OjohmbonX

創作のブログです。

ポケットヒール(赤)

 付き合い初めて3年経った彼女が何かを言いづらそうな、それでいて言いたそうな、言わずにはいられないような素振りを見せたから、ぼくは優しく呼び水となるようなことを言ってあげた。
「なんだい? 君はぼくが怒ったりすると思っているの? そんな心配、全く無用だよ。ぼくは君のすべてを受け入れられるんだ」
「……私、ハイヒールを集めるのが趣味なの」
「無職の癖に何言ってんだこの糞ビッチ。金がかかるだろうが、てめぇはわらじで十分だろ死ね」
「無職の癖に、って私はちゃんと仕事してるよ」
「いや、俺が無職なのに何ひとりで贅沢してるんだよ死ね」
「おまえが死ね。働け、稼げ、そして死ね」
 しかしよくよく話を聞いてみるとぼくの誤解だと分かった。彼女は何も、ブランドの高い新品の靴を欲しい訳じゃなくって、むしろ中古の方が好きなのだそうで、しかも本体よりかかとを集めているのだった。だからとてもリーズナブル。でもこの女、変態かもしれないと思った。リーズナブルな変態かもしれない。
 でも結婚してあげた。
「何が結婚してあげた、だ。ヒモの癖に大口たたくな」
 彼女はぼくの口に大量のわらじを詰めた。うひぃ。救急車で運ばれた。生死の境をさまよった。しかし現代の医術はぼくに死を許さなかった。
 ぼくは生きている。そしてぼくは彼女がほんとうに好きだったから、二人の間に男の子が生まれた。好きっていう気持ちはすごい。男の子を悟(サトシ)と名付けた。


 10歳になった悟は、「かかとマスターになる」と言い残して一人で旅に出た。そんな職業ねぇよ、と私がツッコむ前に家を出た。血は争えない。しかし血ばかりではないのかもしれない。隣人の大木戸さんの影響かもしれない。彼は世界的に有名なかかとの収集家、自称博士だ。いつもかかとをなめなめしている変態。「かかと図鑑」などを編纂している。変態。博士には茂(シゲル)という孫がいる。孫も変態。彼は悟と同い年で、悟より早くに旅へ出ていた。
 それにしてもかかとの収集だなんて。それならまだ息子の同級生の流風ィ君のほうがマシだ。彼は「海賊王に、俺はなる!」と叫んで冬の日本海へ向かった。赤いタンクトップで。しかし彼は名前がダメだ。DQNネームすぎるのだ。彼はその後、29歳のとき海上保安庁に逮捕された。やっぱりね。名前がDQNだからだ。悟はせっかく普通の名前を付けたというのに、かかとの収集のために旅に出るなんて。
「あら、お父さん。かかとは収集するだけじゃないのよ」
 妻が言うには捕獲したかかとは育て、他のかかとと対戦させるのだそうだ。捕獲……?
「何も知らないのね。見てて」
 華やいだ声で妻は街へ繰り出した。私はそれを追った。妻はカバンからソフトボール大の表面が滑らかな赤と白のツートンカラーの球を取り出した。
「このかかとボールで捕獲するの」
 妻の投げたかかとボールは歩行者の見知らぬ女性に正しく命中した。体にボールが当った瞬間、彼女は裂帛の悲鳴を上げて道に倒れた。
「まあ、スタンガンのようなものね。これは一番弱いボールだけど、もっと威力の強いものもあって、マスターボールバッファローの一群れを即死させられるの」
「でもバッファローはハイヒール履かないですよね」
「ですよねー」
 妻はゆっくり彼女に近づき、彼女の履いていたハイヒールのかかとを折り、「かかと、ゲットだぜ」と小声で女の耳元に囁いた。
「これが、捕獲」
 女は白目を剥いてピクピクしていた。女を放っておいて私たちは歩み去った。しばらく行ってから振り向くと、女は道端でまだピクピクしていた。歩行者たちは彼女に構わず歩いていく。世間は冷たい。


 私たちはいつの間にか隣町まで来ていた。悟と茂がいた。人通りの多い駅前で、そこだけ人の流れが滞っていた。二人は互い違いに地面に横になって、お互いが履いているハイヒールのかかとを一心不乱になめ合っていた。周りは見えず、かかとしか見えていないようだった。人の目など気にしている余裕はないらしい。涎が口の周りを汚すのも厭わず、横から舌を這わせてなめ上げてみたり、はしたない音を盛大に立てて吸い上げてみたり、その合間、きれぎれに、切実に互いの名を呼び合いながら、吐くのではないかと思わせるほど喉の奥まで突き込んでみたり、それでいてそれぞれ、脚の付け根から足首までの筋肉を大胆に使って微妙な振動をかかとに、そして相手の口へ、頬へ、舌へ、与えているのだった。
「これが、対戦……」
「いいえ、これはあの子たちが変態だから、ただ愉しみのためにしているだけよ」
 二人とも警察に捕まったらいいのに、と思った。
「あなた、ここからが本当の勝負よ」
 二人は猛然とお互いのハイヒールを食い始めた。
「どういう勝負なんだい」
「早食い」
「でもハイヒールなんか食べて、体に悪いじゃないか」
「大丈夫よ」
「そうか。大丈夫か。なら安心だ」
 二人は早くもハイヒールを食い終え、お互いの足の指をいとおしむように、ゆっくり優しくねぶっていた。
「お互いの健闘を讃え合い、礼の意味をこめて競技の後に儀式をする。日本の武道に通じる心だね」
「いや、足の指をなめ合っているのは、あの子たちが変態だからよ。とくに指の股の匂いが好きらしい」
「またのにおいはいいにおい」
「で、悟が勝ちましたよ」
「やったあ。わーい」
「ほほほ。あなたもやっぱり父親ね。そんなに無邪気によろこんで。おほほほほ」


 おほほほほほほ。おほほほほほほほほ。


 そんなこんなで私は最強のかかとトレーナーになっていた。なってみて気づいたが、あれは全然公式の対戦方法じゃなかった。本当は捕獲したかかとに金属をコーティングしたり先を尖らせたり(育成)した後、手に持ったそれで相手を力任せに殴ったり突き刺したり(対戦)するのが公式ルールだった。やっぱりね。ハイヒールを食べるなんておかしいと思ったんだよ。だって、ハイヒールはおいしくないから。
 そして今、私の目の前に、立派なかかとトレーナーに成長した息子・悟の姿がある。父である私は、彼にとって越え行くべき壁として在る。手は抜かない。全力で彼と対峙してこそ、私の在る意味を成す。
「父さん……!」
「はーい。お父さんだよー」
 しかしよく考えたら、全力で殴ったりしたら児童相談所に通告されるので困る。
 この一瞬の気の迷いが命取りだった。息子に全力でボコボコにされた。私は遠のく意識の中で最期の声を振り絞り、大切な事実を彼に伝えた。
「未だお前は最強ではない……一足先に、私を倒した者が、その扉の向こうに、いる」
 悟は私を省みず、扉を開いて行った。
 音が、視界が遠くなる。
 扉の向こうで玉座に悠然と座る茂の前に跪き、脱力して太ももへしな垂れ掛かり、彼の履いた真っ赤なヒールが皮膚を通して肉へ与える美しいリズムに、全的に許容した恍惚の顔と、繰り返し繰り返しただ名を呼ぶ声とで応える悟を、白い靄の中に、見た。何もかもが遠のくに従って、妻の笑うこえが微かな揺らぎを伴ってひそかに立ち上がり始めたかと思うと、次第しだいに笑いごえは有無を言わせず豊かさを増していき私の感知できる全てになった。


 おほほほほほほ。おほほほほほほほほ。