手のかかるロボほど可愛い
久しぶりにお話を書いた。おじいさんが博物館で出会ったロボちゃんと一緒にお散歩しながら思い出を語るお話。
https://kakuyomu.jp/works/16816700429416082011/episodes/16816700429416103893
先日、ツイッターで↓の短篇漫画を見た。(以下ネタバレ)
https://twitter.com/kujiraba/status/1456215988173561856?s=21
読んだ時、あまりに「完璧」に思えてびっくりした。
猫と幽霊の関係性が(明言はされないが)読者に明かされる瞬間のインパクトの大きさと、そこでばっさり終わって生じる余韻が、この短篇漫画の核心だとして、その関係性が明確になった瞬間に、そこにたどり着くまでに猫と幽霊の道行きで散りばめられていた様々な要素が一気に結びついていく。出会いからの雰囲気も最高だった。ロードムービーみたいに二人で旅(といっても一つの町の中で完結するが)する雰囲気が良かった。
なんかそういうようなお話を自分も書きたーい、と思った。
「本当は言葉を交わせない/意思の疎通ができない相手と、心が通う瞬間」というのはよくあるモチーフかと思う。それはペットだったり、ロボットだったりする。
ついこの間見たアニメ映画の「アイの歌声を聴かせて」もその種の物語だった。(以下ネタバレ)子供の頃に作られたAIが、実は主人公をずっと見守っていて、そのことがふいに自覚される、その瞬間にそれまでの様々な出来事が一気に結びつく、というような話だった。
あれこれ考えて、元軍人のおじいさんと、軍用ロボットが再開するという形にした。
当初、もう少し違う形にしようとしていた。
- ツアーガイド(ロボ)はたくさんお客さんを引き連れて案内している
- おじいさんは妻と一緒に来ている。おじいさんは車椅子でおばあさんに押されている
- おじいさんは無口でほとんど喋らない
- ツアーで一緒になった若い男がおばあさんの代わりに車椅子を押してくれる
- ツアーからは少し距離を置いて、おばあさんは若い男と話をする
- その中でおじいさんの過去が話されていく
- ツアーの最後に「自分は過去に救われた」とロボがツアー客に明かして、ツアー客みんながおじいさんを見る
ただあれこれ考えて、おじいさんとロボの二人きりにした。
あと、最初「おじいさんがロボを罵りながら格闘している」状況を冒頭に置いて、その状況に至るまでを前半で描いていく、という構成にしていた。エンタメ映画でもよく見るやり口で、ハイライトだったり見せ場だったりを一番頭に置いて、見る側の興味を引いて、「どうしてそうなったのだろうか」という宙釣りで興味を維持させていくようなやり方。
ただちょっと方法として消極的で、そんな小賢しいことをしなくても興味を維持させるように細部の全体の質を維持すべきだろうという気もするし、「至る点」があらかじめ明らかだという意味で退屈な道中になるとも思えて、やっぱりやめて、おおむね素直に時間軸に沿おうと思った。
ただやめたけど、「興味を維持させるように細部の全体の質を維持する」はあまり実現できていないとも思っている(それをやる気力が湧かなかった)ので、単にただやめただけかもしれない。冒頭2行だけ全体の説明を入れているので、完全に時系列にしてないのも、そうした不安や自身のなさから来るのかもしれない。
本当は最初に挙げたツイッターの短篇漫画みたいに、本当に鮮やかなお話を書ければと思って始めてみたものの、やろうとするとどうしても、殴り合いみたいなシーンは入れたいし、ポンコツロボが出てくるならやっぱりファービーのコピペ(モルスァのやつ)みたいな風になってほしいとか、そうした欲求に抗うのは難しかった。
RTAごんぎつね
カクヨムにとても久しぶりにお話をアップしました↓
新美南吉『ごんぎつね』で、ごんがRTA(最速ゲームクリア)に挑むお話です。
kakuyomu.jp
以下は書いてて思ったことの雑多なメモ。
ゲームのRTA動画を見るのが好きで(自分ではやらない)、RTAの「面白さ」を取り出して適用するみたいなことをしてみようと思った。『ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド』は自分でも遊んでいて、RTA動画も見ていて楽しかったので、それを『ごんぎつね』に適用したらどんな感じかと思って。
元のゲームを知らなくても、RTAを見て「なんかすごい」「キャラが変な動きしてる」みたいな面白さはあるけれど、元のゲームを(自分でプレイしたことがあるなど)ある程度知っていると、「普通はこうする」を知っているのでRTAの「ここが普通じゃない」が分かって、そのズレも楽しめる。
最初は「桃太郎」のお話を使ってそこそこの分量まで書いてみたけど、なんかあまり面白くなかったのでやめて「ごんぎつね」にした。
「桃太郎」は、物語と言ってもほとんどプロットなので、自由度が高すぎてRTAの面白さの源泉になるような「ズレ」ができにくいのかもしれない。RTAを見せようとするとそれなりに場面が具体的になっていないといけないので、「桃太郎」でやろうとするとそこを勝手に作っていく(自分で埋めていく)ことになる。けれど、そこは何せ「勝手に作った部分」で読む側と事前に了解が取れているものではないので、そこからズレを作っても、あんまし楽しくないのかも。
それで「もう少し具体的に描かれたお話」で、かつ「ある程度みんながプレイしたことのある(読んだことのある)お話」ということで、「ごんぎつね」にしてみたら、自分でも楽しかったので良かった。(書く作業そのものは全然楽しくはない。)あと「ごんぎつね」のお話自体が好きだったし。
RTAの面白さにもいくつか考えられて
- ゲームのキャラや事象が、現実離れしてムチャクチャでおかしい
- 目的(クリアタイム短縮)のために「本来のプレイ/ストーリー/キャラ」を逸脱して不条理でおかしい
- バグを利用した技・グリッチの原理が面白い
- プレーヤーが難しいプレイをものすごい水準でこなしていくのに感嘆する
とか色々ある。
3つ目の「バグ技の原理が面白い」、4つ目の「その原理を生身の人間が現実にやってのけるのがすごい」もRTA動画を見る楽しみの一つだけど、それには解説が必要になる。
もとの『ごんぎつね』のお話はすごくコンパクトで(小学4年生が国語の教科書で全文を読むくらいなので)、その手際のよさが好きなお話だけど、RTAの解説を入れ始めていくとその嬉しさがどんどんなくなってしまう。RTAのその3つ目、4つ目の楽しさをそこそこ感じつつ、あんまり冗長にならないように、というバランスを取った方が良いのだと感じた。それで本当はいろいろ書いていたけど、削ったりした。改めてもとの作品を読むと、多くない分量で、直接的にストーリーには奉仕しない景色や音の描写がすっと書き込まれていて、やっぱりきれいだなと思った。
あと解説を入れるのは、もうごんの視点ではないのだけれど、もとの『ごんぎつね』自体、「これは、わたしが小さいときに、村の茂兵というおじいさんからきいたお話です。」で始まるように、ほぼごんの視点で固定されているけれど、必ずしもそうというわけでもないので、まあいっか、という感じであまり気にしていない。考えれば考えただけ、突き詰めていくポイントはあるけど、それをやり始めると(そもそも書く作業自体は楽しくないので)嫌になってくるので、もう「だいたい」でやることにしてる。
『ごんぎつね』の中にRTAのお話を組み込んでいく作業なので、ある程度は文体の統一感があってほしいという気持ちもあるので、それなりにぱっと見の字面・文体は合わせようとはしている。しかし書きまわしなり場面なり「新美南吉はこうは書かない」とはっきり思ってもこっちの好き嫌いとの兼ね合いもあるので、これも「気にしつつほどほどに合わせている」みたいな感じでやった。
『ごんぎつね』は悲しい/やるせないラストが魅力的なお話だけど、せっかくだからそうじゃない方向で終わりにする方が楽しいかと思ってそうした。