。
 少年はまだ雨戸も開いていない家の縁の下へもぐりこんだ。15分ほどたってひどく汚れた体で出てきた。そして帰っていった。翌朝も同じだった。その次の日は来なかった。


 予備校の帰りに駅の階段から突き落とされた。
「堀川です」
 あの少年だった。無表情なまま大きな頭がぐらぐらゆれていた。腰も背中もずきずきと痛んで息もできなかった。
「大丈夫ですか?」
 堀川くんは勝手にタクシーを呼んで俺を押し込め、家まで走らせた。着くなり親父を呼び出して金を払わせ、俺を2階の自室まで運ばせた。そして堀川くんは俺の部屋まで当然のようについてきた。
「ぼく、ワカメちゃんの同級生です。かもめ第三小学校の3年生です」
 堀川くんが親父にそう言うのを聞いた。親父は何度も礼を言っていた。
「甚六さんの部屋からだとワカメちゃんちがよく見えますね」
 しかし堀川くんは窓の外を見ていなかった。部屋の中をめちゃくちゃに歩きまわっていた。歩いている間は頭はしっかり止まっていた。急に立ち止まって、ベッドに横になった俺を見下ろした。頭がぐらぐらゆれていた。無表情だった。
「じゃあ帰ります」
 その日から飼い犬のハチがいなくなった。近所の人も手伝って家族総出で探し回ったが結局見つからなかった。


「おじゃましてます」
と堀川くんは言った。勝手に俺の部屋にあがっていた。オレンジジュースが盆に乗って正座した膝の前に置かれていた。頭がぐらぐらしていた。俺を見上げていた。
「甚六さんはワカメちゃんのうちをよく見ますか」
「堀川くんはワカメちゃんのことが好きなの?」
 堀川くんは急に握りこぶしで床を打った。怒ったのかと思ったが無表情のままだった。やや斜視気味の目が、どこを見ているのかわからなかった。堀川くんはオレンジジュースの残り一口を飲み干して、なめらかに窓を開けてコップを外へ投げた。磯野家の瓦屋根にうち当たってコップが割れた。中からサザエさんとフネさんが慌ただしく縁側に出てきて屋根を見上げた。高い位置から見下ろすと人間というより人形が動いているように見えた。
「甚六さんは恋人がいますか」
 俺はポテトチップスを堀川くんに渡した。堀川くんは袋の口をわずかに開けて空気を逃がしたあと、ぺしゃんこになった袋を床に置き、握った両手で中身を砕き始めた。手の動きとは独立に頭が激しくゆれていた。それから右手を猫のように熱心に舐め始めた。唾液でまんべんなく濡れた手を袋に突っ込んで引き抜いた。手の表面にべっとりついたポテトチップスの粉末をまた丁寧に舐めとっていった。3回繰り返したあと、チップスの袋を折り畳んで短パンの尻ポケットに差し込んだ。
「残りは犬にあげます」


 堀川くんはそれから5日連続で来て、そのあと7日来なかった。
 予備校から帰るともう部屋にいた。家族は、知的好奇心の旺盛な小学生が、俺を兄のように熱心に慕っていると思っているようだった。堀川くんは部屋の中を歩きまわって、様々な昆虫の生態のことを一方的に喋り続けた。人間の価値尺度で測ると、あまりに残酷だったり、不条理だったりするような話ばかりだった。ほとんどおとぎ話か、教訓のように聞こえた。ポテトチップスを買い置いていた。口の中でたっぷり5分もふやかしてから食べたり、形を全て分類してから食べたり、毎回作法が変わっていたが、いつも半分以上を残して持ち帰っていった。
 そして来なくなった。ポテトチップスが溜まっていった。毎朝窓から隣家の庭を眺めたがそこにも姿はなかった。見逃しているのかもしれないと疑って、予備校に通うのをやめて一日窓から見張るようにしたが現れなかった。7日後に玄関チャイムが鳴った。堀川くんはハチを連れていた。首輪とリードが変わっていた。そしてひどく肥っていた。歩いていたのを偶然見つけたという。ハチは旺盛な食欲がもとに戻らず肥り続けていった。
 その日、堀川くんにどんどんポテトチップスを食べさせて肥らせる夢を見た。すごく気に入って、眠る前にベッドの中でそのイメージを思い浮かべるのが習慣になった。


「カツオくんは、日記を書いているの」
「書かないですよ。書いてもいつも三日坊主なんです。ほら、ぼく、ほんとに坊主頭じゃないですか。夏休みの絵日記だって最終日にお父さんに書いてもらうんですよ」
 話しかけるとうれしそうに三倍くらい返してくれるのがカツオくんらしいなあと思った。そうしてひとしきりしゃべってから、どうしてそんなことを聞くのという視線を向けてほんの少し、不安げな顔をする。
「たまたま物置を整理していたら、子供の頃に書いていた日記が見つかってね。今の子も書いているのかなと思って」
「すいませんぼく、書いてないんです。でもワカメは書いてますよ。いつも寝る前にノートに書いて引き出しにしまってます」
 俺は物置の整理なんてしていないし、俺は子供の頃に日記なんて書いていない。
 磯野家から人がみんないなくなることはめったにない。サザエさんが夕飯の買い物に出て、フネさんとタラちゃんの2人になるのが日常での最小人数だ。門から子供部屋のある方へまわる。ここの窓の鍵はいつも開いている。カツオくんが大人の目を盗んで遊びに行くからだ。靴を脱いで音を立てないように部屋へ入る。学習机が2つ、窓を挟んで壁際に並んでいる。どちらがワカメちゃんのかは一目瞭然だ。脇の引き出しの1段目を開けると、もうそこに「にっき」と書かれたノートがあった。ざっと目を通すと、1日に2行ほどの文章で、ここ12ヶ月分の日記だった。それより古い物もないかと別の引き出しを探っていると、未就学児童に特有の、電子音に似た足音が近づいてきた。
 ノートの背をくわえ、廊下に面したふすまに素早く身をよせて、両手でふすまのへりを抑えた。電子音が止んだ。ふすまを開けようとする力が手に伝わってきた。
 タラちゃんは何度もふすまを開けようとした。間歇的に正確なリズムでふすまを開けようとしてくる。幼児とは思えない力で、腕を突っ張って全力で押し返さないと敗けてしまいそうだった。
「おばあちゃーぁん……カツオお兄ちゃんのお部屋があかないですーぅ……」
 電子音が遠ざかる。
 ワカメちゃんの引き出しを全て元に戻し、窓を乗り越え外へ出る。音を立てないように窓を閉めようとするが木枠がきしむ。閉めきった瞬間、奥でふすまが開く音を耳にする。
「そうかい? ふつうに開くようだけれど……」
 フネさんとタラちゃんのいぶかしむ声を、窓の下で、壁に身をよせて聞いた。


 両親も妹も出かけて一人だった。昼寝から目覚めたら夕方になっていた。堀川くんが部屋を歩きまわっていた。他人の家に断りもなく入るなんて言語道断だと思った。
「だめじゃないか、不法侵入だぞ! 子供だからって絶対に許されない!」
 記憶にないくらいの大声を出した。大きな声を出してみたら、怒っているという実感が増した。となりの波平さんもこんな気持ちなんだろうな。この際、平手で頬を思い切り張りたおしてみようと思った。堀川くんは部屋の中をめちゃくちゃに歩きまわっていた。
「だまれごくつぶし!」
 歩きまわりながら、俺より大声をだした。それから様々な昆虫の生態のことを一方的に喋り続けた。
「ワカメちゃんの日記を盗んだんだけど、読む?」
 ベッドの端に座って堀川くんは膝の上に置いたノートをぱらぱらとめくっていった。俺はその隣で堀川くんの手元を覗いていた。堀川くんは頭が激しく揺れ、いったいそれで物が読めるのだろうかと思った。堀川くんはときどきページを指でさした。日曜日の箇所だった。いつも日曜日は空欄だった。
「その日記には堀川くんのことはどこにも載ってないよ」
 覗き込むように横顔を見つめたけれど、堀川くんは無表情のままだった。気にしているのは、いつも空欄の日曜日だけだった。読み終わって返されたから、ワカメちゃんの日記はそのままゴミ箱に捨てた。部屋が暗くなってきていた。電灯のスイッチを入れようとしたら
「まだ、待ってもらえませんか」
と堀川くんは言った。頭が揺れていなかった。二人でベッドの端にとなりあって腰かけていた。あっという間に部屋が暗くなった。起きているのに部屋が暗いままでいるのは変だった。子供のころから付き合いがあるのに知らない顔を見せられた気がした。色がなくなって、カーテンをひいていない窓から入る外の光を元手にして、ものの輪郭が残っているだけだった。堀川くんは、黙っているし、歩きまわってもいないし、頭もゆれていない。
 堀川くんが立って窓を開けた。
「聞こえますか。これ、一家団欒の声」
 今夜は波平さんもマスオさんも帰りが早かったみたいだ。にぎやかな声が適度に減衰して俺の部屋に流れ込んできた。夜7時くらいだろう。二人で窓辺に立って、磯野家を見下ろしていた。
 堀川くんは尻ポケットからスイッチを取り出した。
「甚六さんにだけ。ちゃんと見ててください」
 堀川くんは一瞬、犬みたいな呼吸をした。磯野家を指差した。つられて指の先を視線が追った。
 何が起こったのかわからなかった。巨大な地震が真下で起こったと咄嗟に思った。音と衝撃の区別がつかなかった。磯野家の縁の下から土煙が噴き出すのを一瞬見た。けれどすぐに土煙が激しく立ち上って視界を遮るのと同時に、体がはじき飛ばされて床に尻餅をついた。目の前の堀川くんが遅れてふらふらと倒れこんできた。胸でその背中を受け止めた。子供の体温が熱くて、動物だと思った。
「立たせて。ねえ、いっしょに見て」
 堀川くんの両肩をささえて立ち上がり、窓の外を見た。磯野家がそのまま低くなっていた。形を全く保ったまま、縁の下の高さだけ「落ちて」いた。
「あぁ~」
 堀川くんは制御できないほどの興奮に襲われていた。なすすべもないふうに俺に体重をあずけてきた。みぞおちに堀川くんの頭が押し付けられた。体に力が入らないようだった。あえぐように言った。
「家の……ぜんぶの柱っ、床下の……バランスがね、難しくて、……上の重さが違うから全然……でも、見たでしょっ! かんぺきに、同時に落ちるところ……」
 腕の中で、堀川くんが俺を見上げた。ようやく子供らしい顔をしていた。
「あのさあ、ほめてよ、甚六さん……大人でしょ」
 街灯の光があごの下、喉元、首、その肌に白々と当たっていた。なめらかすぎると思った。子供の肌がつまっていると思った。手のひらで撫でていった。包み込むというよりもう、絞め殺すような手つきになっていた。堀川くんは細かく痙攣していた。
「ポテトチップスがね、たくさんあるんだ」
 力が入らないままの堀川くんをベッドの上に運んだ。後ろから抱き止める形でポテトチップスを口に運んでいった。堀川くんはおとなしく、ふつうに食べていった。このまま永遠に食べさせつづけたいと思った。
 磯野家は引っ越していった。急に時間が流れ始めた。